誰もが広く建築のアイデアを出せるためにBIMというデジタルモデリング技術を導入。庄内から全国に新しい建築を発信する。

ブレンスタッフ株式会社 代表取締役会長 仲川 昌夫

1991年に創業し、建築の設計・監理、構造設計から測量事業まで、さらには関連する調査・マネジメント・コンサルティングまでを行うブレンスタッフ。創業者で代表取締役会長の仲川昌夫は、BIMと呼ばれる最先端のソフトウェアをいち早く導入して建築の革新を提言するばかりではなく、庄内一円を巻き込んだ1000人クラスの自転車レースを企画するなど、地域貢献のために無尽蔵のエネルギーで動き続けている。

取材当日の朝からの動きを聞くと、その体力にまず唖然とさせられた。

「今日は朝3時半に起きて、4時から1時間走って、それから少し畑仕事をしてから朝飯を食べて、会社に来ました。午前中の仕事が終わってから、昼休みには1500メートル泳いできた。このインタビューが終わったら自転車ツーリングイベントの実行委員会の集まりがあって、夕方は商工会議所だ。はははは。なんだろうね、やりたいことをやってるだけなんだけどね。よく人からは『マグロだね』って言われますよ。マグロは泳ぎ続けていないと死んじゃうって言われてるからね」

多趣味な人だが、仕事でのこれまでの取り組みを聞いても、そのバイタリティは他を寄せ付けない。

高校を選んだ理由はバスケットボール部

仲川昌夫は遊佐町の吹浦で生まれた。子どもの頃は夏には朝昼晩と海に行き、岩ガキやアワビ、コダマガイ(アサリに似た貝)などを採取した。海では釣りに明け暮れることもあれば、鳥海山の麓の「神秘の泉」と称される丸池様や牛渡川に足を運び、近隣の野原で石器や土器などを掘って遊んでいた。そして、中学を卒業すると鶴岡工業高校の建築科に入学。「バスケットボールをやりたかったんだよ」と笑うが、建築の勉強には純粋にのめり込んでいった。

「建築には数学的なおもしろさと、デザインが入っている造形的な魅力がある。単なる工学ではなく、総合芸術みたいな部分があって、そこに楽しさを感じたのかもしれないね。卒業して東北工業大学で建築を専攻したんだけど、高校時代の知識がかなり役立った。数学的な難易度は大学に入るともちろん高くなったけど、工業高校の建築は仕事につなげるという意味でもレベルが高かったんだと思う」

大学時代には教授の紹介で構造計算のアルバイトをし、実践で知識を増やし、技術を磨いた。将来は鶴岡に戻ることを前提に、卒業後には上京し、鉄骨やRC(鉄筋コンクリート)構造を使った大きな物件の設計に携わることで、経験値を積もうと考えた。だが、1970年代。徐々にコンピューターの開発が進む時期と重なったことで、視界が大きく開けた。

「まだパソコンが普及する前の時代だけど、構造設計に新しい基準が生まれて、コンピューターで構造計算を行う時代に入ったんですよ。20代後半の頃だね。大学を卒業して設計事務所に勤めてから、70年代後半にソフトウェアを開発する会社に転職した。コンピューターで構造設計をする時代の走りだったから、どうせだったらただコンピューターを使うだけではなくて、ソフトウェアをプログラミングする立場でコンピューターのことを知ろうと考えたんです」

最先端のものは、そこに可能性を感じたらすぐに手を出す。子どもの頃から活発に遊び、学び、動き回っていた原動力そのままに大人になったのかと尋ねると、「今はサボることも覚えてだいぶズルくなったけど」と笑いながら、その原動力として意外な単語を仲川は口にした。

「劣等感ですよ。自分は色々と人より劣っていると感じていた。小さい頃は吃音があって人前でうまく話せなかったし、成績もよくなかった。3人兄弟の末っ子なんだけど、上2人は優秀で、自分は劣等感があったから頑張ろうと思った。与えられたことを頑張って、可能性がありそうなものにはなんでもチャレンジする。それを積み重ねてきて大人になったんでしょうね」

ソフトウェアメーカーに3年勤め、30歳で庄内に戻ってきた。

「こっちに帰ってきて、それこそ今から35年ぐらい前だけど、当時は田舎として東京より劣っているみたいなイメージを多くの人が持っていた気がする。実際にはそんなことないんだよ。一級建築士の資格を持っていて能力もある人間は庄内にもたくさんいたんだけど、東京より劣っているからと、最先端なことにチャレンジするイメージを持っている人があまりいなかった。

