清潔で開放感のある養鶏場。ストレスなく健康に育った鶏が栄養満点で美味しい卵を産む。
わんぱく農場 代表取締役 松浦 眞紀子清潔で開放感のある養鶏場。ストレスなく健康に育った鶏が栄養満点で美味しい卵を産む。
わんぱく農場 代表取締役 松浦 眞紀子羽黒町の農場で3000羽の鶏を放し飼いし、季節の野菜や未利用資源を用いた自社製の飼料で育てる。そして、鶏たちが生んだ卵を販売するわんぱく農場では、環境に負荷のかからない循環型農業の実現を最優先に鶏を育てている。経営者の松浦眞紀子に会って話を聞くと、主婦として家事をしながらふと感じた小さな疑問から、壮大なサーガの世界を生きてきた女性だということがわかった。
電気資材会社を営む夫を持ち、専業主婦として何不自由なく暮らしていた。「若い頃は病気がちで入院する機会も多かったんですけど、不思議なことに、仕事を始めてからは全然病気しなくなったんですよ」と、穏やかな口調で農場を立ち上げるまでの経緯を話し始める。
「主婦として毎日家事をしていると、野菜の皮だったり残り物だったり、色々と生ゴミが出ますよね。暇なものですから、もったいないからどうにかできないのかなぁとぼんやりと考えていたんです。そういえば昔は『豚のご馳走』っていって、近所の養豚場のリアカーが町内を回って各家庭の残飯を回収して、餌として豚にあげられていたなぁって。そういうリサイクルを今もできるんじゃないかなって思ったんです」
25年以上前のこと。まだバブルも弾ける前の話だ。大量生産に大量消費が当たり前に行われており、現在のようなエコ意識が一般的にあまり高くなかった。そんな時にモヤモヤと疑問を感じながら、松浦は1枚の新聞広告に目を奪われた。
「大きなバナナの写真が掲載されていて、中の実が人間の栄養で外の皮が地上の栄養、みたいな説明が書いてあったんですね。生ゴミ消滅機の広告です(注:生ゴミ処理機のこと)。バナナを食べたら、ゴミとして出る皮を入れると堆肥になるという機械です。『あら、すごい』と思って買ったわけですよ。使ってみたら、生ゴミを入れておくと本当に24時間でサラサラに分解してくれるんです。昔みたいにこれを餌にできないかなと思って、県の農業改良普及所に相談に行ってみました」
おそらくこのとき、松浦は自分が25年以上にわたって養鶏に携わり、やがて3000羽もの鶏を育てる養鶏場を経営することになるだろうとは夢にも思わなかっただろう。快活に笑いながらフワフワと軽快に話す松浦だが、思い立ったらすぐに動くその行動力とポジティブに前に進む姿勢が、人とのつながりや土地との出会いを引き寄せてきたのだろう。
「普及所の人に聞いたら、『鶏は結構何でも食べますよ』って教えてくれたんですね。だから10羽の鶏を飼い始めました。コンテナっていうんですか? トラックの荷台として冷蔵庫とかになる箱。あれを買って庭に置いて、八百屋さんからりんご箱をもらってきて鶏小屋を作りました。野菜の皮とか魚のアラを生ゴミ消滅機に入れて、発酵させる手前の段階で鶏に餌としてあげたら、よく食べて卵をたくさん産んでくれるんです。『餌と水をやるとちゃんと産むんだぁ』って感激しましたね。それでも数日したら、1羽のニワトリもいなくなって、きっとタヌキの仕業で、自然に近い飼育は多くの天敵から守ってやることが大切だと知りました。それから勉強したいと思ったので、普及所に行って山形大学の教授を紹介してもらいました」
電気資材会社を営む夫に生ゴミ処理機を渡し、堆肥になる手前の段階で生ゴミの分解を止め、栄養分を残せるようにできないかと相談した。実際に改造された処理機で作った餌を鶏たちがよく食べることもわかったので、山形大学に赴き、鶏に与える餌によって卵や肉の質がどのように変わるか研究してほしいと考えたのだ。「研究して何をしようとかの目的はまったくなかったんです。本当に何も考えていなかったのによくやりましたよねぇ」と、当時を振り返りながら松浦は笑う。
「もう廃業して10年間使われていない養豚場が鶴岡にあるので、そこを借りて保育園のように、各部屋にサクラ組、つばき組、もみじ組とかにして養鶏場に作り変えました。山形大学の学生と一緒に、そこで研究データを取り始めたんです。地元の豆腐屋さんのオカラや酒蔵の酒粕だったり、魚屋さんから出る魚のアラや、給食センターから出る残渣だったり、未利用資源となっているものをリサイクルできないかという考えがあったので、そういったものを分けてもらって試しました。
酒粕だけを餌としてあげると卵が酒粕の味になり、魚のアラを与えると鰹節の味がする。単品ごとに色々と研究した末に、ちゃんと美味しい卵を産んでくれる配合の割合がわかってきました。ぽこぽこと卵を産むので、最初は全部みんなで食べてたんですよ。でも養鶏場の地代を払っているんだし、卵を売り歩くことに決めたんです。『鶏がいっぱい卵を産むわぁ!』って感激ばかりしていてもダメですからね。現実、主人の給料からちょっと失礼してたから。ウフフ」
卵を自宅に持ち帰り、綺麗に洗って拭き、ネットに詰めて1軒ずつ売り歩いた(※現在は紙パックで販売)。10個で500円と一般的な卵の値段としては高いが、餌づくりを丁寧に行い、ストレスフリーな環境で育てた鶏の産んだ卵だ。評判になった。そして、徐々にお金ができるようになると、今度は、卵を産まなくなった鶏をどうするかという問題が出てくる。通常は回収にやってくる廃鶏業者に渡すのだが、昔は卵を産まなくなった鶏をお雑煮などにして食べていたと知り、自分たちでも味見をしてみることにした。山形大学で解体してもらって食べてみたところ、「放し飼いをして丁寧に育てた鶏だから、特別に美味しかった」。
