100年前も100年後も変わらない湯野浜温泉の価値とは。地域で足元を見つめ直して前進する。

株式会社亀や 代表取締役 阿部 公和

天喜年間(1053〜58年)に開湯したといわれる湯野浜温泉の老舗旅館「亀や」。現会長の6代目から当主の座と代々襲名されてきた與十郎の名をいずれ受け継ぎ、7代目となるのが阿部公和だ。租税記録として残る最古の文献が文化10(1813)年のものであり、その年をして創業年としている。つまりは、それよりも古くからこの地で関わってきたほどに、阿部家と湯野浜温泉の関わりは深い。

「『家を継げ』と言われたことはありませんでしたが、小学校か中学のころに父親から、『お前は阿部の家の長男なのだから、俺に万が一のことがあった時、家族をどうするか考えておきなさい』と言われました。どうすればいいの?って考えますよね」

その後、中学2年生になった阿部公和は、先代社長で6代目当主の父親に言った。「家を継がせてください」と。高校を卒業後、曽祖父から代々通った早稲田大学に進学。そこでは勉学の傍ら、茶道部に入部し、のちに経営者となる上での資質が磨かれた。

「茶道部といっても体育会系。男女100人の部で、うちの部は完全に学生たちの自主運営だったので、3年生になると年間100万を超える予算をうまくまとめて運営することが求められました。部では幹事を務めたので、部員たちが揉めた時にどう統制を取るのかに苦労しましたが、湯野浜に戻ってきて仕事を始めてみると、茶道部で学んだことは大きかったと感じましたね。地域で起こっている問題をどう把握して、ロジカルに話せるかと言うのは部内で起こる問題にどう対処するかの構造と同じなわけですよ。いい経験をさせてもらったと思っています」

大学を卒業すると、社会経験のために就職が内定していた企業への入社をやめ、「親に土下座して長い卒業旅行に行かせてもらいました」。向かった先はイギリスだった。

「1年間滞在し、語学学校に行ったのが半分、あとはひたすら人と会ったり、イギリスの文化を見ました。階級社会が残っている様子などの日本との違いには驚きを感じましたし、ある時一緒に食事をした人からは、『今のこの時間で何が大切だと思うか? この食事がうまいかまずいかは重要なことではない。今、お前と俺がここでコミュニケーションを取っているということが大切なんだ。料理もサービスも、すべてお前と俺のコミュニケーションのための脇役でしかないんだ』と言われたことなどが印象に残っていますね」

旅館として宿泊客に何を提供するか。滞在する夫婦や友人同士がコミュニケーションをとり、楽しむための場を演出することではないか。その要素として、食事やサービス、温泉などの設備があるに過ぎない。接客業の本質に触れた対話として、阿部の頭にはその時の内容がインパクトを持って残っている。

「大学時代も旅館が忙しければ帰ってきて手伝いをしていたし、大学を出て外国にでも行かない限り、自分は亀やと湯野浜温泉と関わらずに過ごせる時間は持てない、と思ったのはイギリスに行った大きな理由のひとつです。外国まで行けば何かあっても簡単に帰れないし、好き勝手にわがままさせてもらった1年でした」

湯野浜内のバラバラの視線をどこに集めるか

帰国してから徐々に仕事を覚え、取り掛かった大きなプロジェクトのひとつは、旅行客が減少しつつある湯野浜温泉全体をどのように盛り返すかというミッションだった。その舵取り役を「亀や」が、阿部が買って出た。

「湯野浜には温泉全体を管理する源泉会社と、16軒の旅館が集う旅館組合と、観光協会というのがあります。源泉会社は、世代でいうとおじいさんたち。旅館組合がお父さんたちで、そこには青年部もあって若手もいる。最後の観光協会は基本的に若手が大半。そんな年齢の階層が生まれていて、携わる領域も重なっていたりずれていたり、という状況が続いていました。また、旅館組合はあるものの、旅行会社と契約があるので旅行会社に任せておけばいいという旅館もあれば、地元の湯治客が来れば十分という旅館も、新しいことをやって客を増やしていこうという旅館もある。

みんなの向いている方向が違うわけです。そんなまとまりのない状態の湯野浜温泉で、『みんなであっちを目指しましょう』というのは不可能だと思えたので、発想の転換をしたんです。『みんなで足元を見つめ直しましょう』と。『100年前も、100年先も変わらない湯野浜の価値って何なの?』というところを考えれば、思想を共有できるはずですから」

閉業寸前だった湯田川温泉の「湯どの庵」を「亀や」が買い取り、デザイナーズ旅館として再生させたのが1990年代後半。プロジェクトに携わったデザイナーやスタイリストとの縁から出会った二人の人物と作業を進めることになった。のちに「くまモン」で知られることになるアートディレクターの水野学と、アディダス・ジャパンのクリエイティブディレクターを務め、独立してからもファッションやスポーツの分野でブランドデザインを続ける小松裕行だ。

「出てくる答えは結局、『海』『白い砂浜』『温泉』という3つなんだよね。この3つが共存しているという軸からブレて新しく何かを作ろうとすると、結局は誰かの真似事になってしまう。それで『湯野浜100年計画』というのをみんなで共有しましょうと、まずは旅館組合の青年部が中心となって動き出しました。2002年ごろの話です」


