羽田 純さん 株式会社ROLE 代表取締役
「いわゆる“デザイン”が下手なデザイン事務所をやっています」羽田 純さん 株式会社ROLE 代表取締役
「いわゆる“デザイン”が下手なデザイン事務所をやっています」
Q富山に移住したきっかけを教えてください
秋田公立美術工芸短大に2年間通った後、高岡短大産業造形専攻科に編入したのがきっかけです。そこから高岡で暮らし始めました。
Q子供のころはどんなお子さんだったのですか?
大阪の枚方市という大阪市近郊のベッドタウンで生まれ育ちました。「デザイン一家」とか「クリエイター一家」っていうことは全くなかったですが、絵だけは得意でしたね。誰に習ったわけでもなく、低学年のころから遠近法や二点透視を勝手に理解して、写実的な絵を普通に描く子でした。
でも、図工の授業などでは優秀作に全然選んでもらえなくて子供ながらに傷付いていたのをよく覚えています。例えばクラスで街の写生に行った時、一生懸命実物に近い色や構図を作って描いていても、先生から「子供らしさがない」とか「もっと自由に描いていいよ」とか言われて……。
とにかく僕は、その「子供らしさ」っていう言葉が大嫌いでした。本当はグレーなのに無邪気にチョイスした絵の具でピンクの壁を書くことが子供らしさなのか?って、疑問に感じていました。
Qその後、美術の世界へ
美大へ行くと決めた時、絵画や工芸、デザインなど選択肢が様々ありましたが、木工を選びました。正直、身近な素材だからと言う理由くらいで選んだものの、技法自体は何でもよかったし木材が特段好きだったというわけではないのですが、とにかく制作や表現する“環境”が欲しかったのだと思います。
Q学生時代はいかがでしたか?
木工以外にも絵を書いたり、パフォーマンスをしたり、思いつくことをドンドンやっていました。学生会長の時、地域の人を巻き込んだアートイベントを企画したのがきっかけとなり、20歳くらいの時に全国の美大生がライブペイントで戦う「美大の甲子園」みたいなのを立ち上げました。しかも来場者の人たちが審査員となり、投票で勝者を決めるっていう、当時はあまり無かったインタラクティブなアートイベントでした。
とにかく、素材とか技法とかを問わず、いろんな活動していました。大学の卒業制作も、木工コースにも関わらず、ライブペイントを作品にしました。
Qどういう卒業制作だったのですか?
普通の女子高生を一人、会場に連れてきてソファーに座ってもらい、その子の目の前で僕が大きなパネルに30分くらいで絵を描くパフォーマンスでした。必死に描く僕の絵や身体表現を、その子がつまらなそうに見たり、携帯を触っている関係性そのものを、その周囲の観客が見ているっていう作品でした。
集中力が切れたり、別のことでゴソゴソしたりという、女子高生の一挙手一投足にみんなが「ちゃんとみてない」とか「あ、今は集中し始めた」とか、さまざまな感情を抱きながら目撃している人たち自身も実は作品になっていて、それらを可視化することでアートと人の距離感みたいなのを、みんなに気づいてもらうっていうテーマで作りました。
でも、卒業制作の講評会では、もちろん酷評を受けました笑。とにかく問題外。そもそも木工ではない(それはまあ、たしかに)と。百歩譲ってライブペイントで使用したパネルは、ベニアで枠作ったから、それを木工と言うかもしれないけれども、やはりこれは違うぞと。確かに、同級生はみんな1年や半年がかりで漆を塗るとか、鋳物の型を作るなど、素材に向き合い・技術に向き合い制作していました。だから、30分で終わる卒業制作なんていうのは、卒業制作に値しないといったことを、ほぼ全教員から言われて、大バッシングを受けました。
Q幼少期の頃を彷彿とさせるエピソードですね
それで、卒業が危ぶまれたのですけども、その中である先生が「1つだけ擁護をするというか、羽田くんがこの学生生活の中で、何をしようとしてきたのかっていうことに対して、もうちょっと議論をしたい」と言ってくださったんです。その先生がおっしゃっていたのは、「確かに彼の作品はこれまで、技法や表現っていう部分では一貫性がなく、一見、何をしているかわからないようでも1つのテーマ性に絞って、彼はずっと取り組みをしている。それ(テーマ)は“社会性”です。」と。
例えば、大学では石ころを限りなく美しく磨いたり、削ったり、くっつけたりして、どれだけ自分だけの新しい表現を探求できるか、ということを教え続けているが、羽田くんは、石の精度には興味がなくて、その石をぼんって湖に投げて、それがどういう波紋を生むのかっていう、反応や影響に対してずっと興味を示している・・・云々という分析でした。
要は、技術や表現を高めることを信じ続けて卒業して行った学生が作家として外に出たとき、なぜ作品が売れないのかを理解できないし、売れないことで社会との接点を失い挫折していくということは多分にあるが、僕はむしろ最初からそこ(石を投げた時の人の反応や関心)だけにしか興味がなく、そこに対してのみずっと研究し続けているこの姿勢だけは評価するべきじゃないか、みたいなこと言ってくれて、めちゃくちゃ感動して救われた気がしたんですよね。
Q卒業後の進路は?
