地元の水と米、育成された杜氏たち。庄内で生まれた品種「亀の尾」を開発した阿部亀治翁の思いを引き継ぐ。
鯉川酒造株式会社 代表取締役社長 佐藤 一良地元の水と米、育成された杜氏たち。庄内で生まれた品種「亀の尾」を開発した阿部亀治翁の思いを引き継ぐ。
鯉川酒造株式会社 代表取締役社長 佐藤 一良江戸時代の享保10(1725)年に創業。幕府直轄の天領であった余目の地で、300年近くにわたって鯉川酒造は地域に根付いた経営を続けてきた。先代の急逝によって34歳にして代表の座に就いた11代目、佐藤一良は、庄内で生まれた幻の米「亀の尾」をはじめとする地元産の材料にこだわって酒造りを行う意図について話してくれた。
「庄内地方に限らず山形県全体でいえることなのですが、どこの酒蔵も技術指導が丁寧で、杜氏さんを他所から連れてくるのではなく、自分たちで育てて酒造りの技術を代々引き継いでいます。山形県としてGI(geographical indications=地理的表示伝統的な生産方法や気候などの生産地特性に由来する産品の、地理的表示を知的財産権として保護する制度)を取得していますが、その中で庄内地方の特性に絞り込んで、100年スパンで庄内地方のGI取得も目指せたらと考えています」
三方を山に囲まれ、海に面し、平野の広がる庄内地方の自然条件。そして、長く酒造りが続く伝統に裏打ちされた品質。鯉川酒造の代表であり、現在は山形県酒造組合の副会長も務める佐藤一良は、山形県全体で質の高い日本酒が作られていることを前置きした上で、庄内地方独自のGI取得について「孫の代ぐらいあたりまでに、地域内での格付けもしっかりできるようにしたい」と語る。
「山形県でGIを取得したというのは、フランスのワインでいえば、ブルゴーニュ地方、ボルドー地方で地域名を表示することでスタンダードを保てるようになったのと同じことなんですね。その先には、フランスだと村の名前がブランド化されていて、そこがきちんと保護されています。庄内地方は例えば、ブルゴーニュ地方にコート・シャロネーズ “黄金地帯”と呼ばれる銘醸ワイナリーが並ぶエリアがあるんですが、そこを目指せるんじゃないかと考えています。その時にやはり、地元の米を使った地酒というのが非常に重要になってきます」
佐藤は幼い頃からピアノを続けてきた。父親がジャズを、母親がクラシックをよく自宅で聞いていた影響から、ピアノに夢中になった。鯉川酒造の跡取りではあるが、いずれピアニストになりたい夢を諦められず、東京で日大芸術学部に進学し、在学中からセミプロとして活動を続けた。
「バンドを続けながら、たまに歌手のバックでピアノを弾いたり、事務所からそういう仕事をもらうこともありました。ただ、4年間で芽が出なかったらやめるということは決めていて、やはり、どうしても才能ある人と自分の差は歴然としていたので、歌手のバックができる程度ならやめようと。それで就職活動をして入社したのが、協和発酵というアルコールメーカーです」
いずれ跡を継ぐことは決めていたが、3〜4年の経験を積んで実家に戻る「預かり社員」ではなく、「一般社員」として入社した佐藤は、まず営業を担当した。そして3年目、優秀な営業成績を上げていたことが評価され、海外研修の機会を与えられた。
「そこですっかりワインに目覚めました。本社酒類マーケティング部で輸入ワインの企画を立てて買い付けに行くなど、海外出張の機会も増えました。そうするとやはりソムリエの資格を持っていないとまずいと。地域ごとに特性を出していることなども知り、仕事をすればするほどおもしろいので、先代である親父と相談して、こんな機会は滅多にないからと伝えて合計で11年間、ワインに関わる仕事を続けました」
東京で本社勤めをしたのち、仙台支社での勤務も経験し、1992年に帰郷した。そして1年後、父親が急逝する。醸造試験場で酒造りのことを学ぶ佐藤が、卒業を間近に控えた頃だった。34歳にして父親の後を受け、社長の座につく。
