半農半XでIターン!湯殿山スキー場を「R天国」のスノーパークに

スノーパークデザイナー 丸山 淳

東京都桧野原村出身の丸山淳さん。奥さんの実家にIターンで山形県鶴岡市羽黒町に来てから、丸山さんがいるならと全国から湯殿山スキー場に人が集まる業界では知らない人がいない有名スノーパークデザイナー。若い頃はプロスノーボーダーを目指していたのですが、気づくとスノーパークの作り手に・・・

まずは言ってみるやってみるから、スノーパークデザイナーに転身

-東京のご出身なのですよね?

「東京というか、桧野原村という東京都唯一の村で、山梨寄りなので、ほぼ山梨県民ですよね。(笑)立川から先の山手線沿線内の大都会にはなかなかいくことはなかったですよ。」

ここ鶴岡へ来る前も田舎暮らしをしてきたという丸山さん。小学校の同級生は4名。山好きの父の影響で、山奥の村で幼少期を過ごしてきました。父に連れられてスキーなどによく行ったりしていたのだとか。

-スノーボードをはじめたきっかけは?

「20歳頃にリゾートバイトで長野県菅平高原スキー場に行ったことがきっかけです。元々スキーが好きだったので、1人でバイトに応募してスキー場で働いていました。一度やってみたら見事にハマってしまいました。」

それまでスキーの経験はあったもののスノーボードは未経験だったという丸山さん。一つのことをやりだすと、とことんのめり込むタイプ。スキー場バイトでは、おもしろい仲間達との出逢いがあり、スノーボ―ド三昧でした。

-どんな生活でしたか?

「日中は仕事でも、仕事が終わればスキー場で滑ることができるので、毎日のようにバイト仲間とナイターで滑ってましたね。そこで出来たバイト仲間にニュージー(ニュージーランド)に行こうぜって誘われたのがきっかけで、日本のオフシーズンである夏でも滑れるニュージーランドに行くことになりました。」

冬場にバイトで働いては資金を貯めて、冬が終わると日本の反対側のニュージーランドに行くという、一年中雪山に通うような生活を続け滑り続けていました。

そんな暮らしを3年続けたあと、どうしても資金が貯まらない年があったのだとか。

-その年はニュージーランドへは行かなかったのですか?

「海外へ行くお金はなかったので、仕方なく千葉県にあった当時話題の室内スキー場に行きました。それが、たまたまその日は臨時休業だったのですよ。それでも滑りたい衝動がどうしても抑えられなくて、山梨県に室内スキー場があることを知って、その足で向かいました。」

室内スキー場があると聞いてやってきたのが、カムイみさかスキー場。一般客としてコースを滑ったところ物足りなさを感じた丸山さんは、店員さんにハーフパイプを作ることを提案します。

-どんな経緯でハーフパイプを作ることになったのですか?

「僕が店員さんにハーフパイプが作れることを伝えたところ、ぜひこのスキー場につくって欲しいと言われたんです。それで作ることになったので仲間と手探りで方法を考えながらがむしゃらになって作りました。」

以前行ったスキー場でもハーフパイプを作った経験のある丸山さん。ここカムイみさかスキー場にも、ハーフパイプがあったら、もっとおもしろいスキー場になるのではないかと思い、まず施設の方に提案をすることから、スノーパークづくりの第一歩を歩み出します。

「菅平高原スキー場に行った次の年に、いいずなリゾートスキー場にリゾートバイトでいきました。当時は、大会などでも、みんなでスコップを持ってパークを作って、みんなで遊ぶというのが主流でしたので、ハーフパイプづくりもそのときに覚えたのです。カムイみさかスキー場も同規模のスキー場だったので、ここでも作れるんじゃないかなと思いました。」

-どのように作ったのですか?

「当時はマシンなんてものはなかったので、ユンボで掘って、手で整えて、手作業で地道に作りました。(笑)今聞くと笑い話ですけど、その当時は本気でやっていました。好きでやってたので気になりませんでしたが、かなり時間もかかりましたね。」

その後、カムイみさかスキー場はハーフパイプのメッカとして人気が急上昇。その実績を買われてスノーパーク作りのコンサルティング会社からスノーパークデザイナーとして雇われ、長野県を中心に韓国、中国など国内外問わずディガー(スノーパークの重機オペレーター)としての活動の幅を広げていくことになりました。

※丸山さんが動かしているスノーパークの重機

スノーパークを作る様子

-自分で作ったコースは滑るのですか?

