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米沢牛を日本一に。言語を共有し、同じ未来を見つめる。

株式会社米沢牛黄木 / 総合職

インタビュー記事

更新日 : 2024年02月05日

全国に広く知られるブランド牛「米沢牛」。口にした瞬間に広がる甘味と濃厚な香り。店舗やネットでの販売に加え、アンテナショップや東京駅、銀座にレストランを出店するなど、山形が誇る「食」の1つである米沢牛を広く全国に提供する株式会社米沢牛黄木。創業から100年近くの時を重ねてきた老舗に働く3人に話を聞きました。

株式会社米沢牛黄木 事業概要

創業1923年。大正時代から続き、間もなく100周年を迎える老舗。全国でもトップブランドとして知られる米沢牛の加工、販売を行っている。また、直営レストラン金剛閣をはじめと、牛鍋おおきなど飲食店の経営も行う。2013年には東京駅八重洲口北口黒堀横丁にレストラン米沢牛黄木東京駅店をオープンさせ、山形の食を全国に伝える事業も積極的に展開させている。

「何よりも、おいしい牛肉を提供したい」と、肥育期間や月齢などを重視し、こだわりの牛肉を追い求めて買い付けをしてきた。それとともに、現社長の黄木修太郎が就任して以後、自社での生産、加工を進め、2007年には牛舎「黄木畜産工房」を設立し、自社ブランド米沢牛の肥育頭数を増やしていった。

黄木のこだわりは、おいしさ。そして、食がもたらす笑顔。そのために、よりおいしい米沢牛を生産し、時代に合った加工食品のあり方を追求する。そして、新型コロナウイルスの流行などにより生活様式は変化していくが、それに合わせるように、店舗での購入、飲食店での提供、ネットでの通信販売など、さまざまな形で「食を伝える」ことを展開している。

食卓に笑顔を届けたい

もともと小さな精肉店とそれに併設して牛鍋屋を始めたのが米沢牛黄木の起こり。物資の乏しかった戦時中も店を存続させて、戦後の1945年に自社の車庫を改装して食堂を開設しました。そこから昭和、平成そして令和を通して、米沢牛のおいしさを届け続けています。

米沢牛といえば、全国でも知られるブランド牛。置賜地方3市5町で肥育された黒毛和牛のうち、ある一定の基準を満たしたものを米沢牛として認定しています。その特徴は、きめの細かい霜降りと肉の甘味。脂はとろけるようで、口にした瞬間に上質な香りが広がります。

そのおいしさこそが、黄木の一番の強み。……と、いえばとても簡単なことのように聞こえますが、そこには100年近い歴史で培った目利きの技術があってこそなのです。米沢牛のなかでも、「肥育期間」「月齢」を特に重視し1000日以上の長期肥育された牛を可能な限り追い求め、格付けがいくら良くても妥協せず、自分が納得した物だけを仕入れ、自信をもってお客様に販売しています。そのこだわりがあるからこそ「おいしさ」を届けられるのです。

「2007年に黄木畜産工房という牛舎を設立し、自社ブランド牛の生産にも力を入れるようにしました」と話すのは、代表取締役の黄木修太郎さん。自身が社長に就任してから、加工、流通だけでなく、生産という一次産業にも力を入れるようになったという。なぜそうした方向に向かうことにしたのかと聞くとこう答えてくれました。

「自社生産をして一次産業も担うことで、生産から加工、販売までをすべて自社で行える、畜産の6次産業化を図っています。その流れがあるからこそ黄木の『おいしい』の基準が保たれると考えているからです」

代表取締役の黄木修太郎さん

ワンストップで包括的に米沢牛をお客様に届けられるので、品質管理、衛生管理も隅々までできるようになるのです。おいしいに加えて、安心・安全がそこにはあります。その結果が「食卓の笑顔」なのです。

そして米沢牛黄木が目指しているもう1つの笑顔は「社員の笑顔」です。職場の環境を整えることで、働くことに幸せを感じる会社。それはどのようにして作られ、現場で働く人たちにどのように浸透しているのか。法人営業部の若月陽介さん、総務部で主に採用の仕事をしている佐竹康子さん、食肉事業部の斎藤捺美さんに話を聞きました。

 

地域とつながることで見えてくる魅力

—— 最初になぜ黄木に入社を決めたかお伺いできますか?

