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チャレンジが進化を生む、特産品文化創造企業

株式会社清川屋 / 清川屋 山形空港店【正社員】ショップ販売スタッフ

インタビュー記事

更新日 : 2024年10月12日

 

山形のお土産やといえば清川屋。地域性、本物志向、おいしさにこだわり、さくらんぼなどのフルーツからオリジナルスイーツまで、山形を代表する土産品を提供する。その創始創業は江戸時代、1668年にさかのぼる。それから350年の間「清川屋」を守ったのは、チャレンジと変化をいとわないスタイルだった。

株式会社清川屋 事業概要

創始創業は1668年(寛文8年)。茶屋勘右衛門と名乗り、茶屋と旅籠を経営したのが清川屋の始まりだ。幕末に屋号を「清川屋」とし、明治時代には鶴岡駅前に移転した。現在の清川屋の体制がととのったのは1927年(昭和2年)のこと。旅籠業を廃業し、日用品を扱う小売業として再スタートをきったときだ。その4年後にお土産店をはじめ、第二次世界大戦がはじまる混沌のなかでは、生活物資配給所にも指定された。戦後は店舗販売だけでなく周辺土産店への卸業も開始。事業の幅を広げ、地域にその名を拡げていった。  その後、山形空港ターミナルビルに新店舗を出店するなど、人気、知名度とともに、事業拡大していく。また、お客様の声により敏感に対応するために自社オリジナルスイーツを作る菓子工場もあり、多くの人気商品を生み出している。そのなか1995年(平成7年)にいち早く清川屋インターネットホームページを開設。まだ完全にネットが浸透する前から、ネット企画室を設立し、楽天市場にも出店をした。  美術館のようなたたずまいを見せる鶴岡インター店の開店、2020年にはやまぎん県民ホールに、オール山形で魅力を発信する複合店舗「0035 BY KIYOKAWAYA」と、宮城県松島離宮に新ブランド店 「茶屋勘右衛門 By KIYOKAWAYA」をオープンするなど伝統と歴史を大切にしながらも常に新いチャレンジを続ける。

宮城県松島離宮にある茶屋勘右衛門の店内

清川屋を読み解くキーワード

最初に清川屋を語るうえで、欠かせない言葉を紹介したい。それは創業理念にある「天の時」「地の利」「人の和」という3つの言葉と、清川屋が掲げる「特産品文化創造企業」という言葉だ。特産品文化創造企業というのは、清川屋オリジナルの言葉で、特産品に地域の情報(文化)と心を込めて、「特産品文化」という新しい文化の創造と発信をする事業をする企業であるという意味だ。これらを理解すると、清川屋が350年の歴史を歩むことができた理由が見えてくる。

350年と簡単に言ったが、創業は1668年、江戸時代のことである。茶屋勘右衛門が茶屋、旅籠として始めたのがきっかけである。清川屋という名前になったのは1850年代。明治に入ると人力車の経営も始めた。しかし、時代は大きく転換する時代。道路拡張計画により旅籠屋は廃業することになってしまった。その後、鶴岡駅前に店を移転させ、清川屋は続いていく。次に転機が訪れたのは1927年。販売業としての創業者である伊藤小春が、鶴岡駅前に店舗を借用し、日用雑貨を商う小売店を開業したことだ。その4年後には、土産店としての営業を開始した。戦後は周辺観光地にお土産の卸売を開始した。

さて、ここで創業理念のひとつ「天の時」だ。天の時とは時代を見る目、つまり転機を生かし、新生し続けるということ。茶屋、旅籠業から日用品販売業へと業態を大きく変えたのは、まさにこの天の時だったのである。執行役員企画本部長の伊藤舞は「当時は食料品ではなく、民芸品が主で、セレクトショップに近い感じだったと思います。それでもモノがない時代だから、すごく喜ばれたそうです」と話す。

