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株式会社イタガキ / 一般事務(総務・パソコン使用)

インタビュー記事

更新日 : 2024年11月28日

東京スカイツリーを土台から支える会社がある。それが鉄骨加工、建築鉄骨工事などを手がけるイタガキだ。庄内に本社をおきながら、東京スカイツリーやJR鶴見駅ビル、グッチ銀座ビルなど、東京、神奈川など首都圏の大型物件にも鉄骨を供給している。高く評価される確かな技術力は人から人へと歴史のなかで受け継がれてきたものだった。代表取締役の板垣昌之は「いいものを作るには、いい人間を育てないといけない」と語る。創業から150年の歴史を紡いできたイタガキで話を聞いた。

株式会社イタガキ 事業概要

明治元年となる1868年に、現在のイタガキの前身となる鍛冶屋を創設。そこから数えれば150年という長い歴史を刻んできた会社となる。現代表取締役の板垣昌之によれば、創業当時は鍛造を中心とした鍛冶屋として営業し、その後は農機具や船の釘など、地域のニーズに合わせて扱うものを変え、地域と共に育ってきた会社だという。 その後、昭和36年(1961年)より軽量鉄骨加工を開始。昭和44年(1969年)に法人化をして、大手鉄鋼メーカーの指定工場として建築鉄骨加工業をしてきた。このときに最新の技術力を学ぶことができたと板垣は話す。地道に事業を続けてきたことでしばらくのちにゼネコンからの直接受注が始まり、現在は山形、東北地方だけでなく、東京など首都圏のゼネコンからの受注も多くなっている。その仕事のなかには、東京スカイツリーやJR鶴見駅ビル、グッチ銀座ビルといった大型建設物も含まれ、イタガキの技術力は高く評価されている。

まずは代表取締役の板垣昌之に、会社のこれまで、いま、これからの3つを軸に事業上の強みや会社の目指すところを聞いた。

-山形で創設された会社で、山形に本社がある。そのなかで東京スカイツリーをはじめとした首都圏の大型物件にも鉄骨を供給していますが、どのような経緯で首都圏に進出したのでしょうか。

板垣:現在は首都圏での仕事が多いですが、もともとは地域で育ってきた会社というのは間違いありません。創業は明治元年とされています。1868年ですから、すでに150年以上経っていることになります。創業当時は鍛造を中心とした鍛冶屋として営業していました。途中で第二次世界大戦があって、そのときは軍需品の製造をし、戦後は農機具や船の釘など、地域のニーズに合わせて扱うものを変えてきました。現在のように鉄骨加工を開始したのは昭和36年(1961)のことです。

-その後、事業を拡大していったきっかけは?

板垣:法人化して現体制をとったのは昭和44年(1969年)。そこから大手鉄鋼メーカーの指定工場になり建築鉄骨加工を中心事業としました。仕事としてはきつい部分もありましたが、このときに最先端の技術を十分に学ぶことができました。現在の首都圏での大型物件への鉄骨供給の足がかりとなったのはそこですね。そのため、大手メーカーが撤退したあともゼネコンからの直接受注をいただくことができました。

-技術力が評価されたということですね。

板垣:ただし、仕事をしていくなかで技術力というのは知識だけではないと思ったんです。いいものを作るには、いい人間を育てなくてはいけない。どれだけ最新の技術を取り入れてもそれを扱う人間がしっかりしていないとだめなんです。会社を作り上げているのは技術ではなくて、あくまでも社員なんですね。
ひとつの例なんですが、東京スカイツリーの建設現場に行った時に、作業員の靴がピシッときれいに並んでいたんです。それを見て今日一日、自分の仕事、生活を大事にしている人たちが働いているんだなと感じたんです。そんなふうに「自分の人生とは何なのか」、そして「何のために働くのか」といったことを自問できる人間であってほしいと思います。答えではなく、問いを持っている人ですね。そうすれば学んだ技術を十分に応用できる。会社の理念は「人と技術を高めて社会に貢献すること」なのですが、それが実現できるのではないかと思います。
 鉄を使って人々の喜びに貢献する。それを目指して、今後は日本が誇る最先端の技術を海外にも展開できればと思っています。地震大国日本で培われた安全の技術を広められればと考えています。

外側からは見えないけれど、歴史に残る仕事

次に現場で働く4人に来てもらい、それぞれの仕事のやりがいなどを聞いた。来てもらったのは鉄骨の設計図、加工画などを描く仕事から、発注管理、総務とさまざまな職種の4人だ。それぞれが「建物」をどのように見ているか、「仕事」をどう見ているか、そして代表取締役の板垣の言う「人を育てる」をどう感じているかなど、さまざまな話が聞けた。

