日本の四季と切り離せない田んぼの治水力。煎餅を作って販売することは環境保全や雇用創出に結びついている。
酒田米菓株式会社 代表取締役社長 佐藤栄司日本の四季と切り離せない田んぼの治水力。煎餅を作って販売することは環境保全や雇用創出に結びついている。
酒田米菓株式会社 代表取締役社長 佐藤栄司庄内地方の言葉で「おらだ」が意味するのは「私たち」。「私たちが作った私たちのせんべい」が「おらだのせんべい」となり、「オランダせんべい」は生まれた。1962(昭和37)年に発売された日本初のうす焼きせんべいとして、現在まで親しまれている。定番を大切にしながら革新を続ける酒田米菓の佐藤栄司代表に話を聞いた。
創業は、祖父の佐藤栄吉氏が旧八幡町で米屋を経営していたことに遡る。米を販売するだけでは経営の限界が見えてしまうと考えた叔父の佐藤栄一氏が、加工の技術も身につけるべきだと考え、かつては分業で製造されていたせんべいに着目した。米を加工する生地屋が生地をつくり、それを仕入れた焼き屋が焼き、最後に包装屋がパッケージにする。生地屋の業務を請け負って生地を東京などのせんべい屋へと卸すことに始まり、やがて生地づくりから販売までを一手に担えるせんべい屋になろうと考え、昭和26年に酒田米菓を創業した。そして試行錯誤の末、11年後に誕生したのが現在の看板商品でもある「オランダせんべい」だ。
「庄内産のうるち米を100%使い、風味が落ちないように製粉し、自社工場で生地を作っています。そして、創業者は薄焼きの塩味にこだわりました。堅焼きの醤油せんべいが主流だった時代に、塩味でパリッとした軽い食感は斬新でした。そうした新しいせんべいが生まれるように職人たちの技術を磨き、今でも完全な機械化ではなく職人技を活かしたせんべいづくりを行っています」
社長の佐藤栄司は、20代前半に親族が経営していた札幌の米屋で働き、1988年に庄内に戻ってきた。バブルの真っただ中で、「普通に継いで普通に経営する」以上の意識は持っていなかった。そんなときに書店でふと手にしたのが、中村天風の本だったという。かつて帝国陸軍で諜報員を務め、のちに実業家、思想家として活動した人物だ。ヨガ行者でもある中村は、その思想や心身統一法の一環としての呼吸法、座禅などを教える「天風会」を創設し、松下幸之助や稲盛和夫をはじめ政財界の多くの著名人が師事したことでも知られている。
「札幌から酒田に戻ってきて、地元の商工会青年部などの団体に入ったのですが、集会などで日本各地に行く機会があり、いろいろな人と出会うチャンスに恵まれました。そうすると、自分の甘い考えにいやでも気づかされますよね。ものを知らなすぎるから考え方が狭く、そうであれば的確な経営判断などもできないだろうと。そんなときに中村天風の本を読んで、積極的な心を持つことの大切さを知りました。いろいろなことを積極的に自分から学び、受け身ではなく自分で人生を切り開いていかなければならない。中村天風の本の影響で、そのような意識を持つようになりました」
2003年の団子屋「さと吉」開業、2008年に団子の製造販売を拡大するACコーポレーション設立などを経て、2014年に酒田米菓の代表取締役社長に就任した。そこから多くの変革を実現してきた。
「この30年で流通は大きく変わりました。昔は酒田に菓子問屋が2〜3軒あって、そこから地元の商店に卸すのが一般的だったので、うちでも何の疑いもなく100%を問屋に卸していたわけです。しかし、個人経営の商店がどんどん店をたたみ、いまは大手商社系列のスーパーマーケットかコンビニエンスストアに置いてもらうために問屋に卸す流れになった。
その流れに頼るばかりでは大量につくらされて買い叩かれてしまうので、仕事は増えてもほとんど利益は残らない。そこで少品種を大量生産するのではなく、多品種を小ロットでつくり、個人のお客さまに直接届く仕組みを考えるようになったのです」
