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暮らしをデザインする=理想の暮らしを確立すること。

I・N設計スタジオ / 建築設計技術専門職

インタビュー記事

更新日 : 2021年10月05日

住宅は私たちの暮らしの器。しかし、壁と屋根だけがあればいいというのではない。そこには家族がいて、コミュニケーションがあって、生活がある。その暮らしを住宅でデザインしていく。今回おじゃました、I・N設計スタジオはまさにその、理想の暮らしの設計者。家族の話を聞き、要望を聞き、そしてそれを実現するデザインをしていく。モノづくりの本質がここにはある。ただし、生活は「家」だけでは完結しない。これからはさまざまな施設にも活躍の場を広げていきたいという碇谷規幸に話を聞いた。

I・N設計スタジオ 事業概要

2008年に酒田市に設立された設計事務所。代表の碇谷規幸は、東京の大手設計事務所を退職したのち、地元である酒田に戻り、設計事務所に就職。それから約6年ののちに独立し、設立した設計事務所だ。 クライアントの要望を聞きながらも、提案型の設計を行い、クライアントとともに空間を創り出していく。建築物という建物をデザインしながらも、その先に見据えるのは「暮らしをデザインする」ということ。モノ(建築)づくりの本質というべき想いが、数々の顧客から評価を得ている。 クリニックの設計などもあるが、これまでは住宅を中心にデザインを手掛けてきた。しかし、今後は大手設計事務所とコラボや業務提携を検討しており、大型の施設にも参加していくビジョンを描いている。

暮らしをデザインするとはどういうことか

I・N設計スタジオが設立されたのは2008年のこと。現在まで13年の間、酒田市や鶴岡市を中心にさまざまな住宅、施設の設計をしてきた。

そのなかで大切にしているのが「お客様から言われた以上のことを提案すること」。そう話すのは代表の碇谷規幸だ。お客様から言われたことだけをしていたのでは、設計士としての知識も経験も活かすことはできない。いってみれば、誰がやっても同じ仕事になってしまう。そこに自分だからこそのクリエイティビティを加える。そういった大量生産できないオーダーメイドの提案、アイデアがあるからこそ、設計士がモノづくりに加わる意味がある。そうして初めてクライアントの望む建築が生まれるのだ。

住宅設計のクライアントの多くが住人。その人たちには、その人たちだけの暮らしがある。家族構成からすべてがそれぞれに違う。その家族には新しい家を建てるときに「どう暮らしたいか」「どういう生活がしたいか」という未来のビジョンがある。それを聞き、ときには寄り添い、ときには新しい提案をして、暮らしを想像していく。それが暮らしをデザインするというということなのだ。

碇谷が手掛ける建物には、「月と暮らす庵(イエ)」「ラウンジデッキに集うイエ」「庭が連なる平屋」など、さまざまなコンセプトの住宅がある。

ラウンジデッキに集うイエ

庭が連なる平屋

最初の写真は「ラウンジデッキに集うイエ」と題された住宅。3人家族の住宅で、南側に配置されたリビングの外には庭があり、その庭とリビングはその中間領域であるラウンジデッキによって繋がっている。ラウンジデッキではバーベキューもできるほど、広々としたものだ。そしてダイニング、リビングとラウンジデッキに近接した位置にスタディスペースを設けることで、ラウンジデッキを中心として家族がくつろぎ、集う空間となる。家族が自然とつながっていく、そういう「暮らし」がデザインされた家だ。

「スケッチを何枚も何枚も描き検討していく。模型を作って提案のデザインを検証していく。提案をいかに熱くクライアントに語りかけ、受け入れてもらい、魅力ある建築を実現していくことが設計者、建築家の本来あるべき姿だと感じています」と碇谷は建築について話してくれた。

東京での設計士としての経験

「自分の生きていく道は、提案型の建築だと思ったんです」。そう話す碇谷だが、その言葉には東京での仕事の経験、そしてUターンで酒田に戻ってからの設計士としての経験がある。

碇谷は県立酒田東高校を卒業後、新潟大学で建築を学んだ。大学を卒業後は、東京の大手設計事務所に就職した。

「親が大工をしていたので、継ぐ、というのではないですが、いつかは酒田に帰ってこようと考えていました。ただ、東京はビジネスをするところという考えが当時はあったので、一人前にならないと帰ってこられないという想いもありましたね」

そのため碇谷は、常に自分が最前線でいられ、自分の腕を鍛えられる。そんなところを探して、大手設計事務所に就職した。そこはワンフロアに設計士だけでも30~40名がいるというような規模だった。

その中で、某有名企業の本社屋や研究施設、超高層ビル等様々な施設を、サブチーフやチーフという立場で手掛けてきた。

その事務所では1つのプロジェクトには、意匠、構造、設備、電気といった専門の人間が関わっていく。意匠、つまりデザインのチーフが主導権を持ってプロジェクトを進めていくのだが、総勢10人ほどで1つの建築を創り出していく。クライアントへの提案ももちろんだが、チーム内での提案も必要で、さまざまな意見交換をしながら、1つの建築を形作っていく。その経験の中で、提案型という、建築のスタイルを確立していったのだ。