実は、『芸文ギャラリー』か、某有名劇団の大道具の会社か、最後まで進路を迷っていました。その劇団は全国をツアーして回るのですが、富山公演の際に、短期のアルバイトの募集がかかるんですけど、僕、大道具系の仕事とか超好きで、学生の時にアルバイトしていました。朝から舞台を立ち上げて設営して、本番中はステージの上から観て、終わったら一斉にみんなで片付けるんです。そのツアーって、1つの家族の集合体みたいなので動いているけど、ツアーが終わったらまたみんなバラバラになっていくんですよ。その一定期間の仮初めの家族感みたいなのが、すごくロマンチックだなと思っていました。
でも、結局、「芸文ギャラリー」を選んで、8年間働いていました。ギャラリーって制作者と真逆の立場じゃないですか。僕は今まで発信側、作る側として活動してきたけれども、ギャラリーってその発信している人の作品を扱って受け入れる側なわけです。自分の中でそのことに対してすごくストレスがあるかもしれないっていう風に思っていました。自分が発信できないので。でも、いざやってみた時に、自分が自分の作品で発信するっていうのもひとつの手段でしかなかったっていうことに気がつきました。
今度はこういう展覧会をやりたいなっていうことを思ったら、その人たちに会いに行って、その人たちの何が面白いかみたいなことを編集して、どういう順番で見せればいいかっていうのを展覧会にするわけです。これって別に僕が作ったものではないけれども、それを伝えるために企画するというのもひとつの発信であるって思った時に、世の中と対話するために、もはや、自分が作る必要すらないということを感じました。
Q特に印象に残っている企画展はありますか?
地元の芸術文化学部が町と一緒に作っていたギャラリーなので、当時の学生たちの卒業制作展の優秀賞を発表していたのですけど、たちまち飽きてしまって……。学生たちの面白さとか、キャラクターを他の方法でも紹介できないかと考えました。そこで選んだのが「マグカップ」でした。ひとり暮らしをしている学生たちが多かったんですけど、お金がないなかでも、毎日使うマグカップは多少高くても自分で選び抜いたものを使っている子たちが多かったんです。そういう部分に、人それぞれの個性や背景が宿っている気がして、学生や教員にお願いして、そのマグカップとの出会いなどを添えて、家で使っている1番大事なマグカップを展示しました。要は作品以外のモノを通して、その人たちの内面を可視化する試みでした。
他にも、夏になると、子供たちのワークショップを行ったり、地元のプロダクトメーカーの展示をしたりもしました。
そのうち、地元に根付いてきた食文化やものづくりなどを伝え直すっていうような企画に興味が移っていき、そういう展覧会を作るようにもなりました。「かまぼこ大学」もそのひとつで、展示だけではなく、周辺の飲食店を巻き込んで実際にかまぼこを食べることができるなど体験できる展示を行いました。
そんな中で、企画自体は面白いけど、たくさんの人を集客しないといけないから、仕方なくチラシを作らないといけなくて。でもチラシを作れる人がギャラリーにいないので自分で勉強するっていう感じでした。だから、デザインを勉強するのが割と副産物的についてきた技術なのですよね、僕にとっては。
Qそんな羽田さんが「ROLE」を創られた
そういったギャラリーでのさまざまな展覧会を続けていくうちに、展覧会っていう縛りが“手段化”してしまっていると考えるようになりました。もっと、その領域を超えるために『ROLE』を作ったという感じです。だから、「デザインが下手なデザイン会社」って思っています。これまで富山県のさまざまなデザイン賞で大賞をはじめ多数受賞していますが、その授賞理由がデザインではないところで取っているのが大半です。僕は、デザインのアカデミックな教育を受けてないっていうこともあって、デザインの精度や技術ではなく、その取り組み自体を評価されています。以前は、評価されなかったことも今は個性になっていて、世の中がそういうものを求め始めている、みたいなところにうまいこと乗ったのかなと思います。