「ひらめいちゃったんです。この鶏を無駄にしないで、食べられるお店を作ろうと。日中は養鶏場で忙しいけど、夜は時間があるよなぁとなって、ただ問題は主人。主人をなんとかしなくちゃなぁと思って、相談してみたんですね。やってみればいいよと言ってくれて、しかも主人のおかげで銀行からお金も借りられたので、じゃあ頑張ってみようと。今の農場長ともうひとりと私の3人で出稼ぎを始めました。卵を産み終えた鶏の肉は美味しいけど、肉質としては硬いので『親鶏の団子鍋』としてお店の売り物にして。今は『だし巻卵』とか焼き鳥各種とかいろいろ出していますが、発端はその親鶏の団子鍋です」
市内の中心地、昭和通り沿いにオープンした鶏料理屋の名は「松乃家」。日中は草地で遊び回り、オカラや焼麩などの未利用資源、季節によっては所有農地で育てた有機野菜と合わせて作った餌を食べ、ストレスなく育った鶏だ。松浦はその鶏たちに感謝の念も込めて「マダム鶏子」と名付けてメニューに記している。
「おばあちゃん鶏ですけど、品がよくてお味がいいから、マダムとつけたんです。少しずつ固定客も増えてきて、もう18年ぐらいになるのかな。何の計画もなく始めて、ただただ必死に働きました。よく続いてますよね」
卵の販売も続けながら、やがて松乃家も軌道に乗ってくると、小さな養豚場を改築した養鶏場では生産が追いつかなくなってくる。しかし、新たな場所を探そうと思ってもそう簡単に話は進まない。鶴岡の旧養豚場は宅地であったから借りられたが、条例によって、農地指定された土地は農家しか購入することができないからだ。鶴岡では前例がないということで農地探しを行えず、縁があって合併前の羽黒町の町長に掛け合うことになった。土地を紹介された松浦は、近くに池があって四方の見晴らしもいいために気に入ったが、養鶏場をつくることに対して住民の反対が起こった。
「役場の方々に、鶴岡の養鶏場を見にきてもらったんです。いい餌を与えて健康に育てているので、うちの養鶏場は全然糞の匂いなどもしないですし、それに、まわりの農家さんに堆肥を提供してもいたので、近所の人たちに質問して回っても悪い答えが返ってこないんです。それで役場も住民を説得してくれて。町長さんから『羽黒町の農家に刺激を与えてください』と言ってくださったんです。羽黒町で新規就農者として認定農家に登録されて、やっとここを買うことができました」
まずは事務所と鶏舎を1棟建設し、1500羽の鶏を飼い始めた。やがて、松乃家で使用する鶏肉も自分たちで捌こうと一念発起して解体を学ぶと、1年ほどかけて解体処理の免許も取得できたので解体処理場を併設。鶏舎ももう1棟増築し、300坪の土地で3000羽の鶏をのびのびと育てている。
と、まだ話は終わりではない。高い環境意識に裏付けられ、できるだけ自然に近い条件のもとで鶏を育てている「わんぱく農場」のことを知った養護学校から、7年ほど前に連絡があり、障害を持った生徒たちに職業訓練をしてもらえないかと相談を受けた。ふたつ返事で承諾した松浦は、職業訓練の場として養護学校の生徒たちを受け入れてきた。
「私も歳ですしねぇ。今の土地の活用と、後継のことを考えるようになったんです。そこで、せっかく養護学校の生徒さんたちも笑顔で職業訓練を楽しんでくれていたので、じゃあここで働いて自分でお金を稼いでもらおうということで、『こっこ』という障害者就労施設を農場内に作ったんです。外で鶏の世話をして、あとポニーもヤギもいて動物に触れられるので、ここで癒されながら仕事してもらえたらいいなって。それでみんなが幸せになれたら嬉しいですよね」
世間ずれせずにお嬢さんとして育てられてきたのだろうということと、旦那さんは包容力のある方なんだろうと、話を聞きながら想像することができた。実際に後日、旦那さんに少しだけお目にかかる機会があったが、とても鷹揚な方という印象を受けた。
「振り返ってみると、よくいろいろと怖がらずにできたなって思いますね。非常に短絡的に、何か思いついたら『なんとかなるさ』だけ。行政の人にも山形大学の先生や学生にも、お客さんにも、また従業員にも本当に助けられてきましたね。お金だけじゃなくて見えない力をいただいているのかな。頑張れっていう気持ちをいただいて、そうすると次につながっていきます。出会った人々には本当に感謝していますね」
事務所でインタビューを終えて農場を案内してもらった。「今度ここにハウスを作って、クレソンを育てるんですよ」と満面の笑みを浮かべ、倉庫の裏手の敷地を指差す。
「クレソンは川のせせらぎとか水の綺麗なところに自生するんですね。うちの農場には月山の伏流水を汲める井戸があって、庄内ではクレソンを作っている人がいないんで、じゃあやっちゃおうってなったんです。近々ハウスの見積もりに来てもらって、夏には工事する予定なんですよ。アル・ケッチァーノの奥田シェフに話したら、買うよって言ってくれましたし、SUIDEN TERRASSEでも購入してもらえると約束したんで、頑張らなくっちゃ」
どうやら仕事のやめどきはまだまだ先のようだ。
住所 | 山形県鶴岡市羽黒町荒川字漆畑33 |
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名称 | わんぱく農場 代表取締役 松浦 眞紀子 |