深く考え、軽々しく発言をしない。「沈潜の風」と評される気質は致道館での教育によって育まれた。
旧庄内藩酒井家第19代目 荘内藩 代表取締役 酒井 忠順深く考え、軽々しく発言をしない。「沈潜の風」と評される気質は致道館での教育によって育まれた。
旧庄内藩酒井家第19代目 荘内藩 代表取締役 酒井 忠順江戸時代の初頭に庄内入りをした第3代の忠勝から、酒井家が藩主として庄内藩を統治してきた。以後、江戸時代が終わり、廃藩置県が実施されるまでの約250年間、家臣団と領民と酒井家は堅い絆と信頼関係で結ばれていた。旧庄内藩酒井家の第19代後嗣であり、現在は庄内地方の歴史の継承と未来への発展に尽力する酒井忠順氏に話を伺った。
「お殿さまが暮らす町」。鶴岡で出会う多くの人から、自分の町をそのように表現する声をよく耳にする。現在、鶴岡公園となっているのはかつて酒井家が居城としていた鶴ヶ岡城址であり、その三の丸に現在の致道博物館はある。現在も同館に隣接する邸宅に、酒井家は暮らしている。現在の当主は、第18代の酒井忠久氏。その長男である第19代の忠順氏が、酒井家のルーツについてこう説明する。
「初代の酒井忠次は、元を辿っていくと、徳川家康の親族にあたります。忠次は家康の父である松平広忠に仕え、家康の叔母にあたる碓井姫と結婚していたため、家康にとって外戚の叔父であり、家康が松平元康を名乗っていた幼少時代から家臣として苦楽を共にし、三方ヶ原の戦いや長篠の戦いで手柄を上げてきました。そして酒井家が庄内入りしたのは元和8(1622)年、忠次の孫である第3代の忠勝の時代のことです」
幕府より庄内藩の統治を任ぜられた忠勝が、初代庄内藩主となった。居城とする鶴ヶ岡城を整備し、住民の信頼を得て良好な関係を築く礎が、徐々に築かれていく。
庄内地方には、米が豊富な庄内平野と、北前船の寄港地である酒田港がある。生産性の高い農業地として、交易の豊かな経済地として栄えた。
「代々、庄内は恵まれた地域で、藩としては農政に力を入れてきました。飢饉が起こっても餓死者を出さないよう徹底した施策を行い、第5代・第6代の頃には実際に飢饉もあったようなのですが、備えがあったために餓死者を出すことはありませんでした。また、『困ったら庄内に行け』といった共通認識を周囲の藩が持っていたようで、もし自分たちの土地で不作や飢饉が起こっても、庄内に行けば食料を得ることができると考えられていました。それだけ豊かでしたし、その豊かさから困った隣人を助ける意識が生まれていたのかもしれません」
そうした農政に支えられた豊かな庄内藩は、中央の幕府から目をつけられた。江戸時代には平和を維持するために、中央の権力を強化する必要があり、いくつもの策が講じられた。例えば各藩の藩主に自領と江戸を行き来させ、幕府に奉仕させる名目で藩主を中央に縛り付ける参勤交代などはその一例だ。一律で全国の藩を統制するのみではなく、さらに幕府は豊かな藩を「出る杭」と見なして圧力をかけた。
「参勤交代や各地の工事を大名家に命じることで、移動のためにもお金はかかりますし、働き手を寄越す必要がありますから、藩の財政は逼迫します。そして第7代の酒井忠寄の時代には、その豊かさもあって幕府の老中となり、15年間幕府の中枢で政治に関わったのですが、逆にそれによって交際費がかかり、財政の圧迫にもつながったと言われています。
そして、第9代の忠徳(ただあり)の時代になると困窮はさらに続き、藩士たちの生活も乱れていきました。忠徳が参勤交代で江戸から戻るときには、その交通費すら厳しい状況だったようです。酒田の本間家の支援も受け、酒井家も生活を切り詰めたうえで、忠徳は未来を見据えて教育の基盤を築くことにしたのです」
文化2(1805)年、藩校である致道館の創設だ。直接に財政を立て直すことのみを目的とするのではなく、庄内藩の中枢を担う優秀な人材を育成するために、江戸中期の儒学者で思想家であり、5代将軍の徳川綱吉にも政治的な助言を行なったとされる荻生徂徠(おぎゅうそらい)が、儒学を解釈し、体系化した徂徠学を藩の学問として広めた。
「幕府の教育の原則は朱子学でしたが、庄内藩では徂徠学を採用しました。基本となる論語や四書五経という教材は一緒ですが、自学自習や個性の伸長を重視するといった独自性がありました。そして、藩校では創立当初よりゼミナール形式で、生徒たちが皆で討論するような教育を行い、自分自身の考え方を確立して発信するための教育方法が採用されたのです。
庄内には『沈潜の風』(ちんせんのふう)という気質があります。深く考え、軽々しく発言せずに行動する、という藩校の教育から生まれたもので、今も鶴岡の人々の間には根付いていると思います。また、教育や文化的な興味が大きく、音楽や書などの芸術に通じている方々が庄内には現在も多いのですが、そうした文化教育の意義を強調してきたのも、徂徠学の特徴の一つです」