地道に湯野浜温泉全体でイメージの共有を続けた。温泉入浴教室を主催したり、地域に必要なものなどのアンケートをとったり、お金を出し合って散策路の整備をしたり。そして阿部が観光協会長を任された際には、『100年計画』の主体を観光協会に移し、行政の支援も受けながら夏にイベントを催すなどして活性化に努めた。夏には毎日海岸で花火を打ち上げ、夜には“クラゲ水族館”こと加茂水族館のナイトツアーを行い、集客への効果も生まれた

「亀や」単体としても、水野学のデレクションによるフロアを新設。小松裕行と東北芸術工科大学が手を組んで一部屋ずつ異なるデザインを手がけた11階は丸ごと、フロアに独立したエグゼクティブラウンジを設けた「HOURAI」というエグゼクティブ客室フロアとしてリニューアルした。湯野浜から日本海を望む温泉に浸かり、ここでしかできない特別な宿泊体験をプロデュースする試みが形になった。

新しい湯治体験とエコの両立

やがて、温泉観光地としての抜本的な取り組みが始まる。環境省と鶴岡市が手を組み、温泉のインフラをすべて入れ替えるプロジェクトの立ち上げだ。

「かつて庄内地方の温泉地がなぜ栄えたかというと、出羽三山を詣でる人たちが多くいて、身も心も清めた後に、もう一度俗世に戻るために精進落としをする文化があって、それを温泉地で行なっていたという由来があります。温泉に入り、おいしい食事でもてなす文化です。その考えが、『詣でる、浸かる、いただきます』。

そこに、全国で『新しい湯治』を実践できるモデル地区を探している環境省との出会いがありました。湯野浜の源泉を旅館全体で管理する仕組みが2000年ごろに作られ、町の中を温泉の配管が巡らせているんですが、その接合部分の劣化が進んできたので、地域の継続のために入れ替えるなら今だというタイミングだった。もともと湯治場でもある湯野浜温泉で、CO2の削減にもつながる温泉システムの入れ替えの計画を打ち出したのです」

今までは、地域全体で管理する源泉から、それぞれの旅館に温泉のみを供給するシステムを使用していた。シャワーなどのお湯は施設ごとの加熱設備で沸かして利用していたのだが、温泉から得られる熱で水道水を70度まで加熱する設備を地域につくり、すべてのお湯をセントラルから配給する仕組みを整備することにした。そのためには、既存の温泉配管を太く強固なものにする必要があるが、その整備を行えば、50年は持つだろうと言われている。投資が必要だが、長期的な視点に立つと経済的であり、環境負荷を下げることでサステイナブルな観光産業の助けになる。

「2013年に環境省の担当者が視察にやってきて、2014年にプロジェクトがスタートしました。温泉システムを入れ替えることがCO2削減につながるということを伝えたところ、環境省としては個々の旅館のメリットになるプランを提出してほしいということで、2年かけてシステムをつくり、3年目の2016年に事業化しました。この仕組みで、地域全体で15%のCO2削減目標に対して、おそらく23%近くの削減に成功しています」

マイナスをプラスに変えるために

環境省への補助金申請も通り、総事業費11億円をかけて温泉インフラの問題をクリアした。しかし、地域にはさらなる課題がある。マイナス要因として横たわるののひとつが、少子高齢化に伴う人口の減少。高齢者率は40%を超え、人口の減少でいくつもの商店が閉店した。もうひとつは、地域唯一の産業である観光業における集客力の低下と人材不足。

「マイナス1とマイナス1を足し算するとマイナス2になりますが、+を45度傾けて×にすれば、マイナス×マイナスでプラスに転じます。そこで生まれたのが、地域に高齢者が大勢いるんだったら、その人たちを活用しましょうという発想です。高齢者が買い物難民になるのなら、旅館がストックしている品物を販売しましょうとか、ご飯を食べるところがないのなら、旅館が社員食堂を充実させてそこで食べてもらいましょうとか。

健康のための運動プログラムがないのなら旅館で作れるはずですし、温泉があるのだから温泉に入って健康になってもらえます。既存の設備でプログラムを作り、サイエンスパーク発のベンチャー企業であるメタジェンさんとか、ヒューマノーム研究所と一緒になって、その健康のありようのデータを取っていけば、次世代につながるプログラムとして引き継がれていけるはずです」

湯野浜の歴史と温泉地としての特性、さらには地域が抱える課題を共有し、協会や組合の、あるいは世代間の隔たりといったものが薄れて、目指す先を共有できるようになった。『湯野浜100年計画』が概念的な枠組みとして活動指針となっていた状況がしばらく続き、2018年には、ついに湯野浜100年株式会社として組織が正式に立ち上がった。旅館組合などの各組織が出資し、湯野浜100年株式会社が総合戦略と具体的な施策を計画。それを各組織が実行し、生まれた利益を地域に還元していく循環型モデルができあがった。地域開発、未来開発、そのために必要な内外のコミュニケーション。国民温泉保養地の認定を取得し、名湯100選にも選ばれた湯野浜の魅力はもちろんのこと、過疎が進む観光地のビジネスモデル、ソーシャルモデルが提示される可能性が期待を誘う。

「湯野浜の海のど真ん中に沈む夕陽や、早朝に満月が沈む姿もすごく綺麗。金比羅山から湯野浜越しに鳥海山を一望した景色も素晴らしいんですよ。月のエネルギーだったり、自然のエネルギーを感じられる場所ですから、それを変わらずに受け継げる仕組みを若い世代にも伝えていきたいですね」

住所 山形県鶴岡市湯野浜1-5-50
名称 株式会社亀や 代表取締役 阿部 公和