武士が刀を置いて鍬を手にした。そして生まれた世界一のシルクを再び日本独自の産業とするために。

鶴岡シルク株式会社 代表取締役 大和 匡輔

鶴岡は日本で唯一、蚕の飼育から製糸と織物・染色・縫製まで、シルク製品の生産工程を一貫して担える地域だ。そのきっかけは、明治維新だった。戊辰戦争に敗れ、賊軍の汚名を晴らすために庄内藩士3,000人が刀を鍬に持ち替えることを決断したのだ。先達の開墾の精神と高い品質を再び鶴岡から発信する意図をもって「kibiso」ブランドを立ち上げ、「鶴岡シルクタウン・プロジェクト」を推進するのが鶴岡シルクの大和匡輔だ。

戊辰戦争で旧幕府軍として戦った庄内藩は、新政府軍に敗れて賊軍となった。官軍である薩摩藩の西郷隆盛公の意向が働いたと言われているが、他の藩とは処遇が異なり、藩の解体や藩主の流刑などを免れることができた。そこで藩主の酒井家と藩士たちは賊軍の汚名を晴らすために、輸出品として重宝された生糸の生産によって新国家の発展に貢献しようと考えたのだ。大和は語る。

「その開墾の地となったのが、ここ松ヶ岡です。基本の理念は、『武士たるもの、農民たちから土地は奪わない』『農民の米作りを侵さない』。鶴岡のお城を解体してこの地に移築し、松ヶ岡開墾場と名付けたことが養蚕から絹製品づくりまでを一貫して行える鶴岡の絹産業の原点です。まずは養蚕を始めました。蚕ができたので、武士の娘さんたちが製糸技術を学びに群馬の富岡製糸工場に向かい、戻ってきて製糸産業を形にしたのです」

ここで一人の重要な発明家が鶴岡に現れる。絹の自動力織機を発明した斎藤外市。綿の自動力織機を発明してトヨタグループの創始者となった豊田佐吉と双肩をなし、同等の藍綬褒章を受章した鶴岡出身の発明家だ。明治時代末期には、斎藤が発明した力織機が日本で使用される力織機の半数を占めるまでに至ったと言われている。

「かつては和装用の生地を織るのが一般的でしたが、斎藤外市が発明した自動力織機によって、輸出用の広幅の生地を効率的に織ることが可能になりました。その機械をいち早く実用化し、養蚕から生地の生産までを一貫して行ったことによって、鶴岡では他の絹織物の産地との差別化に成功したのです。開発を促進し、地域の産業を発展させる仕組みは、のちの鶴岡工業高校に見られるような人を育てる環境づくりにも反映されました」

やがて鶴岡の就業人口の6割を絹産業関係者が占めるようになり、明治、大正時代には日本が世界一のシルク生産国となった。だが、2度にわたる世界大戦などで技術革新に取り残され、日本の絹産業は20世紀後半、衰退の一途をたどった。シルクが安い合成繊維に取って代わられ、高級品の生産に特化して発展しようと舵を振り切ることもできず、世界のシルクの0.1%以下のみを生産する国に成り下がってしまった。

地元の産業に貢献するために

鶴岡に生まれた大和は、子どもの頃から地元でサッカーに明け暮れた。高校時代に腎臓を患ってしまい、サッカーができなくなると方向を見失いそうにもなったが、家族や周りの人の支えもあって勉強に励み、東京の大学で薬学部に進学する。卒業すると外資系の製薬会社に就職し、大学病院を担当するMRとして営業に勤しんだ。しかし時代はバブルの真っ盛りだ。毎晩の接待、週末にはゴルフと、20代ではできないような贅沢な体験を最初は楽しんだが、程なくして疑問を感じるようになったという。

「薬剤師の資格を取って仕事を続けたわけですが、薬剤師としての仕事をまっとうできているのかという疑問を感じたんです。そこで一度リセットしたいという思いと、あと長男でもあるので、鶴岡に戻ろうと考えました。25年前のことです。父は羽前絹練という会社でオーナーに雇われて社長をしながら、母を社長に立てて東福産業という会社も経営していました。絹織物の染色やシルクスクリーンによるプリントを行う会社です。ところが戻ってみると、大赤字で大変な状態になっていました」

立て直しを喫緊の課題となった状況で、大和はリサーチのために中国やアメリカを訪れた。とくに国を挙げて最新の機械やコンピューターを導入することに熱心な中国では、「バブルが弾けたばかりの日本が立ち向かっても敵わない」と痛感したという。ただ、日本だから、庄内だからこそ勝てる何かがあるはずだと必死で考えた。

「一つは職人の技術力。そしてもう一つが、水です。シルクの産地というのは、染色のためにも製糸のためにも大量の綺麗な水が必要です。庄内は、鳥海山や月山の伏流水に恵まれた水の豊かな土地です。そこでこの水をうまく活用し、高度な職人技で色のコクや深み、糸と生地の質にこだわった風合いや着心地を実現することができる。安全で、身にまとう人が五感でその価値を感じられるものづくりをすることこそ、これからの日本が目指すべき仕事だと考えました。歴史を振り返ると、養蚕から製糸、機織り、精練、染色、プリント、縫製と、絹生産のすべての工程ができる土地は日本に鶴岡しかない。そう思い返したとき、なんとかなるはずだという確信のようなものが生まれました」

