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建築・土木資材の営業担当

金屋株式会社 / 地域の為に動けるチャレンジ営業担当

インタビュー記事

更新日 : 2024年07月10日

建築・土木資材の販売を手掛ける金屋株式会社。庄内地域に根を下ろし、長い歴史を持つ会社の中心にあるのは「人」だという。その「人」とは誰なのか。金屋株式会社で働く三人に話を聞くことで、その存在を見つけ出していきたい。

金屋株式会社 事業概要

創業は1779年。そこから数えれば250年近い歴史を持つ会社だ。新潟県の村上市にあった宮川屋が酒田で「京都二条通金屋市右衛門出店彦惣」として薬種店を営むことが起源で、後に鶴岡風間家の初代風間幸右衛門が「金屋」を屋号に使ったことが社名の由来である。薬種問屋としてスタートした金屋が現在の建築・土木資材の販売という業種に移ったのは昭和になってからのこと。1945年に金屋が設立された。そのとき、所有していた山林を伐採し建築資材として販売したのがスタートだ。 戦後の復興による建築ラッシュもあいまって、昭和を通して順調に会社の規模を大きくしていった。2000年代に入ると、生活様式の変化のスピードについていくため、社員の意識改革と勤務環境の改善を進めた。すべての業務・業績を可視化することによって、チームとしてのモチベーションがあがり、例えば個人のお客様への販売提案やリフォーム施工などの新分野の開拓も自然と起きた。そこから既存の概念に囚われないチャレンジを歓迎し、すぐに行動に移れるという現在の社風ができあがった。社会が必要としているものを仕事にする。それを根底に置き、これからも業種、業態にこだわることなく、さまざまな展開を目指している。


「社会的価値」とは何か?

 金屋株式会社は創業から240年以上の歴史を持つ会社だ。もともとは薬種問屋としてスタートし、昭和に入り保有していた山林を切り出して建築資材としたことから、建築資材の販売という現在の業態が開始された。「金屋」としての設立が1945年なので、そこから数えても80年近く庄内に根を下ろして活躍してきた会社なのである。
「歴史」は、人が築き上げてきたものだ。漫然と日々を過ごしていれば積みあがるものではない。そのときどきで最善、最良を目指し、動くことの積み重ねなのだ。だから、歴史に学ぶことは多い。しかし、ときに歴史は不必要な硬直を生むこともある。「これまで通り」と、歴史や伝統だけを守ることに固執していては、新たな前進は生まれない。そして積み上げたものが崩れてしまうことだってあるのだ。
 金屋がそうであったかどうか。「給料はともかく、つぶれることは絶対にないなどと揶揄されたこともありました」と言うのは、現在、代表取締役を務める齋藤伸だ。金屋は昭和を通して、順調に会社の規模を大きくしてきた。会社の所有する資産も多く、外部から見れば「つぶれない」というふうに見えたのかもしれない。しかし、さまざまな社会的要因、それに伴う人々の生活様式の変化により、売上が思うように伸びなくなってきた。
「そして、いよいよ、これ以上は本当に大変なことになってしまうというところまで来てしまいました。それで会社の改革をしようと決意したのが2000年のことです」と齋藤は話してくれた。

そのときにまず着手したのが、会社の規模を小さくすること。そうして業務を凝縮して濃いものにすることだった。齋藤は「社会的価値」という言葉を使って表現していたが「社会的価値のあるものを提供することを根底にして業務を考えるようにしました」という。
バブル以後、薄利多売で売り上げがあればいいという仕事では通用しなくなってしまった時代のことだ。消費者の価値観はいよいよ多様化し、例えば「いい車に乗る」「いい家に住む」というのが絶対的価値ではなくなった時代である。そうなったときに考える「社会的価値」とはどんなものであったのだろうか。

「そこにはやはり『人』が必要だったんです。人はどんなものを求めているのか。庄内にはどんな生活があるのか。通り一遍でない、『それぞれの』生活を想像することが結果的にはすべてだったんです」それに対応するには、時間も労力もかかる。齋藤も「卸問屋としてエンドユーザーから遠いところで仕事をしているのはある意味では楽かもしれません。しかし、未来を考えると、よりユーザーに近いところで仕事をしないといけない。決して楽な道ではありませんが、その道を選んだんです」と当時を振り返り、話をしてくれた。