外から庄内地方を見て、そこには固有の自然と文化があることを改めて認識した。そして、ヨーロッパをはじめとする各地のワイン産業と文化の知見を深め、日本食の人気が世界的に高まっている現在、ワインと同様に食中酒である日本酒にも世界で愛されるポテンシャルがあると感じた。
「フランスをはじめ、ヨーロッパやアメリカでは日本食が非常に好まれています。寿司屋、割烹、ラーメン屋なんかは10年前ぐらいから爆発的に増えています。当然ですけど、生魚の旨みや酢飯の酸味との相性などを考えると、どうしても和食のテーブルはワインでは網羅しきれません。日本では今、第3次吟醸酒ブームといって、香りが高くて少し甘めのお酒が非常に受けています。しかし食中酒として日本食と一緒に味わいたい人たちが多い国に行くと、香りよりも、料理に合うか合わないかという基準をすごく重視しています。山形県の酒造組合では15年ほど前に一度皆でアメリカに視察旅行に行って、バイヤーなどと会ってきました。その頃から輸出も始めていて、県内53社のうち40社が、庄内地方の18社もほとんどが海外でも受け入れられています」
佐藤は庄内産の日本酒を酒に馴染みのない日本の若い世代や、海外に発信を続けるために、地域の個性をプロモートする必要性を強く感じている。地元産の米を使った酒造りという話から、一つの貴重な品種の名前を挙げた。「亀の尾」。漫画『夏子の酒』で幻の米として有名になったが、実際は庄内地方で生まれた品種であり、コシヒカリやササニシキ、つや姫などのルーツでもある。
「東田川郡の小出新田村(現・庄内町)に住む阿部亀治翁が『亀の尾』を開発しました。最初に亀治翁が目指したのは、寒さに強い米です。当時、冷害で米が取れないと、農家の8人兄弟や10人兄弟の娘が、温泉旅館に売られてしまうようなことがあったわけです。それを少年時代の亀治翁は見てきたのでしょう。尋常小学校を中退したかどうかの貧しい農家の生まれでしたが、近所の長老などから米のことを教わって、抜き穂をして特異変質の株を集めていったんです。そんな中、明治26(1893)年に、集落の熊谷神社という、今は栗畑になっているところの神社の脇の田んぼで、すごく寒い時期に3本の稲が立っていたというんですね。それを所有者から譲り受けて、生育させてみたら他の株よりも寒さに強いことがわかり、数年かけて収量を増やして寒さに強い品種を確立させた。それが『亀の尾』です。
食べてもおいしいし、酒米としても適していた。しかし、背が高く育てにくかったり、除草剤に弱かったり、要するに手間のかかる品種なんです。言い方は悪いですけど、田んぼの仕事に時間をかけられない兼業農家は面倒を見きれない。そこでコシヒカリなどが開発されると、背が低くて、米がたくさんなって、味としてもおいしいお米ですから、取って代わられてしまうのは当然かもしれません。昭和初期のことですね」
しかし佐藤の父は、地元の誇りであり、実際に酒米としても食用米としてもおいしいと言われてきた「亀の尾」を復活させない手はないと考えた。亀治翁の遺言通りに保管を続けていた阿部家から種もみを譲り受け、復活栽培を行ったのが1980年。翌年に1本目の酒を作った。現在も阿部家の現当主が佐藤と中学時代の同期ということもあり、「亀の尾」を育てたいという問い合わせを受けると、きちんと品種が広まるためにという思いを込めて、阿部家に頼んで配分用に種もみを提供してもらっている。
「阿部亀治翁が冷害に負けないように、という思いで『亀の尾』を開発した時の気持ちをみんなで共有して、いいお米といいお酒を一生懸命つくりたい。その思いだけですね。問い合わせがあればきちんと対応しますし、製造技術などの質問があれば、できる限りお教えしています。実際に亀治翁も、困った農家が全国からやってくると、お金も取らずに種もみを提供していたらしいんですね。金儲けのことを一切考えていなかった。天皇に捧げられるお米を完成させられた、という誇りを胸に、昭和2年に病気で亡くなられたと聞いています」
