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始まりは大雨による貯め池の決壊。土木と建築の両分野で開発を進め、地域の基盤を足元から支える。

前田製管株式会社 / 施工管理

インタビュー記事

更新日 : 2024年02月22日

土木と建築の両部門において必要不可欠なコンクリート製品。コンクリート部材の製造を軸に、設計から製造、施工までをトータルで担う前田製管は、取扱量、技術、品目、営業エリアの広さでは地元建設業界はもとより、大手・中堅ゼネコンまでも一目置く貴重な存在だ。土木部門で営業を統括する土田保と、建築部門の製造現場で指揮をとる植田孝行にインタビューを行った。

前田製管株式会社 事業概要

創業は1929年。現社長の祖父にあたる創業者前田巌は、地域の主な産業である農業の発展に大きく貢献。晩年は庄内空港の建設計画を推進し、のちに「ミスター庄内空港」と親しまれるようになった。 創業当初は、用排水路やヒューム管といった土地改良事業が主であったが、コンクリートの持つ強度、製品加工、大きく重く施工が難しいと言った課題を現場に根ざした開発力により次々にクリアし、地元自治体、大手・中堅ゼネコンからの信頼を獲得。高度経済成長以降は都市土木にも進出し、道路・鉄道網の整備に始まり、パイルと呼ばれる建築物の基礎杭の製造・施工に事業範囲を広げた。 その拠点は山形県のみに留まらず、北海道から東日本全体をカバーする全国有数のコンクリート二次製品メーカーとして成長を遂げていった。創業から90周年を迎える2018年度。設計・製造・施工までの一貫体制を確立し、新素材の開発と活用にも積極的に取り組む日本有数のイノベーティブなモノづくり企業となった。 最近では道路などの地域のインフラから、商業施設、マンション等の基礎工事に留まらず、梁や柱等の建築部門及びトンネル工事におけるセグメント等に幅広く貢献し、2020年の東京オリンピック関連でも主要施設の建設に大きく貢献している。

−まずお二人の経歴をお聞かせください。

植田孝行(以下、植田):私の出身は北海道です。八戸工業大学で建築を専攻したのですが、たまたま私の研究論文のテーマがコンクリートに関するもので、当時会社の技術陣が研究していた内容と同じものだったんです。燃えにくくて扱いづらいといわれるお米のもみ殻の特性を逆手にとり、燃やした後のもみ殻灰をコンクリートに混ぜて強化することができるのではないか、という廃棄物の再利用の取り組みです。土木学会や日本建築学会で発表を聞いたときに、テーマが同じということでお話しさせていただく機会もあり、それがご縁でこちらに就職しました。

−宇都宮工場にやってこられた経緯とは?

植田:最初は酒田の本社に入社したんですが、3年ぐらいして福島県の郡山工場で建築を実地で学ばせてもらいました。それから営業も経験し、15年前に宇都宮工場で建築部材の製造を行うということで、社長に声をかけていただいて宇都宮にやってきました。こちらの工場では、原材料である鉄筋の加工組立を行い、それを型枠にセットして、やはり原材料であるコンクリートを練り混ぜて打設する鉄筋コンクリートの建築部材を製造しています。 従来、建築部材は建設現場で鉄筋と型枠を組み、そこにコンクリートを流し込む現場内といわれる手法が一般的ですが、都心の現場は作業スペースが限られ、納期も短いケースが多く、設計どおりの品質を維持するのは難度が高い作業です。そこで弊社は、工場でプレキャスト・コンクリートと呼ばれるある程度の形の部材をつくり、現場に運んで施工するという方法で建築現場の省力化に貢献しています。

植田:スーパーゼネコンさんからご指名をいただき、東京や神奈川などの都市開発に参画させていただく機会も多いです。おもに高層住宅の建築です。それと最近ですと、2020年の東京オリンピックで使用される競技場の建設にも関わっています。階段状の客席などのコンクリート部材を工場で製造し、建設現場に供給しました。

−土田さんも経歴をお願いします。

土田 保(以下、土田):私は庄内の鶴岡で生まれ育ちまして、地元に密着した会社として前田製管の名前は子どもの頃から知っていました。そして工業高校の建築科を出たので、就職先として建設会社を探し始めました。また、1992年に山形で国体が開催されたのですが、前田製管はラグビー競技に協賛する指定企業でして、私もラグビーをやっていたものですから、地域貢献も兼ねて弊社への就職を希望した次第です。

−酒田本社に就職されて、現在は仙台の東北支社に勤務されているんですね。

土田:入社した当時は酒田で設計図面を作成して工場で製造に立ち会うなど、建築部門に携わっていました。阪神淡路大震災の際には、庄内町にある本社工場で製造した部材を積んだ大型タンカーが、酒田港から神戸港へと向かう様子なども見る機会がありました。

−江戸時代の北前船を連想させますね。

土田:まさに同じような航路をたどって神戸まで建築部材が運ばれていました。それからしばらく東京に赴任したのち、今度は2011年、東日本大震災のあとに仙台に移りました。復興に関わる事業で弊社ができることはすべて行おうということになり、東北支社で土木の営業部門を担うことになったのです。