「作ったら滑ろうと思っていたのですけど、作ることで疲れてしまって、毎日滑っている訳でもなくなったんですよね。」

本来の目的である滑ることが疎かになるほどスノーパークを作ることが好きで没頭したといいます。後発の自分より若いプロ志望のボーダーがどんどんプロになってきて、次第にスノーボーダーとしてプロになることを諦めがついたのだとか。

-丸山さんにとって、スノーボードはどんなものですか?

「これしかやってこなかったのですが、自分はプロではないので、競技っていうより、初級者から上級者まで楽しめるみんなで楽しめる遊びです。スノーボードに限らず、スキー、ショートスキーとかを行う雪山ファンを増やしていきたいです。」

スノーボードで上を目指している子どもたちもいる中で、そうした子どもたちが練習できる環境を整えていくために、その分だけスノーパークデザイナーが必要とされるのです。結構、日本はすごくて、世界中からも注目されるような選手もたくさんいるんだとか。友人たちが活躍する場を影から支え、そうして支えた友人ボーダーたちが結果を出すことが、新たな雪山ファンをつくる。ハーフパイプを作れる人は、今はもうなかなか日本にいないからこそ、辞めちゃだめだという思いに駆られ、この仕事を続けている意味があると丸山さんは語ってくれました。

子育て環境を考え鶴岡にIターン

家族で山形市内にあるリナワールドへ行った際の写真

-Uターンのきっかけは?

「子どもが産まれた年だったので、子育てしやすい妻の実家近くで住みたいということが大きなきっかけだったけど、雪が多いと聞いた瞬間から、自分の好きなスノーパークづくりもできるかなと思って、そこから一気に惹かれるようになりました。」

-鶴岡にはどんなイメージがありましたか?

「こちらに来る前、妻の両親が果物や野菜をよく届けてくれていたのですが、それらがすごくおいしくて、農産物のおいしい場所なのだなというイメージがありました。」

-移住を決意してどんな行動をとりましたか?

「まず仕事を探さなければと思い、当時の人の繋がりから、湯殿山スキー場の募集をご紹介頂きました。面接が9月にあったのですが、その月は6回ほど山梨と鶴岡を行ったり来たりしていましたね。だんだん鶴岡も身近なものに感じてきました。」

-実際、来てみてどうでしたか?

「こんなに恵まれた土地はないですよね。それくらい居心地良く過ごさせてもらっています。僕は山育ちですけど、海はない場所で育ちました。ここには、海もあれば、山もあって、海水浴もできれば、山菜取りもできて、雪遊びもできるし、良い場所ですよね。こっちの人たちが集まってBBQをすると、そこらへんにある料亭とかより全然よい料理がでていたりします。」

-移住してきてギャップは感じていますか?

「こちらに来る前は不安しかなかったのです。仕事をやるのだったら農業かなと思っていたくらいでした。いざ来てみると、農業やキノコ狩りという新しい楽しみを見つけられたので、本当に移住してきてよかったと思っています。」

-湯殿山スキー場でのお仕事は冬だけですか?

「冬だけでなくて、夏はキャンプ場として使われているので仕事はあります。ただ、農繁期などは、スタッフ間で調整させて頂いているのでありがたく思います。」

冬はスキー場で働き、春がくれば田植えがはじまる。夏はキャンプ場を運営し、秋になれば稲刈りと、一年中仕事があり、四季を感じながら仕事が出来ることにやりがいを感じると語る丸山さん。移住当初、農業は天候次第なところもあり不安定ですが、みなさん親切なので手伝いの仕事を紹介するなど、なんとか暮らしていける状態です。

-こちらに来て働きはじめた湯殿山スキー場でも、これまでの経験を活かしスノーパークデザインを行う丸山さん。このゲレンデのこだわりを教えてください。

「湯野殿山スキー場は、「R天国」のゲレンデと呼ばれるようになりました。他のゲレンデでは、スロープスタイルと呼ばれる、レールをこすったり、ジャンプをしたりするアイテムを設置することが多いのですが、ここ湯殿山スキー場は日本で初めてゲレンデ自体がハーフパイプの滑走部分であるR(アール)になっているゲレンデです。」

