横浜市で生まれ育ち、大学卒業後に東京都内のIT企業に新卒入社した鈴木。そこで5年間勤続した後、今年4月に中途でGRNグループの主要事業を担う若鶴酒造に入社した。
配属されたのは、ウイスキーなど酒類のマーケティングや販促企画を担う戦略企画課(現企画マーケティング課)。そこで、ウイスキーを樽単位で購入した人に特典を与える新たな樽オーナー制度や、コミュニティー会員を増やすためのイベントなどを具体的に形にしていった。前職で海外製品の営業を担当していた経験を生かし、英語を用いて海外からウイスキーの輸入原酒を調達する業務などにも携わった。
短期間ながらも、業務に取り組む姿勢や実績が評価され、6月には課長代理に昇進。8月末の課長の退職のタイミングで、9月に正式に課長に就任し、入社5カ月での異例の爆速出世を果たした。
もっとも、入社の面接時から鈴木のウイスキーへの仕事について、訴えかける熱量は半端ない大きさだった。前職の経験を生かし、スコッチウイスキーの輸入事業を通して、自身が関わることのメリットとあるべきスキームについてパワーポイントを用い、面接を担当した幹部社員に懸命に伝えたという。

「今はウイスキーと心中するつもりの覚悟で働いています。そうした真剣な姿を見ていただいて評価されているのかなと…」。控えめに語る鈴木は、現在、約10人の部下を率いる管理職の業務にも追われる。
「若鶴酒造の皆さんは自分たちが造るお酒を本当に大切にされている。東京から来た私はよそ者扱いされるのではという懸念もありましたが、そういう懸念もすぐに消えて、すごくなじませてもらっています」。若鶴酒造で働く充実感をみなぎらせる。
- 35歳までに北陸に移住したい、影響を受けた心象風景とアニメ
転職は当たり前といわれる今の時代。鈴木もその例に漏れず、「20代後半を迎え、自分のあるべき姿を考え出すようになった」。新卒で入社した東京都内のIT企業では勤務5年目を迎えたが、直近に担当した自社開発のソフトウエアやサーバーなどのシステム販売営業の現場は、月の残業時間が100時間を超える過酷な労働環境だった。「このままでは身体的にも疲弊してしまう」。転職を決めた瞬間だった。
ただ、転職に当たり、一定の方向性はすでに見いだしていた。
「35歳までに北陸に移住するという人生設計はあった」。そう思い描かせるようになったひとつの心象風景がある。幼少の頃に度々訪れた叔父が住む長野。そこに広がる八ヶ岳の雪景色だ。郷愁に駆られるようなその光景に強く心を動かされ、「いつか雪の降るところに住みたいと思った」
そして、北陸移住への決意を後押ししたのが、鈴木が高校生時代に出合ったアニメ作品「花咲くいろは」だ。富山県南砺市にあるアニメ制作会社ピーエーワークスが手掛けたこのアニメの舞台は、金沢市湯涌町にある温泉街。東京育ちの女子高校生の主人公が、あるきっかけで見知らぬ温泉街の旅館の中居として働き、停滞した毎日の生活から脱却し、日々成長しながら、自身のあるべき姿を見つけていくその姿に、共感と憧れの気持ちを抱いた。
このアニメに大きな影響を受けた鈴木は、ロケ地である金沢に足を運ぶようになった。そのうちに、「このアニメ作品関係なしに、北陸はいい場所だと思うようになった」。気が付けば、興味は金沢に隣接する富山にも向かっていた。
希望する移住先を「北陸地方のどこか」とおぼろげに決めた一方、転職先は「ウイスキーに関する仕事」と明確に決めていた。
新型コロナウイルス禍で外出が制限され、自宅でウイスキーを愛飲するようになり、鈴木は気付かされることがあった。鈴木が生きていくうえで、大切にしているものがある。それが「探求」と「成長」だ。
実は鈴木、世界的な人気を誇るポケットモンスターの対戦ゲームの全国大会において、過去に準優勝した経歴を持つ。「学生時代に対戦ゲームを本当に真剣にやっていました。過去のゲームでの経験を振り返り、自分の志向性を分析したとき、探求と成長が自分の“根源の渦”であると感じた」。“根源の渦”とは、鈴木が好きなTYPE-MOON作品に登場する概念で、「魂のすべての由来と死んだ後に帰る場所」という意味合いで用いられるという。
ある事象を突き詰めて、それによって成長を感じる。対戦ゲームで戦績を積み上げていく過程は、まさに鈴木の志向性を具現化したものだった。
同じことをウイスキーの製造過程にも感じ取った。
「さまざまなウイスキーを飲んでいるうちに、蒸留所や年代によって、味の違いが(探求と成長の根源があると)あると感じた。まさに、探求と成長がそこにあった」。
大麦を原料として単式蒸留器によって蒸留したスコットランドのモルトウイスキー、同じ蒸留所で熟成された複数の樽の原酒をブレンドしたシングルモルトウイスキー…。原料や製造国でも大きな違いを感じ取れる多種多様な世界に、鈴木の志向性はおのずと向かっていった。