ギャラリーという場で、自分が今伝えたいとか面白いなと思ったものを、展覧会を通して伝えていました。今はデザイン会社を作ったといっても、目に見えるチラシとかデザインとかで評価されがちだけれど、その内側にある、「何を出したいか」や、「どう変わりたいか」に興味があって、そこを作っている感じです。
Q印象に残っているお仕事を教えてください
和菓子店と一緒に日本で初めて「レンジで温めて食べるどら焼き」を作りました。多分、多くの家庭で普段からやっていたであろうことを商品化したのですけれど、端的に「和菓子ってそうじゃないから」をぶち壊したわけです。和菓子の業界って、誰が言ったわけでもないのに“こうあるべき”みたいなものがあって、でも実際に現場で食べられている姿っていうのはそうじゃなかったっていうことを軸に、もっと和菓子の在り方を前に進めてもいいんじゃないのかというコンセプトで作りました。
バターとあんこを合わせたり、カレー味を作ったりしたんですが、カレー味のプロモーションをする中で、ちょっと変わったプロモーションしようということで、「日本全国カレーパングランプリ」に出品したところ、金賞を取ったんです。それで、「和菓子店なのに、カレーパンのコンテストで金賞をいただいてしまいました」みたいな広告を作りました。
150年もの歴史がある和菓子店ですが、和菓子の賞って1個も取っていなくて、多分、これまでも出してもなかったのですが、初めて受賞した唯一の賞がカレーパングランプリだったら面白いよねっていう発想から生まれたプロモーション企画でした。でも、ここで大事なのって、これが面白いかどうかもすごく重要なのですけれど、和菓子を発展させることができていなかったということに対して、現場の職人たちが気づくことが重要だったんです。
昔に作られた和菓子のイメージを守り続けてそこに美徳を感じているけれども、世の中の味覚もスタイルも変わっている中で、なぜ進めようとしないんですかっていうのを、考えてもらう意図もありました。一部の人は、もはやこれはパンみたいなことを言うんですけど、 例えば、唐揚げって夕方4時とか3時に食べたらご飯じゃなくておやつ(間食)になりますよね。ドーナツもおやつとして買うけど、余った分は次の日の朝ごはんに出てくるとか。
そうやって、枠から考えるのではなくて、あらゆる食べ物でさえ、食べる時間とかライフスタイルの中で、その呼ばれ方が変わるわけです。おやつになる時間もあれば、ご飯になる時間もあって、おやつとしてしか作られてないものの方が珍しいということを考えた時に、いまや「県民のおやつ」ともいうべきポジションになったこの和菓子店が、おやつそのものの定義を考えるのって意義があると思いました。
大量にお菓子を作っている老舗の和菓子店が、カレーどら焼きを、おやつとして出すことに対して、意義を感じながら、取り組むのって結構大事なことじゃないかなと。単に売れそうだからとかっていうことよりかは、その和菓子のフレームに対して別角度から考えるような取り組みに近いですね。
Q「取り組み」自体を大切にしているということですね
ひとつのテーマを通して、世の中がどう思うかというのを、実験しているような感覚はあります。どんな仕事でも、その反応にすごく興味があるんですよね。だから、うちのデザインは、そんな風に、最終的に世の中に出るのは最後のアウトプットだけれども、その考え方を、一度市場で見てみませんかって、お客さんと共犯になって、打ち出しているところがかなりあるんです。
伝統産業から全国区のお仕事まで幅広いですが、アプローチするべきところって結構、ほぼ一緒だと思います。ものを作るのが目的じゃないんですよね、きっと。結果として出来上がったものが、形としてあるけれども、どちらかと言えば、無形のもの、目に見えないものを作っているようなイメージがあって、ずっとゴールしない感じはありますね。
Q自身の取り組みに対してどのように感じていますか?