丸山さんが20代の頃に行ったアメリカやカナダに行ったのゲレンデでは、1つのスノーパークで、年齢やレベルに関係なく小さな子どもを連れたファミリー層や、シニア層が一緒になって楽しんでいたのですが、ここ日本にはなかなかそうした光景がなく、少し寂しく感じていたのでした。ここ湯殿山スキー場は、全長300メートルで最大斜度35度の「上級コース」もあれば、全長2000メートルでなだらかな「林間コース」もありますが、ゲレンデ全体にR(アール)を作ることで、遊びの幅が広がり、レベルに関わらず、子どもからシニアの方まで楽しめるゲレンデになったのだそう。

※丸山さんが作った「R天国」ステッカー

こちらに来てからはじめたキノコ狩りが趣味に

はじめて山へ入ったときに採ったキノコ

-キノコ狩りをはじめたきっかけは?

「庄内で初めて出来た友人である妻の同級生に誘われて、鶴岡市のある山へキノコ狩りに行きました。」

-キノコ狩りはどんなイメージがありましたか?

「おじいちゃんたちがやる遊びかと思って、あまり気ノリしなかったんですよね。それでも、一回連れて行ってもらったときに、何十キロもの量のマイタケを見つけてそれを持ち帰って食べたら、びっくりするくらいおいしくて。そこから一気にハマりましたね。」

最近では、種類も大分わかるようになり、今では自分のスポットを探すようになったのだそう。いっぱいとれたときには、産直に置かせてもらったり、趣味としても楽しんでいる丸山さん。

-今後取り組んでみたいことは?

「スノーボードのような横乗りスポーツが自分は大好きだし、そうした「横乗り文化」を鶴岡市で根付かせたいと思っています。鶴岡市はスケートボード・サーフィン・スノーボードといういわゆる3Sスポーツが可能な全国でも希少な地域。今時点でもこの場所で、サーフィン・スノーボードはできるので、スケートボードを楽しめる場所を提供出来るようにしていきたいです。」

路面があればどこでもできるスケートボードをこの地にもっと根付いていくように、子ども達が安心して気軽に楽しめるような遊び場を造っていきたいと新たな夢を語ってくれました。

庄内でなりたい自分になる

-「ショウナイターンズ」のキャッチコピーである「庄内でなりたい自分になる」。丸山さんは庄内でなりたい自分になれている実感はありますか?

「なりたい自分になれてます。むしろ、庄内じゃなかったら、なれてなかったですね。今までは、スノーボードだけで過ごしていたので、ずっと冬しか経験してなかったのですが、こちらに来てからは四季があります。春夏秋冬それぞれの季節を感じながら、楽しく過ごさせてもらっているのは庄内ならではだと思うのです。」

冬が終われば田植えがはじまるし、やらなきゃならないことがたくさんあるので、一年があっという間に過ぎていくと丸山さんは言います。

「もっと多くの人に来てもらいたい。もっとこの場所を知って欲しいし。こんなやり方あるよってことを他からも教えてもらえたらもっと発展していくだろうなとも思います。ここはここのやり方はありますが、いろんな人が入り混じって湯殿山スキー場から日本のスノーボードを盛り上げていきたいです。」

スノーパークづくりだけでなく、きのこ狩りという新たな楽しみを見つけ、ワクワクする丸山さん。実際、湯殿山スキー場は丸山さんが作ったスノーパークを滑りたい人で賑わいを見せています。今後ますます、面白い場所になっていきそうですね。

-取材場所-

-湯殿山スキー場-

雪質に優れた庄内地方最大のスキー場。
全長300メートルで最大斜度35度の「上級コース」から、全長2000メートルでなだらかな「林間コース」まで実力別の4つのコースがある。
その熟練度合いに合わせた幅広いコース設定と、ハーフパイプなどアイテムがあることなどから、全国からたくさんのボーダーが集まる。

名称 スノーパークデザイナー 丸山 淳

文:伊藤 秀和

首都圏での子育てに課題を感じて、2018年5月に三川町地域おこし協力隊として、山形県・庄内地方にIターン移住。「人生思い出作り」をライフコンセプトとして、「書くこと」「話すこと」「場作り」事業を中心とした「ものかきや」として現在活動中。

家族4人、山形暮らしはじめました。