若鶴酒造で働いて約5カ月。鈴木は「前職ではなかった〝セレンディピティ〟が、今の職場では大量に落ちていて、本当に楽しいですね」と笑顔で話す。
セレンディピティとは、「思いもよらなかった偶然がもたらす幸運」を意味する言葉で、探求と成長のほかに、鈴木が生きる上で常に意識している言葉のひとつ。
「100%手に入るとわかっているものを手に入れても、あんまり面白くない。横道をそれて歩いていたら、いい感じの町中華をみつけて、『え、美味しいじゃん?』。そういう毎日を送りたい」。予定調和の人生は、鈴木が最も忌避するところだ。
地方在住者にとって重要な生活の足となる自家用車を鈴木は保有していない。移動手段は、もっぱら公共交通機関と自分の足だ。「運転免許は持っているが、お酒を飲むと運転できなくなるから」。その理由は明快だった。
雄大な自然を有す富山への移住者は、休日には観光名所を巡ったり、アウトドアに興じるなどアクティブに過ごす人も珍しくない。だが、鈴木は友人宅や街中にお酒を飲みに行って過ごすなど、休日もお酒を絡めた生活を送る。今後、冬場に積雪した環境での生活に一抹の不安を感じてはいるものの、近く車を購入する予定はないとのことだ。
むしろ、都会の喧騒から抜け出したかった鈴木にとっては、幼少期に心を動かされた雪景色は待ち遠しい。「現在は、住んでいる場所から雄大な立山連峰が見えるだけで満足しています。すごく勇気をくれますよね。あれだけ壮大なものが身近にある。目の当たりする度に背筋が伸びる感覚です」。仕事の繁忙期が終わり、生活が落ち着いたら県内の自然を目いっぱい味わいたいと話す。
ただ、一点だけ富山で生活していて、「足りない」と感じることがあるという。「絵画や美術が好きで、横浜に住んでいた頃は展覧会を見によく行っていたのですが、富山にそういった会を催している場所が少ない。ウイスキー以外のことをインプットする機会が減っていることに危機感を感じている」。首都圏への出張の際は、仕事終わりに美術館などを巡るのが、鈴木の密かな楽しみのひとつだ。
美術館などミュージアム施設の少なさだけでなく、本格的なウイスキーをたしなむ環境が少ないことも、富山に対して抱く不満点だという。

「富山にはモルトウイスキーの品ぞろえが充実したバーが東京に比べあまり多くない。」と悩みを打ち明ける。
「なんとか、色々なモルトウイスキーを日常的に飲み、飲み手としても成長を続けていけないか」。上司と話している中で、GRNグループが金沢で経営しているシングルモルト専門のバー「ハリーズ金沢」の存在を知った。
「ぜひ、そこで働かせてください」。上司に頼み込み、5月末から毎週土曜、午後6時~11時までバーテンダーとして働かせてもらえることになった。週末は、現在住んでいる新高岡から新幹線で金沢まで通い、バーテンダーとして副業勤務し、終電で帰宅する。
「バーで働くことが息抜きになっています。ウイスキーの製造に関わる者として、バーは飲み手となるお客さまと直接接することができる貴重な場でもあります。こういう機会を週1回持てていることは仕事上のバランスもよい気がします」
休日でも仕事をいとわない鈴木。「(自分の健康や趣味よりも仕事を優先してしまう)ワーカホリックみたいなところはある」と自嘲する。あくなき探求心を突き動かすのは、「ぼんやりと日々を過ごすのが辛い」という行動原理にあるようだ。
あくなきウイスキーへの情熱はどこにたどり着くのか。生き急ぐように探求と成長を求める異端の若者の旅路は続く。