だから私は最初に、自分も含めて一級建築士を5人集めて、みんなが対等な立場で色々とチャレンジできる設計事務所を作ったんですよ。そういう事務所を作れば、東京の下請けから仕事の規模を大きくして、庄内の地域づくりに貢献できるような地元の大きな仕事もできると考えたから」

当時、建築の世界では、事務所のボスである「オヤジ」がいて、その下で勤めた従業員がやがて独立する、というのが当然の図式だった。しかし、独立すると小規模から始めることを余儀なくされ、公共事業に小規模な新規事業者が参入することもできず、せっかくの能力が持ち腐れになってしまうケースが大きかった。拡大志向を持っていた仲川にとっては、もどかしい環境だった。とはいうものの、一級建築士5人で対等な立場に立ち、同じ未来のイメージを共有することは難しかった。そして立ち上げたのが、現在のブレンスタッフだ。

「能力を持った建築士が、さらに能力を高めるためにはいい仕事と出会う必要があります。私は東京で働いていたから、まずは構造設計などの下請け仕事がないか東京で営業して、大きな競技場や超高層ビルの鉄骨図などの製作図と呼ばれるものを受注した。徐々にスタッフの数を増やし、今度は構造だけではなくて意匠の部分も担当できるように、元請け仕事を取れるような体力をつけていった。既存の設計事務所と合併をしたり、優秀な若手を採用したり、地道に規模を大きくしてきたわけです」

新しい技術を積極的に活用する

コンピューターで構造設計をするCADというソフトウェアが普及する頃には、CADの代理店やスクールも運営することで、庄内の建築業界の底上げに尽力した。そして今着目しているのが、BIM(Building Information Modeling)という建築設計システムだ。

コンピューター上で3Dのモデルを組み上げて地震などに対するシミュレーションを行い、施工プロセスや細かなコストなども一貫してマネジメントすることが可能になる。ブレンスタッフではBIMを使って、dpc(digital pre construction)という独自の技術サービスを提唱する。実際に施工に取り掛かる前に、デジタルで建ててみてシミュレーションするプロセスだ。無理や無駄をなくし、性能、コスト、工期を適正化する。このプロセスを経れば、工事が始まってから「こんなはずじゃなかった」という施主の声を聞くことはなくなるはずだと仲川はいう。

「私たちの世代は、手書きで設計を覚えて、構造や意匠などをトータルでやってきましたが、CADが普及してからはほとんどが分業になって、トータルで建築を経験したことのない人がほとんどなんですよ。BIMを使って物事を動かせるようになれば、1から10までマネジングすることになるから、若い世代に私たちが得たものを受け継いでもらえる気がしています。

それに、経費や材料も工程もクリアになって、シミュレーションしながら作るわけだから、途中で段取りのミスが見つかって前の工程からやり直す“手戻り”がなくなる。非常に合理的。まだBIMを取り入れている設計事務所は日本にほとんどないから、庄内から新しい建築の仕事の仕方を発信できるのも魅力的ですよね」

庄内への貢献は建築分野に留まらない

BIMがあれば、施主の要望をきちんと聞き、建設会社とのコミュニケーションが円滑に進むはずだ。そして、建築士こそがその能力を活かして、住民の要望を聞きながらまちづくりに貢献できるはずだと仲川は考えている。

「地域にとって本当に必要なものをきちんと議論して、形にしていく場をきちんと作らないといけないんだよね。それがなければ、鶴岡は鶴岡、酒田は酒田のままで庄内が一つになんかなれない。

『じろで庄内』という自転車ツーリングイベントを企画して、2018年の9月にプレイベントをやったんだけど、これは庄内一円で220キロ走る自転車ロングライドツーリング。参加者は自転車で庄内を一周して、1年ごとにメイン会場を鶴岡にしたり、酒田にしたり、そういう庄内全体を巻き込んだイベントとして根付かせていきたい。そうすれば、将来的に庄内全体のネットワークのなかで、いろいろな出来事が生まれるようになるじゃない」

20年ほど前からトライアスロンを続ける仲川は、大会の発起人として、実行委員会では会長を務めている。庄内をつなぐネットワークが生まれるようにと、1000人規模のツーリングイベントとして定着することを目指している。仕事も遊びも充実した庄内を生み出したい。仲川昌夫が喜びを感じるのはその一点に集約されている。

住所 山形県鶴岡市桜新町8-33
名称 ブレンスタッフ株式会社 代表取締役会長 仲川 昌夫