佐竹康子さん:私は新潟にある大学に進学しました。でももともと就職は地元と考えていたんです。やはり地元は友達も多いし、つながりが多いので。そのなかで就活のときに考えていたのが、加工食品も含めた山形の食を広めたいということでした。そこで米沢の食を代表する1つである米沢牛を扱っている黄木に入社を決めました。

若月陽介さん:私も同じく大学進学を機に地元米沢を離れました。大学を卒業して建築会社に就職して、のちに東京に転勤。東京で米沢出身というと「ああ、米沢牛の」と言われることが多く、米沢牛の認知度の高さに驚きました。そしていざ地元に帰ろうと考えたときにそれを思い出して、米沢牛に関する仕事に就こうかなと思ったのがきっかけです。地元だから気付かなかった米沢のよさに、東京の暮らしで気づかされたという感じです。

齋藤捺美さん:私は新潟県佐渡の出身なので、米沢は地元ではないんです。山形の大学を卒業した後、新潟に戻って食品品質管理の仕事に就きました。そして結婚を機にIターンで山形へ来ました。そのとき、米沢に来たからには、米沢に根ざした会社で働きたいと思ったんです。それで、自分の経験などを生かせることも考えて見つけた会社が黄木でした。

 

言語を共有することで生まれるコミュニケーション

—— 現在働く中で、ここが働きやすいと思うポイントなどありますか?

佐竹さん:私は新卒なので、ほかの会社との比較というのはできませんが、感じていることは「みんなが同じ方向を向いている」ということですね。

若月さん:それは私も感じています。部署を超えた横断的なチームも多いのですが、そのコミュニケーションが円滑なのは、いま言ったように社員の目線が同じ方向にあるのだと思います。

佐竹さん:それを生み出している要因の1つが、充実した社員教育だと思います。専門的な研修はもちろんですが、ものの考え方というか、ある種の哲学を学ぶような勉強会もたくさんあります。「夕方勉強会」という月に3回程度行われる勉強会もその1つです。

若月さん:そういったところで「言語を共有」することで、みんなの考え方が1つの方向に向き、活発なコミュニケーションが生まれているんだと思います。

—— それが現場に生きていると感じることはありますか?

斎藤さん:そうして言語を共有することで、チャレンジができる環境を生んでいると思いますね。会社がチャレンジを受け入れてくれる雰囲気があるのは、みんなが同じ方向を見ているからなのかなと。向かう方向がずれていなければ、すぐにでも行動させてくれるんです。また、例えば改善したい点があったとしたら、それをすぐに上司や経営陣に伝えることができるシステムも用意されているので、風通しのすごくいい環境だと思います。私は自分で本来は保守的な性格だと思っていますが、ここでは困ったことがあったらまずやってみるということを心がけています。それが成立する職場だとも感じています。

 

より魅力のあふれる未来へ

—— では今後、チャレンジしたいことはありますか?

斎藤さん:ITツールを使いこなして作業効率アップと在庫管理をスムーズにすることが目の前の目標です。例えば一日の出荷可能件数をあげていきたい。いま、作業時間や管理などの関係もあり、出荷件数が限られている状態です。より多くのお客様に「食べたいときに食べてもらう」。そのためにはより効率的な仕事が必要だと思っています。また、それに伴って、前職が品質管理だったので、その仕事もしたいと思っています。いまは、各部署の代表があつまってチームを作っている状態。専門の部署を作りたいとも。

若月さん:さきほどもいったように、横断的なチームはたくさんあり、横のコミュニケーションは強いので、例えば品質管理専門の部署を作って運営するのは、きっと円滑に進むんじゃないかなと思います。品質ということでいえば、私のチャレンジはそれをさらに上げること。米沢牛を品質、食味ともに日本一のブランド牛と認めてもらいたい。いまは、知名度も含めて松阪牛が1位です。しかし、そのなかでも米沢牛の知名度と人気も徐々に上がってきています。だから、実感もあるのですが、もっと食卓に「米沢牛」という選択肢が増えていくとうれしいです。

佐竹さん:私は採用の仕事を主にしています。そのなかで感じるのはやはり対人関係の難しさです。例えば、高校を卒業してすぐに入社した人が、同世代ではない人と関わるストレス。これはけっこう大きな問題なのです。それをどうしたらなくしていけるか。それはやはり、社内のコミュニケーションという問題でもあります。年代、性別、出身地、経験。社員にはそれぞれのパーソナリティアあるので、視野を広く持ち、感謝の気持ちをもって関わることを大切にしています。

若月さん:人への感謝というのは自分もモットーにしている部分です。一人では何もできない。営業の仕事をしていてもそれは強く感じます。おいしい米沢牛がなくては私の仕事ははじまらない。それを作ってくれるのは自社も含めた、山形の生産者の方。そのほか加工に関わる人などさまざまな人が「おいしい米沢牛」には関わっています。そういった人たちへの尊敬と感謝を持ちながら仕事ができればと思っています。

100年という歴史を持つ老舗。その歴史を築き上げてきたのは、食を通して「幸せ」を追求してきたからかもしれません。時代が移れば、人々の生活は変容していきます。それに合わせるように「幸せ」のカタチも変わっていくはずです。そのなかで食を通して何ができるか。米沢牛黄木のチャレンジはこれからも続いていくはずです。

取材・文_海老沼邦明