1886年(明治19年)ごろ 旅籠屋を営んでいた時代の清川屋

次に大きく清川屋を変えたのは、1996年に卸業を辞めたことにある。取締役専務の伊藤一総は「卸業をやめて、自分たちの商品に責任を持ったことが大きかった」とそのことを振り返る。そして卸業をやめたことで多店舗化が進み、より多くのお客様の声を聞くことができるようになった。その声に真摯に耳を傾けて自分たちを変えていく。必要とあれば「すぐに動く」。変化を嫌わずにチャレンジをする。そうして積み上げてきた結果が、清川屋の人気なのだ。歴史の重み、伝統の重みというものはあるはずだ。しかし、伝統とは同じことを続けることだけではない。精神は受け継ぎながらも、常に新しいチャレンジを続けて新生していく。そうして守る歴史もあるのだ。

未来を見てチャレンジする

清川屋のチャレンジは続く。インターネットの可能性にいち早く参加したのもそのひとつだ。1995年(平成7年)に企業ウェブサイトを開設。1995年といえばダイヤルアップ接続が開始され、ソニーがウェブサイトを作ったという、いわばネット黎明期である。2000年にはネット企画室を設立し、同年まだ設立されたばかりの楽天市場にも出店をした。山形県庄内という地方のお土産屋におけるインターネットを使ったチャレンジと成果は、楽天本社から表彰もされるほどの成功を収めた。日本社会にインターネットが浸透するはるか前からすでにその可能性を見据えてチャレンジをしていたのだ。

更には1999年時点で社員全員にノートPCを配布し、マイクロソフトツールの活用講習まで提供しているというから驚きである。1999年の日本は、パソコン普及率32%、インターネット利用率まだ19%という時代においてである。

現在はコロナ禍でリアル店舗に来ることが以前より困難になっている。そこでインターネットのユーザビリティをさらにあげることに注力している。そのなかでは山形だけでなく、東北というエリアに目を向けて、その特産物などを扱うようにしているそうだ。特産品文化創造企業という言葉のなかで、清川屋は「情報」というワードを使っているが、インターネットはそれを体現する場でもある。より多くの地域情報(文化)を、より多くの人たちにつなげていく。まさに文化創造の場でもあるのだ。

さらに創業理念の「地の利」という言葉が思い浮かぶ。地の利とは読んで字のごとく、土地の特性を生かすということ。清川屋は茶屋、旅籠屋時代から道や駅と密接にかかわってきたのはいうまでもない。そして、昭和の高度経済成長期に入り、土産物店の競合他社が増え、清川屋はオリジナリティを求められるようになった。「そのとき私たちは山形に特化することになりました。さくらんぼに代表されるように、山形にはおいしいものがたくさんあるので、その山形のおいしさをおいしいときに提供する。そうすることでひとつのオリジナリティを作りました」と伊藤舞は話す。つまり山形という地の利を生かしたオリジナリティだったのだ。それがインターネットと重なることで、今度は東北という大きなエリアに拡大されたのだ。伊藤舞は「新型コロナウイルスについても、社員みんなで乗り越えようと前向きにとらえています」と話す。

「もちろん多くの方が苦しんでいる状況は前向きなわけもありませんが、コロナ禍をきっかけに生活、仕事の考え方が変わりました。インターネットで店舗同士のつながりも強くなったし、インターネットでしかできない企画などにもどんどんチャレンジしています。『まずはやってみよう』という精神から常に新しいものに挑戦していきたいと考えています。なにより、社員一人一人がこの状況を受け入れて『ここから会社も更に変化しないといけない』と考え行動し続けていることは、会社としては明るい兆しだと思っています。」

地域に根ざした会社でありたい

また、実はこの「東北」という言葉は清川屋の地域価値の創造という経営理念にも通じる。山形のお土産屋といえば清川屋というイメージがある。もちろんそれはそうなのだが、清川屋は山形だけでなく、その「地域」に根ざした会社、店舗でありたいという想いがある。だから宮城へ出店したときも、山形から来た清川屋というよりも、その地域のいいものを生み出していくという理念があった。特産品文化の創造とも言っているが、まさにその地域のいいものにスポットをあてていく。それは観光客のみならず、地元の人にも知ってほしいという想いがある。伊藤一総はこう話す。