鯉川酒造では「亀の尾」を中心に庄内産の米と月山から流れる伏流水を用い、地元で育った杜氏たちの手で庄内産の酒造りにこだわり続ける。そして、ワインの仕事をした経験値を庄内ならびに山形の酒のブランディングと発信にも活用している。
「協和発酵の本社ではマーケティング部にも在籍したので、新製品を出すと、店頭やイベントでのプロモーションからTVCMまですべてに携わっていました。広告代理店と仕事をしていたので、そこでノウハウを身につけることができました。こっちに戻ってきて、酒造組合の仕事に関わるようになると、広告代理店に丸投げをして、ボコッとお金を取られて下請けの優秀な人たちにはお金が行かない状況が続いていたんです。それではダメだと。代理店に頼らず、すべて自分たちでやろうと考えてから評判が上がりました。イベントの時は地元のアナウンサーに出ていただいて、クリエイションも地元の人たちに協力してもらって一緒につくりあげています。自分たちの思いをどうやって形にするか。それが一番重要なんですね」
そうしたプロセスを経て、酒造組合で共有する意志が高まり、冒頭に記したGI山形の取得に至った。
「今後の造り酒屋の未来を考えると、絶対に取得しておいたほうがいい認証です。山形県の酒造組合で話すと、やはり皆さん、取りたいとおっしゃったんですね。それから山形県として取れるか、などの議論を重ねて紆余曲折がありまして、申請書類の提出までに2年をかけ、提出後の審査に2年かかり、4年越しで2016年12月16日に国税庁から認定されました。これは非常に大きなことです。それによって注目が高まり、IWCという世界最大のワインコンテストの日本酒部門の審査が、2018年5月に山形県で行われました。世界のソムリエの人々を接待したりしながら、若手も一体になって山形県の酒が認められていく手応えを感じました。我々にとってエポックメイキングなことだったと感じています」
そしてゆくゆくは、山形県としての発信に加え、より集中的に庄内地方からもその特性を発信できるはずだ。その考えから立ち上げた会社の一つが「イグゼあまるめ」だ。
「余目の駅前に倉庫があって、そこにあるレストラン『やくけっちゃーの』(アル・ケッチァーノの奥田シェフ監修)の経営や、温泉事業、温水プール事業、ふるさと納税の発送業務など、要するに町おこし全般を担う会社です。目的は町民の利益のため。奥田シェフなど鶴岡の人たちとも交流がありますし、酒田にも多く知り合いがいますから、この会社での活動を通じて庄内地方が一つになれるようにネットワークを築いていきたいですね。民間レベルではそうした意識を持っている人々が多いですから、『酒田が』『鶴岡が』などという主張をして分かれてしまわず、一緒に『庄内』として発信できたら発信力は高まるし、文化としても魅力的だと思っています」
佐藤一良は若くして社長を任され、常に「判断力」を大切にしてきた。自分が決断の判子を任された時、いかに後悔しない判断をできるか。パズルのように、どれを選択すると何が起こるのかを書き出し、頭の中であらゆるシミュレーションを行なった上で最適解を見つけ出す。その判断は、庄内に流れる時間のもとで、リラックスした環境で行わな
いといけないと佐藤は語る。庄内の酒文化がぶれることなく、成長を続ける背景がその言葉には垣間見えた。
住所 | 山形県東田川郡庄内町余目字興野42 |
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名称 | 鯉川酒造株式会社 代表取締役社長 佐藤 一良 |