先代の知恵を受け継ぎ、革新につなげる

庄内の絹産業をどうにかしなければ、と奮闘することになったきっかけの一つは、諸先輩方の思いだった。庄内藩主である酒井家17代目である酒井忠明当主や、旧鶴岡市の12代目市長にして、合併後の鶴岡市で初代市長を務めて地域振興に奔走した富塚陽一氏らに、絹生産の技術力に裏打ちされた産業をどうにか残して欲しいと要望された。

「私はこの状況を横糸と縦糸で紡がれた反物に例えられると思っています。縦糸は、先人たちがつないできた歴史であり、文化です。そして横糸は、その時代ごとの新しいデザインであったり、素材や技術であったり、革新の部分です。私たちはその『横糸』として、人工クモ糸の開発を続けるスパイバーさんや、寒河江市を拠点にウールを手がける佐藤繊維さんなどとコラボレーションを行ってきました。それぞれの技術を組み合わせて他にはない素材開発をすることで、先人たちの技術を未来につなぎ、様々な可能性を生み出せると考えているのです」

自身の父親も含む地元の諸先輩方からは、シルクの特性、庄内に紡がれた歴史、発展し受け継がれてきた技術など、あらゆるものを学んだ。そして、人間にとって最も優しく、洗練された繊維素材であり、2000年前から人々が使ってきたシルクの魅力を広く知ってもらうためにはブランディングが必要だと考え、2007年に立ち上げたのが「kibiso」だ。そのブランド名は、蚕が繭を作る最初の段階で出す糸、「きびそ」に由来する。

「元々は製糸工場で必ず出てくる副産物であって、今まで織物にされてきたことのない素材」だと大和は「きびそ」について説明する。太さもまちまちで、いわゆる絹糸にするにはゴワゴワしているが、蚕がサナギを守るための素材であるから抗アレルギーや抗酸化作用を持っており、スキンケア用品の材料として使用されてきた。人の肌に優しい素材であり、これまでの一般的な繊維素材とは異なる風合いを持つ「きびそ」。そこに気づかせてくれたのは、たまたま東京から訪れたクリエイターだった。

「元東京ファッションデザイナー協議会議長の岡田茂樹さんが製糸工場を訪れて『きびそ』に着目して、日本を代表するテキスタイルデザイナーの一人である須藤玲子さんを紹介してくださったんです。そこで岡田さんがプロデューサー、須藤さんがテキスタイルデザイナーとして素材開発に携わってくださいました」

両氏との出会いによって、プロダクトの質やスタイルの完成度を高めるのと同時に、大和が先輩たちから学んできた庄内という土地の特性をブランディングに織り込むことは、「kibiso」として不可欠だった。

「ここは日本のシルクの産地の北限です。いうならば、東方シルクロードの終着点です。庄内藩士3000人が刀を鍬に持ち替えて、鶴岡の松ヶ岡という土地を開墾して生み出したのが、この地のサムライシルクなんです。それはラストサムライの生き様です。このコンセプトを発信するためには、当然これからはEコマースも必要になってきますが、リアルな場所として、我々の原点である松ヶ岡開墾場に『kibisioショップ』をオープンし、クリエイターたちが集まれる環境を作ることは重要でした」

これまでにテキスタイルデザイナーの須藤玲子監修のもと、シアタープロダクツやソマルタ、まとふ、ミントデザインズといった気鋭のデザイナーたちがプロダクトを手がけてきた。近年は、イタリアのミラノ博やアメリカでもニューヨークやワシントンで開催された展示会などにも参加し、高い評価を得ることにも成功した。一方で、出羽三山のためにシルク製の御朱印帳を作ったり、加茂水族館のネクタイをシルクで作ったりと、地域に密着した製造も続けている。日本遺産にも登録された松ヶ岡開墾場を拠点に、新たな絹織物の産業を醸成することで、多くの人に希望を届けたいという思いを大和は抱いているのだ。

「私の座右の銘は、西郷隆盛公が庄内藩士に残したとされる『気節凌霜天地知(きせつりょうそうてんちしる)』という言葉です。いかなる困難も、それを凌ぐ強い志を持ってあたれば必ず道は開けるという意味です。『天は見ていてくれる』という意味が込められていますが、その『天』は上司であり、先人たちであると思っています。私が殿様や前市長に『頑張れ』『ありがとう』という言葉を頂戴して努力できたわけですから、私も自分よりも下の世代を評価して、自分が責任を取るからという思いで色々と挑戦してもらえるようにしたい。これからは、縦糸をきちんと未来につなぐことももっと意識していきたいです」

住所 山形県鶴岡市大宝寺日本国223-5
名称 鶴岡シルク株式会社 代表取締役 大和 匡輔