インフラづくりから建築まで庄内の発展を形にしてきた。今必要なのは、若者の起業精神。

株式会社佐藤工務 代表取締役社長 佐藤 友和

鶴岡市立加茂水族館や鶴岡アートフォーラムといった公共建築、庄内観光物産館などの商業建築、企業の社屋や一般住宅に加えて、道路工事などのインフラづくりまで広く土木と建築に携わる佐藤工務。同社の2代目にして、各種プロジェクトを受注しながら庄内の街づくりに携わり、その変遷を見つめてきた佐藤友和に取材した。

大学では工学を専攻した。幼い頃から先代である父親に連れられて建設現場へと遊びに行っていたから、「ごく自然と選択肢がそうなった」。

「親から継いでくれと言われたわけではないし、何になってもいいと言われていた。だけど当たり前のように土木工学を学んで、家業を継ごうと思った。大学を卒業してよその建設会社で修行して、同じ建設業だったら『継ぐか』となって鶴岡に戻ってきて、現場に行ったり、営業もやったりと経験を積んで今に至る、だな」

高度経済成長期からバブルにかけて、佐藤工務は街づくりに大きく貢献した。ところが、まだ若く経験値も低かった佐藤は「仕事を始めた20代の頃は、デベロッパーみたいに地域をつくることなんて考える術もなかった」と笑う。

「橋だろうが道路だろうが漁港だろうが、公共の仕事を受注すると、規模に関わらず一件ずつの工事をきちんと完了させることを目指すだけ。受けた仕事をきちんとやる。そのために、地元住民とコンセンサスをとって、役所と打ち合わせをしながらものを作っていく。誰一人考えが違ってもうまくいかないから、チームワークだな。工程をきちんと追って、出来形(できがた=施工が完了した部分)を管理しながら完成を目指す。そこにやりがいを感じて、経験が積み重なっていったんだな」

受注の拡大が表す庄内発展の歩み

大学では土木工学を専攻したことで技術と手法を学んだ。そして仕事を始めてからは、現場で起こるさまざまな不具合に対応し、地元住民との折衝を行い、マネジメントとコミュニケーションの能力を高めた。役所や住民から地域のニーズを聞き取り、何もないところに道路や橋を作りながら地域のインフラを整えて実績を伸ばし、1980年代に入ると、公共の仕事と並行して民間の受注も一気に拡大したという。

「最初は地元の縫製や電子関係の工場だったな。当時はメイドインジャパンの時代。よっぽどの規模のメーカーでなければ国内の下請け工場に発注していたから、工場がどんどんできた。公共の仕事も途絶えなかったから、どの仕事も円滑に完了させて、仕事が評価される会社でないといけない。発注者に対しても、地域に対しても、会社の従業員に対しても責任があるからな」

佐藤工務の受注拡大の歩みを聞くと、それはまさに、日本各地の中堅規模の都市が経た発展の歴史だ。

「地方都市では製造業が発展したことで、人口の増加にあわせてスーパーマーケットが増え、コンビニやファストフードなどのフランチャイズも広まった。景気もよくなったおかげで、アミューズメント施設の需要も生まれた。パチンコ屋さんが増えたのもこの頃だな。90年代に入るとビジネスホテルの波がきて、マンションバブルのようなものが地方で起こったのは2000年を過ぎてしばらく経ってからだな」

冬の厳しい寒さがあるため、庄内地方ではまだ潜在的にマンションの需要があると佐藤は見込んでいる。とはいうものの、少子化による絶対的な人口減少と、地元から若い世代の流出が続いている事実から目をそらすことはない。

「どこの地方でも、人口30万以下の都市を見ると、大型店舗がオープンして、ネットでも何でも買えるようになったことで既存の商店街がシャッター通りになっている。疲弊した商店街をどうするかっていったら、やっぱり若い人の起業しかない。クラフトでもいいし、洋服屋でもカフェでも、若い人が若い人のニーズに応えるお店をどんどん立ち上げないといけない。

酒田では起業する若い人に、市が100万の補助金を出しているみたいだけど、そういう風に商店街が変わっていくべき。若い人が自分たちの好きなものを出す店がどんどん増えていけば、それだけでもすごく明るい話題になる」

受けた批判を教訓にする

北前船による交易を通じて京都などから新しい文化を受け入れてきた「新しいもの好き」のメンタリティが、そもそも庄内には備わっているのではないか。そう指摘すると、それは過去のイメージに引っ張られているだけではないかとやんわり否定する。

「ファクターとして歴史や文化は残していくべきだけども、江戸時代と今では物流も違うから、異文化との距離感も時間の感覚も違う。江戸時代は、北前船で京都に紅花を運んで、その代わりに京都からは反物などを仕入れ、京の文化が入ってきていた。でも今は、欲しいと思ったものはネットで注文すれば次の日に届く。海外のブランドものだってすぐ買える。そういう時代だからこそ、庄内の若い人たちが、庄内でオリジナリティを持ったものを扱って、若い世代が地元に定着するために起業して欲しい。それが可能で若い人の過ごしやすい環境を整えることが大事だ」

ヤマガタデザインが取り組むサイエンスパーク発の地域開発に好意的な目を向け、支援し続ける背景には、そのような考え方があるのだ。

「子育てのための施設を作ったり、無農薬の野菜を地元に供給しようとしたり、ヤマガタデザインがやろうとしてることのコンセプトは非常にいいと思うわけよ。社長の山中くんは地域への熱い思い入れを持っているから、庄内の出身者としてはありがたいと思うし応援もしてる。ただ、山中くんは理想に燃えて突っ走るところがあるから見ててハラハラする。心配する親心みてえなもんかな」

期待を込めて嬉しそうな表情を見せると、自身の若い頃を思い返したようにこう話し始める。

「佐藤工務で働き始めた若い頃、夢中で営業したから地域での受注も突出して多くて、周りから煙たがられたわけよ。世間からしたら『いつまでもいい時だけじゃねえあんぞ』とか言われたわけだ。批判もされた。カチンと来ることもよくあったけど、人から批判されたことは全部書き残すようにしてきた。なぜかというと、それは後で財産になるから。

批判されたことを振り返って、どうすればそうされないようにするかと考えればスキルアップにつながるわけだ。それを乗り越えれば批判されなくなって、さらに向上できる。褒められたことばっかり覚えてても、現状維持で止まってしまう。批判こそ教訓になる。若い時に批判をきちんと受け止めてこなかったら、自分はもっとわがままになってたんだろうなと思うよ」

掛け軸に書かれた家康公の遺訓

そして、今大事にしているのは、「至誠」という言葉だ。限りなく誠実であること。すべてのことに対して誠を尽くすこと。地元の声を聞き、地域社会への貢献を目指す佐藤工務の企業理念は、まさに「至誠」という言葉が社内で共有されていることを表している。

そしてインタビューを終えると、「俺も『鳴くまで待とうホトトギス』のタイプだから通ずるものがあるんだよ」と、書道の先生に書いてもらったという掛け軸(社長室で撮影したトップ写真の佐藤社長の左側)の読み方をプリントして手渡してくれた。

人の一生は、重荷を負いて、遠き道を行くが如し。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心に臨み起こらば、困窮したる時を思い出すべし。堪忍は、無事長久の基。怒りは、敵と思え。勝つことばかり知りて、負くることを知らざれば、害其の身に至る。己を責めて、人を責めるな。及ばざるは、過ぎたるより勝れり。

徳川家康公 遺訓

住所 山形県鶴岡市東新斎町7-61
名称 株式会社佐藤工務 代表取締役社長 佐藤 友和