Uターンして感じたこと

碇谷の言葉を借りれば「一人前」の仕事がやっとできるようになったと感じたころ、地元酒田の家族のこともありUターンを決意した。Uターンするにあたり、いつかは自分で事務所を起こしたいという思いはあった。しかし地元とはいえ、東京でしか働いたことのない碇谷にとって、地元の人脈は血縁、高校までの知人など限られた範囲であった。そこで将来の起業も見据えて、人脈や仕事習慣、様々なことを得るためにも地元の設計事務所への転職を決意した。

転職活動を開始してまず思ったのは「とはいえ、自分の希望する職業が本当にあるのか?」ということだった。

「もちろん酒田にも設計事務所があるのは知っていました。しかし、その事業内容まではわかりませんでした。しかも、当時はまだホームページなどがこれほど広くいきわたっていたわけでもなく、自社のホームページを持たない設計事務所がほとんどでした。だからその事務所が住宅中心に仕事をしているのか、それとも公共施設などをやっているのか、それすらもわからなかったんです」

自身が東京時代にしていた仕事は大型の施設が多かった。この仕事はスタッフがたくさんいないと成り立たないもの。だからまずはスタッフの数を調べて、その数が多いところから順に声をかけていったという。そのなかで酒田の設計事務所に就職した。その事務所のなかで碇谷は頭角を現していく。

「いま振り返ると、自分が買われたポイントは、コンペやプロポーザルだと思います。その提案書が評価されたではないかと。東京のやり方がすべてだとはまったく思わないですけど、例えば模型を作るということは酒田ではあまりやらないんです。でも自分は必ず模型を作りクライアントと完成後のイメージを共有しながら建物を進化させていきました。そういうところも含めて、私の仕事スタイルが評価されたのかなと思います」

プロポーザルは3割の成功率で一流といわれていた当時業界で、碇谷は半数ほどをプロポーザルで仕事して射止めていく。そうすると自然と地域からは注目を浴びるようになった。まわりの設計事務所からも名前を噂されるようにもなったという。設計事務所のつながり、地元の建築会社、メーカーや関係業者とのつながり、仕事の人脈も必然的にできていった。

「ただ単純に、きた仕事をこなす、というのではなく、提案して選ばれたから仕事ができるというのがうれしくもあり、やりがいにもなりました。そして自分がやってきた提案型の仕事は酒田でも武器になるのだと実感していきました」と当時のことを碇谷は話してくれた。

碇谷という顔と名前を覚えてもらう

数年後に事務所を退所し、独立。その時期のことを「大変だった」と振り返る。

「最初はもちろん仕事がないですから。いきなり個人に大きな仕事が来るなどということはないですよね。だから、公共施設のような大きなものではなく、個人住宅の設計に重点を置こうと思いました」

そのためにしたことが、自分の顔と名前を売ることだった。

「住宅はお客様にとってみれば、一生に一度の大きな買い物。それを知らない人に、ハイお願いね、と依頼するはずはありません。だから『碇谷さんにお願いしたい』とならないといけない。仕事に関係することはもちろん、一見、関係していないようなところまで、いろいろ参加するようにしました」

PTA役員、友人の集まり、高校の同窓会の幹事長、好きな野球関係の集まり、とにかく顔を出すようにした。それが仕事につながるようになったのは、3年ほどたってからだと振り返る。少しずつ「碇谷さんにお願い」という形で知人から仕事の相談が来始めた。

そして、東京時代からずっと続けてきた提案型の設計スタイルが評判を呼び、住む人に寄り添ったさまざまなコンセプトの住宅を手掛けてきた。

今後は再び大型施設にもチャレンジしたい

これまで住宅を中心に設計を手掛けてきたが、今後は東京時代に携わっていたようなもう少し大型の施設にも再びチャレンジしていきたいという。そのきっかけとなったのが林建設工業の新社屋の仕事だった。

「個人住宅の規模ではないので、クライアントさんはもちろん、現場にたくさんの専門家が関わり、常にさまざまな議論をして、より良いものを作っていく。そういう仕事もやっぱり楽しいなと思ったんです。地方の場合は、担当の人間しか仕事に関わらないことがほとんど。逆に担当でもない人が口を出すと煙たがられることもあります。そのため、自分の案をよりよくしていく場も、ブラッシュアップする機会もない」

そうなると仕事、建築のクオリティやクリエイティビティは属人化してしまう。だから担当者によってレベルの差が出てしまう。そうではなく、組織として、つまりI・N設計スタジオとして作品を出すというスタンスで仕事を進めていきたいと碇谷はいう。

「改めてそうしていきたいなと思わせてくれたのが、林建設工業さんの新社屋の仕事だったんです。そのために、いまは大小問わず様々な設計事務所ともコラボや業務提携の体制を整えているところです。これが整備できれば、東京にいる時と変わらない規模の仕事もできるし、反面で地元に密着した仕事もできる。設計士としてわくわくするような環境が作れると思っています」。そのように未来のビジョンを話してくれた。

碇谷は大の野球好き。小中高校時代を野球部で過ごし、いまでは母校の高校でコーチを務めている。「そういう生活ができるのは地方ならではですよね。東京だと仕事が100%じゃないですか。遊ぶのだって仕事仲間ということがほとんど。しかし、こちらはまず友人関係が最初にある。そして、そこから仕事が生まれる、という感じです。これだけで、ストレスの度合いがどれだけ違うか。Uターンして本当によかったなと思う大きなところです」

いつかは甲子園へ。夢を語るその表情は、高校球児に戻ったかのようにいきいきとしていた。