「今まで私たちはお土産、特に地の利を生かしてギフトを販売してきました。現在は県内外に多くの店舗を構え、インターネットも含めて日常的にサービスを提供する部分が増えてきたと考えています。だからこれからは生活のなかで使える商品、毎日の食卓に並ぶものなども提供していきたいと考えています。そうすることで観光のお客様への土産物とともに、地元の人にもその地域のいいものを知ってもらう機会になると思っています」

地域に根ざすということ、地の利を生かすということは、その地域の人たちとともにあるという意味も含んでいるのだ。

人の和を大切にする会社

それが創業理念3つの言葉の最後「人の和」につながるのはいうまでもない。しかし「人の和」はそれだけではない。仕事で関係する人、そして清川屋で働く人の和でもあるのだ。今回インタビューした4人の社員の話を聞くとその言葉の意味が強く浮かびあがる。

先に紹介したインターネット販売に関わる株式会社ネット清川屋サテライトの栗原芙美子は現在実家のある福島県の郡山市に住み、ほぼフルリモートで働いている。2003年に入社し、2006年から現在のスタイルになったという。

「地元に帰らなくちゃいけないと悩んでいたときに、いまの働き方を会社から提案してもらいました。自分は清川屋もそこで働く人も好きだったので、離れるのが惜しかったのですが、リモートで働けばいいと言ってくれて、すごくうれしかったです」

コロナ禍でリモートワークやテレワークという言葉は一般的になり、さまざまな働き方が許容されるようになったが、いまから16年前の2006年に、社員の事情を鑑みて「フルリモートで働いてみては?」と提案する企業がどれだけ日本に存在しただろうか。正確にはわからないが、そう多くなかったのではないかと容易に想像できる。栗原は続けて、チャレンジをさせてくれていることもうれしいという。

「リモートで働く私に『企業サイトを作ってくれ』と言ってくれたんです。自分なんかでいいのかなという思いとともに、任せてくれたということに強いやりがいが湧いてきました。これからは、商品を売るということだけでなく、文化を『伝える』にはどうしたらいいかチャレンジしていきたいと思っています」

栗原が中心となって作成した清川屋企業ウェブサイト

この「任せる」というのもキーワードかもしれない。今回のインタビューには鶴岡インター店、HOUSE清川屋の二店舗からそれぞれ阿部康太店長、五十嵐由記店長に来てもらった。それぞれ入社してそれほど時間をおかずに店長を任されたという。店舗運営は店長の裁量によるところが大きい。HOUSE清川屋の店長の五十嵐は「HOUSE清川屋はもともと本店と同じように食品がメインのお店でした。でも、それを民芸品などを多く取り扱う店舗に変えたんです」と話す。

 もともと地元の人もたくさん来ていた店だったので食品が減っていくことに不安はあったという。しかし、その反応は五十嵐の予想とは異なり、好評だったという。

「それまでよりもゆっくりとお店を見てくれるようになったんです。変わることに不安はあったけど、お店の見せ方が変わるとお客様の心もこんなに動かせるんだなということを身をもって体験しました。つまり私たちのサービスの提供の工夫次第でお客様の心をより豊かにできるのだなと。これからもいろいろな人に話を聞き、特産品文化創造企業として変化する会社の最前線でそれらを感じ、変化を恐れることなく、よりいいお店を創っていきたいと思います」と話す。

鶴岡インター店のリニューアルとともに店長となった阿部はこう言う。

「実は私もHOUSE清川屋で店長をしていました。しかも入社半年で。右も左もわからないような状態でしたが、多くの人に支えられて何とか業務をこなしました。イベントなども開催して、一人では何もできないということを学べたのは大きな経験でした。それはインター店の店長になったいまも変わりません。お客様、仕事で関わる人、いっしょに働く人、多くの人に学びながらお店を創っていきたと思います」

そのときに、会社からは「おもてなしが大事だからこそ、まずは人と話しなさい」と徹底的に言われたという。そして感じたのが、清川屋というお店を知ってもらうことも必要だが、そのためには「庄内の魅力」を伝えることがさらに重要になってくるということだった。