−震災直後に東北に行かれ、復興事業はどのように始まったのでしょうか。

土田:まずは青森の八戸から仙台まで、車で1日半かけて沿岸の被災地を見て回りました。最初は壊滅状態となった現状を見ることだけ。1000年に1度といわれる震災でしたから、当然、役所もゼネコンさんも我々も、どうしたらいいかすぐにはわかりませんでした。

-あたり一面が瓦礫で覆われ、被災者の救出作業が続けられる様子は、テレビで終日放映されていました。

土田:沿岸の道路がすべて寸断されて人も物も運べない状態だったので、まずは復興道路をつくることになりました。それから、下水道などのインフラです。もし再びこれだけの規模の津波が来るとしたら、どのぐらいの高さの防波堤が必要なのか、人の住む場所をどこにすべきなのか。建設コンサルタントや役場の方々と議論し、国につけていただく予算や実際にかかる経費を算出しながら計画を立てていきました。

−御社が製品の据え付け工事を請け負う際には、やはり東北が拠点という工場からの距離的な近さも強みになったのでしょうか。

土田:現場でコンクリートを打設して構造物をつくる方法もありますが、工場でコンクリートを型枠に入れて固めるプレキャストの工法で部材をつくれば、作業スピードを大幅に早めることができます。そのためには、距離が近ければ近いほど時間のロスが減ります。弊社は今年で創業90年なので、先輩方が積み上げてきたノウハウがありますし、そのプランに応えてくれる工場の生産力もあります。昼夜問わず稼働してくれた工場によるところは大きいです。

植田:被害を受けて人々が困っているときに大切なのは、やはりスピードです。通常であれば、前田製管が一社で請け負った方が管理もしやすく、スムーズな部分もありますが、東日本大震災のときは弊社の複数の工場が役割分担をしたうえで、さらにこれまで関わったことのないメーカーさんとも協力しながら復興事業に携わりました。弊社だけで進めるとしたら1年かかるような規模の工事を、実際に3ヶ月程度で形にすることもできました。

−宇都宮工場ではどのような役割を担われたのですか?

植田:うちの工場が復興住戸向けのコンクリート部材を生産し始めたのは、2013年です。それまでは木造のプレハブ状の建物が2戸か3戸連結した仮設住宅に、沿岸地域や福島の原発付近の方々が移り住んでいました。時間が経過して瓦礫の撤去もいくらか進んだので、コンクリート製の集合住宅を建てることになりました。4〜5階建ての集合住宅を宮城の気仙沼や岩手の石巻、福島の勿来などの沿岸地域に建てるところから協力させていただきました。

−御社は東北の太平洋側にも工場がありますよね。

土田:海の近くですと、宮城県亘理郡というところに山元工場があるのですが、幸いにも山元工場はじめ被災県の事業所の従業員とその家族で、亡くなった被災者はいませんでした。しかし、みんながこの被災状況を目の当たりにしているわけですから、従業員たちも自分たちがどうにかしなければ、という気持ちになったのだと思います。

植田:復興住宅の建設にあたって、その山元工場と福島の郡山工場、そして私どもの宇都宮工場の3工場が共同で6棟に部材を供給させていただきました。元々、前田製管が仕事を受注して、複数の工場がコラボすることはほとんどありませんでした。しかし、本社の上層部が全体を統括することでうまく進められたので、今では大きなプロジェクトの仕事を他の工場と共同で進める機会もあります。工場ごとの強みを共有して、コラボすることで技術力の水平化も進められています。

−東日本有数の建設関連会社として、御社の強みとなっているのは高い技術力と、そのネットワーク力なのですね。

土田:プレキャスト・コンクリート部材を製造する会社で、弊社ほど幅広い商品を手がけているメーカーはほとんどないと思います。通常ですと、橋に特化したメーカーやヒューム管に特化したメーカーというのはありますが、弊社では今ですとオリンピックの競技場にも携わっていますし、これまでに治水やダム、震災からの復興や災害対策、住宅、橋など、様々なプロジェクトを手がけてきました。

植田:大成建設さんなどスーパーゼネコンと呼ばれる大手の一角からご指名をいただいていますが、それは実績と信頼のおかげだと思っています。我々は技術を持ったモノづくり企業として、スーパーゼネコンさんが考えるプランに対して何をご提案することができるか。そこを突き詰めて考えてきました。今後も常に進化を続けていくことが大切です。

−では最後に、お二人が仕事して得られる喜びや今後の目標についてお聞かせください。

植田:スーパーゼネコンの担当者の方と工場でやりとりをして、現場でも打ち合わせをしながら仕事を続けるためには責任感が必要ですし、易しい仕事ではありません。しかしその先には、目に見える形として建物を残すことができて、住宅であれば、この建物を選んで一生暮らしてくださるお客さんがいらっしゃるわけですし、そういったやりがいというのはとても大きいです。このやりがいや喜びを味わうためには、従業員一人一人が毎日怪我なく仕事を終えて帰宅できるように、工場長として気を引き締めて仕事を続けることは重要だと思っています。

土田:私も上の方の立場になってきたので、今から10年後に100年企業として業界を引っ張っていけるように、若手の育成にもっと力を入れていきたいです。前田製管でこれまでに色々な経験をさせていただいてきましたが、何かを経験するとそれが次の動機につながっていきます。そうした継続から地域づくりに貢献していると感じたときに、仕事の手応えを得られるはずです。現場で若手と仕事をしながら、一緒にそういうことを共有していけたら嬉しいですね。