地域に「ずっとある会社」を目指して
「酒田市を主軸に仕事をしてきて、街の発展とともに会社も大きくなった。それはこれからも同じ、育てて頂いたご恩を忘れずに地域の発展に貢献することで、会社の存在意義もましていきたい。」と菅原は言う。それを体現する言葉は「小工事最優先」。つまり、利益の大きな仕事だけを最優先にするのではなく、本当に困っている人の力になれるような小さな工事にも気を配り取り組んでいこうということである。そうすることで地域に必要な会社としてこれからも発展をしていくのだ。
「会社を大きくする、という考え方ではなく、“ずっとある会社”というものを目指したい。“菅原工務所に頼めば孫の代まで安心だ”と言っていただけるような会社を目指して、この地域とともにずっとありたいと思っています。“ずっとある会社”というのは実は建設業を営む会社にとって大事なことだと思うんです。家を建てる人にとっては建てることよりも住むことのほうがずっと大事。道路などの土木工事だってそうです。造ることよりも使うことのほうが大事。そうなると我々は建てる、造るという部分を担うだけではなく、メンテナンスや解体など“建てたあと”にも大きな仕事が待っているんです。」
そのためにも「小工事最優先」で地域密着型の経営方針をとっている。ただし菅原はそこにこう付け加える。
「その会社を存続させるためには、やはりそこで働く社員皆さまの力が絶対的に必要なんです。そのため、社員の教育も重要ですし、働く環境を整えてプライベートも充実したものにして頂きたいと考えています」
そのため2018年より酒田市の建設業者としては初めて完全週休二日制を導入した。現場出身の菅原は仕事の工程の特性上“完全”というのは難しいのではないかと考えていたという。
「それでも社長は導入に踏み切った。それは従業員のため。仕事とともにプライベートも充実してもらいたいとの想いからだと理解しています。それが会社にとっても必ずプラスになると思うので。実際に一年やってみて、いろいろ課題や改善点も見えてきました。それを踏まえて会社にも社員にも適した体制をつくりたいと考えています」
地域とともにあるという意味
ずっとある会社。当たり前のような響きなのだが、そこにはさまざまな意味が含まれる。まず第一はお客様に対して。第二は社員に対して。菅原はこれまでの話に加えて第三の意味も話してくれた。
「私たちの会社がずっとあるためには、地域と手を取り合うことが絶対的な条件です。お客様、社員だけでなく周辺住民の皆さまや協力会社の皆さまとも円滑な関係を結ぶ必要があるんです。私たち建設会社だけでは成り立たないので」
仕事をしていくなかで感じているのが、例えば左官業のような職人がいなくなってきたということだという。そういった専門職の会社がなくなり人がいなくなってしまっては、自社も仕事の質が下がったり、効率が悪くなってしまう。そうなれば当然菅原工務所だけではなく、地域の建設会社が存続し続けることも難しくなるということだ。「まだ個人的な妄想の域ですけど」と前置きをしながらだが、菅原は「地域として建設業に携わる若手の教育体制を整えることができればいいと思っています。単純に学校というのではなく、仕事をきちんと続けながら専門業種の実務学校のような形で、職人や社員の育成の場が作れたらと思います。地域雇用も生みながら、建設業界の底上げもしたい。そんなふうに地域と手を取りあうことができたらというのが理想です」。第三の意味には、菅原が抱くそうした夢も込められているのだ。
「創業者である曽祖父の菅原定治郎は、土建業のいわゆる親方だったんです。仕事にとても厳しい反面、『社員のために、みんなのために』という強い想いを持った人だったんです。また二代目社長で祖父の菅原脩三は、競合他社とも手をとりあうような、他人への思いやりが強く、とても人望があった人だと聞いています。その気概、精神はやり方や形は違えど、現在の菅原工務所にも受け継がれていると思います。そのおかげでお客様だけでなく、同業他社、協力会社の皆さまとも良好な関係でうまくやっていけていると私は感じています」と菅原は話してくれた。
意見の飛び交う場所
「人を育てようという雰囲気はすごく伝わってきますね」。そう話すのは、千葉県からIターンで菅原工務所に入社した佐藤雅紀だ。
「簡単に言ってしまうと面倒見がいいという感じですか。きちんとコミュニケーションがとれる。それに加えて“意見がよく出るなぁ”という印象もあります。前職との比較しかできませんが、いまの職場は意見交換も活発です。しかも現場での意見交換だけでなく、事務作業や会社の方針の場でもさまざまな意見が出てくる」
佐藤は千葉県で生まれ、大学を卒業するまで千葉県で育った。その後、埼玉県で住宅設計の仕事を4年間経験した。結婚を機に、27歳の時に妻の実家である酒田にIターンでやってきた。
「以前努めていた会社では、建物ができあがっていく過程を見ることがあまりなかったんです。私の実感としては、モノづくりの感覚が薄かったんです。昔から夢が建築士だった。そこにはきっと建物を作るという現場も入っていたと思います。そういう仕事がいまできているという感じですね」
佐藤は現場にももちろん出ていく。そこでは、建設会社、協力会社関係なく、さまざまな意見が飛び交うという。それはさきほどの菅原の言葉が本当であることを証明しているともいえる。
「移住にあたっての最大の心配ごとはやはり仕事でした。仕事があるかどうかというより、想像ができなかったというほうが近いですね。ずっと千葉で暮らしてきたので、仕事も含めた生活そのものが想像できなかったんです。でも生活はもちろん、活気のある職場にやりがいを感じています。夢が少しだけ叶ったと言ってもいいのかもしれませんね」
菅原は現在専務取締役。会社を継ぐことを前提として入社したのかといえばそうではない。「実は子供のころはゲームが好きでプログラマーになりたかった。だから、高校は情報技術科にいったんです。でもなぜか大学は金沢工業大学の建築学科に。卒業後も会社を継ぐという考えはまったくなかったので、東京のゼネコンに就職し、現場と営業両方を経験しました。その後あるキッカケで酒田に帰ってきたわけですから、継ぐつもりはなかったとはいえ、いま振り返ってみると、親の仕事を見ていたのかなぁと思います」と菅原は笑いながら話してくれた。