実際に致道館で教育を受けた藩士たちは、財政立て直しのために力を尽くした。致道館が藩の中枢と酒井家の関係を強化したのはもちろんのこと、農民や商人をはじめとする住民からも強く支持され、庄内藩の地盤は固まっていく。
忠徳が致道館の創設後に程なくして隠居すると、後を継いだ第10代忠器(ただかた)の時代に負債を完済した。また、日光東照宮の徳川家の廟の修復費用を幕府に献納するなど、藩の力を回復するとともに幕府への忠誠の姿勢も見せる。しかしやがて、庄内藩の復興力と求心力が目に余ったのか、天保11年に「三方国替え」という幕命が下ってしまう。
これも参勤交代などと同様に、幕府が各地の藩の力を削減するために不定期で実施した制度だ。大名3家の領地を玉突き式に交換させ、領主と領民の関係を切り離して移動させる転封処分の一つだ。藤沢周平が著した歴史小説『義民が駆ける』にも、庄内藩で起こった事の顛末が詳しく描かれ、この時に領民たちが取った行動は広く知れ渡るようになった。
「この時の『三方国替え』では、川越藩の松平家、長岡藩の牧野家、そして庄内藩の酒井家に対して国替えが命じられました。しかしこれに対して、遊佐から酒田、鶴岡まで庄内全域の農民が立ち上がり、代表者が江戸に向かって反対の直訴をしたのです。そして、将軍である徳川家斉の死去も伴ったことで、かつて前例がなかった幕命の取り下げが実現したのです」
行政改革を進めた忠器への領民からの支持が非常に高く、周辺の藩ともこの訴えを共有することで、幕府に対する直訴の威力は大きくなった。つまり幕府は、反対を押し切って幕命を強行することによって反乱の輪を広げ、国中に混乱が起きてしまうことを懸念したために前代未聞の事態が生まれたのだ。
「この『三方国替え』の失敗は、幕府の衰退につながったとも言われています。考案した老中の水野忠邦は庄内藩に悪感情を抱き、意趣返しのような形で印旛沼の治水工事を庄内藩に命じるなど、藩を財政的に衰退させようと試みたのです」
時代は幕末だ。幕府の求心力が下がり、尊皇攘夷に向けて薩摩藩ならびに長州藩が影響力を持つなか、庄内藩は幕府から市中の取締役という大役を命じられる。庄内藩出身の清河八郎が、浪士組の結成を考案したことに端を発する。将軍家の警護という名目で新徴組や新撰組という浪士組を結成させ、やがて彼らを反幕府勢力として尊皇攘夷に巻き込むことを清河は目論んでいた。
「新徴組という組織を庄内藩は預けられ、江戸の取り締まりを行っていました。ちょうど薩長が幕府を倒そうとしているところで、挑発行動をされた徳川家の命令によって、庄内藩が江戸の薩摩屋敷を焼き討ちする事件が起こりました。やがてそれをきっかけに鳥羽・伏見の戦いが起こり、戊辰戦争に突入していきます」
結果的には、江戸時代の終焉を引き起こす歴史的な流れに、庄内藩の動きは大きな影響を与えた。しかし、戊辰戦争における立場としては、旧幕府軍側だ。程なくして敗戦と明治維新を迎え、新政府から酒井家に下ったのは、会津若松への転封という国替えの命令だった。
「その際にもやはり、庄内藩の旧領民たちは酒井家が移ることに反対する阻止運動を起こしました。旧薩摩藩に掛け合うなどして、賠償金として70万両を納めればいいとなったのです。今でいうところの何百億という金額です。旧領民たちが寄付を募り、30万両を集めて納めたおかげで、どうにか酒井家はこの場所に残ることができました」
酒井家はやがて、刀を鍬に持ち替えた。庄内藩士の面々や戊辰戦争をともに戦った新徴組ら3000人が集まり、松ヶ岡の地を開墾して、養蚕という新しい産業を興したのだ。賊軍の汚名を着せられて痛めつけられ、莫大な額の賠償金を支払わされながらも、報国のために、新しい産業を興すために、再び立ち上がったことに「庄内の心意気が凝縮されている」と酒井忠順氏は語る。
「『花よりも、花を咲かせる土になれ』という言葉があって、私はそれを心がけて生きていきたいと思っています。庄内大祭の大名行列に参加すると、沿道で喜んでくださる地域の皆様もいらっしゃるので自分が表に立つことも時には大事だと思いますが、周囲の人々が生き生きと仕事ができるように、子どもたちがもっと輝けるように、自分が土となって彼らの大輪の花を咲かせることこそが、これからも代々酒井家が続き、地域の人々とより良い関係を保ち続けることにもつながると思っています」
名称 | 旧庄内藩酒井家第19代目 荘内藩 代表取締役 酒井 忠順 |
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