-イタガキは、建築物のなかでも鉄骨、鉄工といったところの仕事をしますよね。つまり外側からは見えない仕事。そのなかでみなさんは完成した「建物」というものをどのように捉えているのでしょうか。

髙山:わたしは柱や梁などの製品に関わる部品の発注に関わっています。発注したものを工場でとりつけるわけですが、仕事が滞りなく終わったときはほっとします。単純ですが、そういう小さなところでやりがいも感じています。

髙橋:わたしは設計図面から図面を描く仕事。図面を描くというのが仕事なので、現場でモノが出来上がっていく姿をゼロから見ることは実はあまりなかったんです。それが県外の物件となればなおさらです。でも最近は地元の仕事を担当する機会も増えてきたので、その過程を見ることが増えてきました。やはり自分の仕事が形になっていく姿は感動的でしたね。

髙山:たしかに。そういう感動はありますね。でも、例えば東京スカイツリーのように、地図にも歴史にも残る建物に関わることができたというのは、それだけで感動しますよ、やはり。

髙橋:そうですね。東京スカイツリーでは商業施設の箇所を担当したのですが、そこの部分を歩くと「ここを担当したんだ」とちょっと見方が違ってきますね(笑)

人と歴史が技術をつなぐ

-河内さんと佐藤さんはそれぞれUターン、Iターンでの入社と伺っていますが、どのような経緯で移住、入社されたのでしょうか。

佐藤:妻がこちらの出身で、里帰り出産をしたんですね。それで子どもが大きくなる前に移住しようかと。

河内:私は東京で機械の組み立ての仕事をしていました。やはり移住にあたってもっとも不安だったのは仕事でしたね。これまでの経験を活かせる仕事があるだろうか、仕事をやっていけるだろうか、そういう不安がありました。そうしたときに「この会社は人を育てる会社だからいいよ」と紹介されたんです。実際に入ったらそのとおりに感じることが多々あります。言葉は単純ですが「優しく教えてくれる」という感じがすごくあるんです。

佐藤:わたしは総務という仕事柄、各部門を行き来することが多いですが、部門間、組織間の壁というのを感じませんね。縦割りのところがまったくない。

髙山:年齢の差というのも私は感じないですね。年長者だから、若いから、といったことはなくコミュニケーションがとれている感覚はあります。

髙橋:わたしはこれから「人を育てたい」という気持ちもあるんです。仕事の質も量も高いものを求められるので、働く人間の質も高めないとさばいていけないという実務的な部分もあります。でもそれと同時に、自分がこれまで教えていただいたことへの恩返しですかね、そういった気持ちもあります。つないでいく。教えてくださった先輩方の教えを後輩にもつなげていきたい。

-佐藤さんはIターン。移住の不安などありましたか?

佐藤:もちろんありました。仕事もそうですが、生活もまったく新しい環境に飛び込むということになるわけですよね。地域の人とうまくやれるだろうかといった不安はありました。ただ、いまはそれを楽しめている感じはしますね。自分の知識量が増えている感覚もあるし、チャレンジしながら幅が広がっていく感覚もあります。

河内:人とのつながりというのは、移住組にとってはありがたいですよね。

髙橋:人はあったかいよね。

河内:自分としてはこちらへ移って来て一番良かったのは趣味のサーフィンをやる環境としては抜群ということ。趣味が大事なんで(笑)

-みなさん、仕事を含めて今後はどのようなことを目指していますか?

髙山:資格がほしいと思って勉強しています。ただし、資格取得だけが目的でなく、知識の幅を広げて仕事の幅も広げていくことが目的ですね。

髙橋:わたしも専門分野に限らず幅広く知識・教養をつけていきたいと思っています。あとはさきほどお話したように人を育てたいという思いがあります。

河内:わたしはいろいろな人とつながりたいという気持ちがあります。仕事でいえば、自分の担当分野だけでなく、縦、横さまざまな方向の人と話ができるようにしたい。

佐藤:知識という意味ではわたしも必要を感じています。総務という仕事なのですが、仕事を効率的にこなすシステムというのは鉄骨の知識がないとできませんからね。あと、目標といえばゴルフのスコアで100を切ることですかね。会社の敷地内にゴルフ練習場もあるんです。でも、なかなかうまくなりませんが…

創業から150年。現在では東京スカイツリーなど地図と歴史に残る大型物件の根底を支えるイタガキ。高く評価される技術力を支えるのは“人の力”だった。