酒田米菓にとって、創業者が産み出した「オランダせんべい」というブランドは大切だ。すでに良品質な薄焼きせんべいの元祖として東北で広く知られており、その知名度を活用してさらなる定着を目指す。代表に就任してすぐに取り組んだのが、「オランダせんべいFACTORY」のオープンだ。
「自分でつくったものは自分で売るのが基本だと考えているので、工場に直売所を設けないといけないですし、観光工場として、製造工程を見ていただけるように工場をガラス張りにする改装工事を行いました。
私が高校時代から創業者は観光工場という発想を持っていたので、それをやるなら今のタイミングだなと判断して踏み切ったのです。問屋経由の流通ではなく、個人のお客さまに直接お届けするという理念を実現できますし、おかげさまで他県からの見学客の方も増えて、酒田に人がやってくるきっかけにもなっているのではないかと思っています」
工場は全長545メートルという長い建物が特徴だ。1階の工場見学を終えると、2階には、せんべいの生地を自分で焼いて焼きたてを味わう「手焼き体験」と、自分の好きなフレーバーで味付けをする「味付け体験」ができる体験コーナー、米粉を使用したパンケーキなどのスイーツを楽しめる「Café de olá カフェ・デ・オラ」、ここでしか買えない限定商品も揃えた売店が設置されており、ゆっくりと過ごすことができる。オープンから3年が経ち、来場者数は年間10万人を超えて年々増えているという。
「観光工場とカフェ形式の飲食スペース、売店を設置しようというアイデアは私が出しましたが、どういう空間にするか、どういうメニューや商品を用意するかという具体的なコンテンツは社員たちが考えて決めました。これまでせんべいづくりに専念していた職人が、接客を通じてお客さまの声を直接聞くことができたり、若手社員が新しいアイデアを提案する機会が生まれたり、観光工場のオープンは社員たちにもいい影響をもたらしていると実感しています」
社内の風通しをよくするためにも、新たな仕組みを導入した。ひとつは、社内SNSを活用することで、営業部門と製造部門での素早い情報共有と意見交換を実現し、社員同士の意識を共有できるようにした。そしてもうひとつが、コーポレイト・カスタマー・スタンダード(CCS)の設定だ。酒田米菓の行動指針として、街づくりや地域づくりにどのように関わっていくか、環境意識を持つか、10の指針を設定して共有することで、個の力が集合して会社の推進力を生み出すようにと考えた社内改革だ。CCSは社内で常に見直され、営業状態や社会状況などの変化に応じてアップデートされていく。
「極端なことをいえば、日本で米づくりを止めたら砂漠化が始まってしまうかもしれません。田んぼには治水力があって、それは日本の四季と切り離すことができないからです。田んぼに水を張らなくなれば地下水も徐々に減り、この日本の豊かな土壌は失われてしまいます。
農家さんに米をつくっていただき、それで私たちがせんべいを製造することには、そうした環境と社会への貢献の意義も含まれていることを社内で共有することが大事だと考えています。ただせんべいをつくって安売りするのは止めようという意識は、社内で根付いてきていると思います」
佐藤の座右の銘は「動かなければ出会えない。出会いがなければ始まらない」。20代で庄内に戻ってきたときから、各種団体に参加することで多くの人と出会い、経営者の立場になってからは、新たな顧客や従業員との出会いから会社を新たな方向に導く喜びを感じるようになった。
地域の観光への貢献も意識して観光工場をオープンし、現在の取り組みとしては、従来の流通の仕組みにとらわれずにより広くブランドを知ってもらうために、輸出のあり方も模索しているという。地域にとって不可欠な酒田米菓。その実現のために、商品を売るのみではなく、地域にとっての価値を生み出すために取り組みを続ける。
住所 | 山形県酒田市両羽町2-24 |
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名称 | 酒田米菓株式会社 代表取締役社長 佐藤栄司 |