悪い意味ではなく、ある友人に、「仕事の取り組み方が、ゲームをクリアしていくような感覚で、やっているのが面白い」って言われたことがあります。ゲームというよりは、プログラミングに近くて、その会社の攻略法というよりかは、バグが起きているところを見つけて、どう修正したら、一気に機能していくのかが楽しいです。どこかでバグが起きていることは理解しているから、僕のところに相談にいらっしゃるけれど、そのバグを、勘違いしている方がすごく多いと感じます。
例えば、ある書店から「サマーブックフェアのチラシを作ってほしい」って依頼があったのですが、僕が気になったのは、デザインがどうこうよりもその「サマーブックフェア」自体でした。ヒアリングを進めていくと、期間中、本が安くなるわけでも、普段とは違う本が仕入れられるわけでもなく、毎年、訴求をしているだけで、実質的なフェアはしてないということがわかりました。需要が落ちる8月に全国の書店でやっているからという理由だけで、根本的なところに対して理解ができないまま、ただ、毎年やっているという、何にも血が通ってないものでした。
その書店はとても大好きでよく通っていたのですが、本が大好きな店員さんたちがたくさんいて、本について熱く語れる人たちがいて、そういう強みを生かした本当のサマーブックフェアみたいなのを作りましょうと提案しました。店頭にある、あらゆる本の中からホラーカテゴリ(幼児向けも含む)をセレクトして、どう怖いか、どんな時に読んだら面白いかなどを、おすすめするフェアを作りました。
そうやって企画が出来上がったときに、初めてチラシがいりますよね。っていう、プロセスになるわけです。だから、なぜ?というところに対してや、バグが起きているところを突き止めて、みんなで一緒に考えていくのが好きですね。当たり前なことや、昔からあることに対しての疑問を感じるところから始めるわけですが、決まりきっていることに対して、違和感を持って行動を起こさないことが多いけど、それが覆る瞬間っていうのが面白いです。そうやって一気に感覚が変わる瞬間が気持ちいいし、それで世の中が少しでも動くのが面白いと感じます。
Q富山での生活はいかがですか?
富山に来てからずっと高岡で暮らしていますが、文化とか地域の人とのコミュニティがしっかりあるのがいいですね。僕が生まれ育ったのは新興住宅が多いベッドタウンで、地域の祭りとかもほとんどなかったので、秋田や富山に来た時には驚きました。だから、本質的には、自分の地元よりもこっちの方がよっぽど町が活性化していると僕は思っているんですよ。ただ住んでいるっていうだけじゃなくて、ちゃんと人々の「暮らし」があって、 そういう風に、血の通った人たちが、息づいているのを感じています。
でも、正直、ずっといたいとも思ってないし、出ていきたいとも思ってないです。東京に仕事がないのに、東京に移住する理由もないですし、大阪に帰る理由もないと思っています。メリットがない。とはいえ、富山にいるメリットも特にないんですけど、ただ、ここにいるのであれば、ここで何ができるかってことを考えるってことはできるなと。
Q地元に根付いたお仕事も数多くされていますよね
地元の職人たちとすごく仲良くさせてもらっていて、産業観光とクラフトのお祭りを作っています。高岡の伝統産業青年会に18年くらいいたんですけど、高岡でずっとやっていくやりがいや自分のスタイルを作らせてくれたのが、伝統産業青年会の仲間たちなんですよ。今年、卒会したんですけど、彼らとの関わりとか取り組みっていうのが、自分の今の個性の大半を占めるところがあると思っています。
Qそういった活動を通して感じたことはありますか?