意識改革こそが会社改革だった

 会社としてはいわばその「人を中心に据えた道」を選ぶことを決めた。しかし会社にも「人」がいる。会社は道を示すだけだ。その道を歩くのは社員という「人」なのだ。このときも金屋は「人を中心に据える道」を選んだ。それが社員の意識改革、そしてそれに伴う働く環境の改革だった。

 それまでの歴史が育んだお客様とのつながりというものもあったのかもしれないが、資材販売の営業はとかく属人的になりがちだった。営業の手法はもとより、扱う商材や売り上げなどもあまり共有できていなかったという。また、当時は部門ごとに商品がきっちりわかれており、横のつながりはなかったという。そこで数字を会社の共通言語とし、営業に関するすべての数字を開示するようにするとともに、商材もすべてオープンにしたそれが浸透していくに従い、社員同士のコミュニケーションが増えたという。チームとして目標をきっちりと数字で定めることで、個人間の競争の種となるのではなく、コミュニケーションの種になったのだ。それと同時にこちらも個人の能力によるところが大きかった経理などの事務も業務改善を行った。そうして可能な限り仕事をシェアして、営業も事務も「あの人がいないとどうにもならない」といった状況がないようにし、働き方の環境を改善していった。

 環境が変われば、意識改革も進んでいく。社員が「社会的価値のある仕事」、そしてそれを数字として定めてその目標に向かっていくという一方向を向いて歩きだすようになったという。

チャレンジすることができる環境

「え、俺がやるの? という感覚が正直なところでした」。
 そう言って笑うのはインタビューをしたうちの一人である板垣鉄平。この「俺がやるの?」という言葉は、営業戦略を立てるチームのリーダーに選ばれたときの感想だ。この言葉に否定的な響きはない。驚きとともに「俺にやらせてくれるんだ」という期待にも似た感情だったのだろう。

 リーダーに選ばれた当時板垣は営業部内で年齢的にはかなり若いほうだった。上には古くからいる上司、先輩がいる。だからこそ「俺にやらせてくれる」という気持ちだったのではないだろうか。
2000年以降の意識改革が社内に浸透し、金屋の社風は、チャレンジを歓迎するものとなっていた。社会的価値を提供するものという軸さえブレなければ、さまざまな発想があっていい。そこには肩書や年齢など関係ないという風通しのよさがあったのだ。

 板垣は関東で消防士として働いた経験がある。憧れの職業であったが「ちょっと苦しかった」という。
「消防士はやはり規律を重んじるところです。もちろんそうしないと仕事が完遂できないので仕方のないことだと思います。しかし、私の気持ちには合わなかった。私はどちらかとえば自由に、柔軟に物事に対応していきたいほうなのです。消防士はかっこいい。憧れでしたが、実際に仕事をしてみて、そういう自由な発想のできる仕事をしたいなと思うようになったんです」

それで営業という職種を選んだ。自由な発想でチャレンジを歓迎する社風の金屋に入って、その想いは実を結び、営業成績も高く若くして活躍することができたのだ。その姿を見て、齋藤が「一度その手法をプレゼンして社員に公開してくれないか」と提案した。情報共有という意識も浸透しており、板垣はプレゼンを行った。そこから営業戦略チームの発足が決まった。そのリーダーに若い社員が立つ。それを普通のこととして受け入れるのが金屋の強みなのだ。

「私もチャレンジを歓迎する社風というのはすごく強く感じています」というのは、板垣と同じく営業職として働く小池悠斗だ。

「私たちはこれまで建築・土木の資材を主に扱ってきました。それは現在でも会社の主力業務です。お客様は建設会社や官公庁ということになります。しかしそのなかで私は個人のお客様の仕事を多くさせてもらっています。新築住宅やリフォームのお手伝いを資材販売という側面からさせてもらっているのです」
新規分野の開拓を入社してからすぐにやらせてくれたというのだ。小池のいうように売り上げの主力は建設会社などへの資材供給なのだが、会社としてはこれから個人に対する分野もさらに開拓していきたいという。小池自身も「さらに顧客のジャンルを増やしていきたい」と語ってくれた。