「お店作りというのは、人でできているものだと痛感しました。お客様、スタッフ、そしてステークホルダーの人たち。すべての人の想いがあるので、広い視野を持って店舗開発をしていかなくてはいけないと感じました」

インター店の店長となったばかりだが、これからどのような未来を描いていくのか聞くと、高速道路の入り口の目に前に立地し、巨大な一枚ガラスでできたお店構えのこのお店は、他の店舗とはまた違ったチャレンジに取り組んでいかないといけないと力強く話をしてくれた。

事実、地域の特産品だけでなく「許してちょんまげ」という高級パンや、ランチでも食べれるサンドイッチなど、日常食べる商品、イートインスペースなども鶴岡インター店では提供しており、伊藤一総が先に述べたような、地域の方にも愛されるお店作りをコンセプトに加え、清川屋としての新しい店舗の在り方を創り続けている。

その鶴岡インター店のリニューアルのときに、商品開発として参加したのが新商品開発室チーフの皆川あずさだ。小さなころによく母親がお菓子を作ってくれたことがパティシエになりたいと思ったきっかけだという。

「いっしょに作ることもありました。母の作ってくれたお菓子を知り合いや友だちに持っていくと『おいしい』といって本当に喜んでくれたんです。それが自分もすごくうれしくて誇らしかった。それがパティシエになりたいと思った理由です。自分も喜びを与えられるパティシエになれたらいいなと思うようになりました」

皆川は高校卒業後、新潟の製菓学校で菓子作りを学び、卒業後は鶴岡の洋菓子店で製造の仕事をしていた。そこでは接客の仕事もあったというが、よりお客様に近いところでも働きたいと思い、接客スタッフとして清川屋に転職した。そして数年働いたところで、菓子製造の経験や子どものころからの人を喜ばせたいという夢を会社が知っていたことから、商品開発の仕事を任せられることになった。皆川曰く、急な話であったので驚きだったとのことだが、自分の夢ともつながるとも思い、商品開発への異動の話を前向きにとらえ、うれしい気持で受け入れたという。

「そして最初に商品開発をお願いしたのは実は私なんです」と阿部が言う。

「宮城県の松島に『茶屋勘右衛門 By KIYOKAWAYA』という店舗があり、そこで新商品を提供しようということになり、地元の特産品を使った商品を作ろうとスタッフみんなで意見を出し合っていました。しかし、どれもありきたりで行き詰っていたんです。そこで皆川さんたち商品開発チームに相談しました」

そこで出てきたのが「景色だって地域の文化じゃないだろうか」という言葉だったという。宮城の食材ばかりに目がいっていた阿部たちにとっては目から鱗だった。それでできたのが松島の紅葉をモチーフにした新商品だった。皆川は当時のことを振り返ってこう話す。

「今の話だと、天の声みたいに『もみじ』とでてきたように聞こえるかもしれませんが、もちろんそんなことはありません。阿部のいうように、宮城の特産品は何だというところから始まり、さまざまな試行錯誤を続けました。これは私一人ではできなかったと思います。そこで働くみんなの力だと思います。こうしてお客様、地域のことを考え、オリジナルのお菓子を作る。そしてそれを食べてもらうという仕事は、小さなころからの夢が叶ってすごくやりがいがあります」

これまでは店舗ごとの商品開発が多かったが、これからは地元の人も楽しめる、日常のなかにあるお菓子にも挑戦して、友人達にも紹介したいと笑顔で話してくれた。

伝統と歴史、そして人と地域を大切にしながら清川屋は常に新しいチャレンジを続けていく。冒頭に挙げた言葉を思い出してほしい。「天の時」を捉えて、「地の利」を生かし、「人の和」で「特産品文化を創造」していく。今までご紹介してきたように、これらは決して言葉だけではなく、350年実現し続けていると言えるだろう。

リニューアルした鶴岡インター店。その正面の顔ともいえる、大きな一枚ガラスの壁。ここから見える店内が四季折々で変化し続けるように、清川屋も変化とチャレンジを続けていく企業であるに違いない。