ものづくりとか伝統産業を考えたときに高岡とか富山っていうくくり方に対して、違和感を持っています。技術や歴史などを鑑みるとそうなんかもしれないけれど、 富山とか高岡とか、もっと小さな単位の町内とか、僕が、腑に落ちるくくり方ではないんですよね。自分が設定してないもののくくりで、単位に対して結構考えることが多いのですが、ひとつの志で集まった人たちっていうのは、産地を変えていく次の手っていう単位になるんじゃないかと思っています。
Q他にもさまざまな取り組みをされていますよね
東京のアパレルメーカーと一緒に、捨てられた服をリメイクして販売しています。最初は、単に僕のデザインでリメイクするってことだったんですが、もっと違うことしようってことで、乳児の肌着のように縫い目が当たらないように、全部裏返しにすることにしました。それに加えて、工場で抗菌加工を施して、捨てられた時よりも機能が増えているっていう高機能なTシャツに仕上げで付加価値を付けました。
ほかにも、印刷の工程で大量に捨てられる無駄な紙(やれ紙)を使った名刺の制作や、稼働率の低い立体駐車場でイベントを開催するなど、無駄になっている資源や形骸化してしまっているものを再編集する活動に取り組んでいます。これからもどんどんそういうバグを修正していくことはやっていきたいですね。
Qこれまでを振り返って思うことは?
自分が投げたことで起こる社会的な波紋や反応に対する実験的なことを、仕事を通してやるっていうところが好きだったんですけど、最近は、ゴールはどこかみたいなことを考えた時に、やっぱり自分は自分の子供だなと。4児の父としても日々、率直にそう思います。
地域活性化などにおいて、若者に向けたサービスや施設が少なかったりするときに、よく「富山って何もない」とか、富山のセンスのなさみたいなところを指摘される方が多いですが、問題はそういうことではないと思っています。0歳~20代が将来、お金を使う有力な層だと認識していればそういった人たちに向けた投資ができるはずなのに、富山の人口動態図を見れば一目瞭然ですが、結局、現状は、人口の大部分を占める層に向けて作らざるを得ないわけです。でも、そういうのを知らない子供たちは、これからもずっと、街の発展や開発に対して「期待したのに、違っていた」っていう、この残念な気持ちを、ひたすら味わい続けるわけですよ。期待を上回ったっていうようなことが、この街から生まれないだろうなというあきらめさえ感じると思います。
そういった子供たちがどんどん育っていった時に、僕らの層が結局、数で押さえつけちゃったら世の中さらにもっと元気なくなっていると思うし、選べる仕事も少なければ、国が貧乏で、地球もさらに温暖化みたいな感じで、いいことなしだと。そう考えた時に、僕たちは、何か新しい感覚とかを作っていく世代ではないと思っていて、どちらかと言えば、今あるものを再編集して、何か感覚を変えていくっていうことを、当たり前にできる世代なんじゃないかと思っています。
こういうデザインの感覚で、世の中に対して違うことや選択肢を生み出していくっていうことに、意義を感じていますし、子供たちの世代にはそうやって僕たちが培ったものを少しでも残したいって思っています。だから、結構、躍起になってやっています。面白い社会を作っていくみたいなことを。
Qでは、今後の展望を教えてください
こういう感覚を、当たり前に考えていける、原動力みたいなのを自分でも見つけたいし、それを伝播させていきたいですね。歴史を見ても産業革命やIT革命っていうのに乗り遅れてきた日本だけれども、地方がとても面白いなと思うのは、世界が向かう最先端は地方にあると思っているからです。
僕は、自分たちの個性をこう出したいというよりかは、もっと今こういう取り組みが必要だということを、世の中に対して、もっと言語化して発信していきたいと思っています。持続可能というよりも、ポジティブな未来に変えていく軸になれたらいいなと思っています。だから、やっぱり自分の子供たちやその世代にどう渡していくかが大切だと。単に我慢するとか、そういうことではなくて、あるものを再編集することでさらに面白くなるといった、解決の仕方みたいなのを、生み出せさえすれば、次の時代の先駆者になれる気がします。
日本は、よく課題先進国と言われている中で、日本の中でも、地方って最先端の課題を持っているので、地方で起こっていることは、数年後ないしはもう少し先に東京で起こるわけですよ。これって一昔前は違ったことで、例えば流行とかって海外のトレンドを東京がキャッチして、さらに遅れて地方に落ちてきましたよね。でも、これまでの順序が今は逆転してきています。地方で起こっていることは数年後に東京で起こるし、それがもうちょっと先の未来で世界に起こるってことを考えた時に、自分たちは、今、最先端の課題とその解決方法を作っているって思ったら、結構面白いです。先駆者になれる可能性を秘めているっていうワクワクはありますよね。