 もう一人話を伺った菅原美紀も営業を経験した一人だ。家族との時間を持ちたいと事務へ籍を移したが、「営業を経験したからこそできる事務の方法もあると思うんです」と、これからのことを語ってくれた。
「娘が高校生になるとき、もしかしたらこの3年間が娘と暮らす最後の時間になるのかもなどとぼんやりと考えたんです。そこできっちりと時間がとれる事務の仕事への異動を相談しました。相談はしやすい環境だったので、一人で抱え込むこともなく気軽にできました。そうしたらこちらの想いを汲んでくれて動いてくれたんです。すごくうれしかったですね」

そう当時のことを振り返る。「恩返しというわけでもないですけど」と言って、菅原はこれから営業の経験があるからこそできる事務の仕事をノウハウ化して、さまざまな人に伝えていきたいと話をしてくれた。

 三人にインタビューをして印象的だったのは、常に未来を見て話をしてくれたことだ。話の最後には必ず「これからはこうしたい」という想いを語ってくれた。これも金屋のチャレンジ精神が浸透しているところなのではないだろうか。

「オーナー経営ではないから、トップダウンではなく、より自由な発想でビジネスが展開できる」とは、社長の齋藤の言葉だ。

板垣も自分のステップアップについて少し笑いながら「いずれ社長になりたいと思っているんです、実は」と言う。「自分のステップアップを思い描いた時に、最初はがむしゃらに営業をする、次にチームマネジメントをすると続き、最後は自分が社長になるとと夢を描いているんです。社長というのは象徴的な言葉かもしれませんが、自分の発想で、いろいろなことをしてみたいという思いなのかもしれません。そのとき、自分の周りも自由で独自な発想で仕事ができる人になってほしい」と言う。「社会的価値を提供する」。それが金屋の仕事の根本にあるものだ。その軸さえブレなければ、どんなことだってできる。つまり、どんなときでも会社や地域を変えていける可能性があるということだ。それが板垣の「社長」という言葉には表れているのだ。

「例えば問屋として注文を受けたものをお出しする。それだけでは、ただの価格競争になってしまって、先細りしていくのは目に見えています。だからこそ、そこに住む人々の生活を想像することが大事だと思うんです。営業ですからロビー活動もします。それは情報を引っ張ってくるという意味だけでなく、人々の生活がその建物ができることによってこう変わるということを知ることでもあるんです。そうして営業先に未来の話をする。そういう営業ができればいいなと思っています」

その想いにはやはり「人を中心に据える」という考えがあった。大きな建物でも、堤防などの土木建設でも、そして個人の住宅でも、そこには人々の生活がある。「例えば個人のお客様が新築住宅を建てるといったときに、どんな人なのか、どんな生活をしているのか、どんな未来を描いているのか、『人』を想像して提案をしていくことが必要だと思うんです。それは決して機械にはできないこと。プロとして経験を積んだからこそできる提案があるはずなんです」。そう若きリーダーは話をしてくれた。

代表からのメッセージ
金屋株式会社 代表取締役 齋藤伸

当社の主な業務は、建築資材・土木資材の販売です。言ってみれば「卸問屋」ということになります。しかし、その言葉の響きの古さが表す通り、これからは必要とされなくなっていく仕事なのではないかと思っています。お客様がほしいといったものを事務的に調達して販売するというのでは通用しません。人々の生活は目まぐるしく変わり、建築、建設の技術も日進月歩です。それについていき、事業を展開するためには、やはり「人」を中心に考え、想像し、未来を創っていくことが必要だと思っています。これからは更に人に寄り添う仕事ができたらと思っています。

 しかし、当社で言う「人」は社員のことも指します。社員が働きやすい環境を作り、給与制度も含め、豊かな生活ができるための制度を整えていきたいと思っています。年齢、肩書に関わらず意見がいえる。新しい発想でチャレンジができる。そんな職場です。ぜひみなさまのご応募をお待ちしております。