「街に泊まる」をコンセプトに地域が持つ本来の価値を見出す

山川 智嗣さん 株式会社コラレアルチザンジャパン 代表取締役

古民家や伝統工芸の技術を活用した宿泊施設をはじめ、飲食店や商品の開発を行うなど、ものづくり職人と新たな価値を創造する「コラレアルチザンジャパン」。そんなプロフェッショナル集団の代表を務める建築家の山川智嗣さんに幼少期の頃の話から現在に至るまでの道程と想いを伺った。
 

 

学生時代の一人暮らしが「街に泊まる」のアイディアの原点に

 

Q どんな幼少期を過ごされたのですか?

 

元々は、富山市の総曲輪で生まれ育ちました。当時、父親が総曲輪通りを一本入った場所で喫茶店を経営していたんです。今は少し活気を取り戻しつつありますが、昔は今よりももっと、人がたくさん行き交っていてとても賑やかな場所でした。ちょうど僕が小学校に上がる頃に、父親が店を畳んで会社員なったことを機に旧大島町(現在の射水市)に引っ越しました。富山の中心部から、のどかな田園風景が広がる地域へと生活の拠点が移りました。

 

Q 高校卒業後は、東京へ?


建築の勉強がしたくて東京の大学に進学しました。うちの実家は、祖母がよく結婚の仲人をしていたこともあり、お歳暮やお中元が頻繁に届く家でした。僕はあまり覚えてないのですが、どうも、その大量に出た空き箱を使って建築模型みたいなものを作っていたそうです。ハサミとか作って階段を作るなどしていたそうです。その当時は小学生で、もちろん建築っていうキーワードを知らなかったと思うのですけど、多分、立体や建物を作るのが好きだったのでしょうね。

 

あと、今はもう廃刊になってしまいましたが、「私の部屋」っていう雑誌を母が愛読していて、僕も、暇さえあればよく読んでいました。インテリア雑誌なので器などのテーブルウエアや生活道具などがたくさん載っていてそのどれもがとてもカラフルで、なんかすごくいいなって思って読み漁っていました。建築や空間、インテリアなど、思い返せば、当時からそういうものに興味があったっていう感じはありますね。

 

Q それが建築を志すきっかけになったのですね


そうですね。今思い返せばその頃の体験が建築を志すベースとなっていたと思いますけれど、小学生の頃は、アナウンサーになりたいって思ったり、スターウォーズを観てCGクリエイターになりたいって思ったりしていた時期もありました。ただ、ちょうど大学に進学するタイミングで、将来を考えたときに自分がやりたいことって建築なんじゃないかと思ったんです。それで、明治大学の理工学部建築学科に進学を決めたことが建築家を志す第一歩だったと思います。


 

Q 東京での学生生活はいかがでしたか?


元々、キラキラした東京生活っていうのに憧れはあったのですが、いざ、大学に行ってみると、意外と周りに地方の子って少なくて。付属上がりの子が多いし、中でも裕福な同級生は親に買ってもらった車で通学していたりして、「すげぇ格差社会だな」って感じていました。でも、それが返って自分の反骨心に火をつけてくれて「絶対にトップを取ってやる!」って思って勉強に打ち込んでいました。キャンパスも明大前ではなく4年間ずっと小田急線沿いの生田(神奈川県の川崎市)ってところだったので大都会に来たってよりは、普通に利便性が高い郊外の住宅街で暮らしているっていう感覚でした。

 

Q 一人暮らしはいかがでしたか?


郊外の住宅街ではあったのですが、家の外に出ればなんでも揃っていましたね。飲食店もあるし、自炊するってよりは弁当とか買ってきて食べたり、外で食事をしたりしていました。たまに銭湯にも行ったりしていましたけど、食事をするとか、料理をするとか、お風呂に入るとか、そういった家の中の機能が街の中に分散しているなって思ったんです。だから、街の単位でそれを分散させたら実はそれはそれで成り立つのではないかと。家っていうのは、寝るための行為だけでも十分成り立つっていうことを実感しました。

 

Q それが、山川さんが手掛けた「Bed and Craft」に通じているのですね。


そうですね。従来の旅館やホテルって囲い込み型って言って、泊まる、食べる、遊ぶといった全部の機能がひとつの建物内に集約していたわけじゃないですか。でも、「Bed and Craft」では、「泊食分離」という泊まる場所は提供するけれども食べる、遊ぶはどんどん外に行って楽しんできてくださいというスタイルです。
この地域に暮らす職人さんや地域の人々が普段行っているような飲食店や道の駅や地元スーパーに足を運んでもらうっていうコンセプトが固まったのも、東京での僕自身の暮らし方がルーツになっていると思います。自分のアパートやマンションに暮らしているっていうよりは、街に住んでいるっていう感覚が強かったのでこういう感覚は観光とか旅行の感覚にも適用できるんじゃないかと考えたのが着想点でした。
 

 


海外での経験がものづくりへの姿勢をより確固たるものに

 

Q 大学を卒業後は、どのような社会人生活を送っていたのですか?


建設や建築の実務をちゃんと身に付けたいと思い東京の設計事務所に就職をしました。当初から1年働いたら留学しようと思っていたので、1年後に、退職しカナダのビクトリア大学に留学をしました。

 

Q なぜ、海外に行こうと思われたのですか?


大学時代に話は遡るのですが、大学3年から4年の間の半年間、中国に行きました。所属していた研究室の教授が、建築家だったので、彼が中国でコンペがあるからそこに参加してみないかと誘ってくださいました。

 

そのコンペが通り、上海で大規模な開発プロジェクトが始まるというタイミングで中国に渡りました。英語も中国語も全く話せない状況だったのですが、半年間、事務所の立ち上げに参加したという経験がとても鮮明に自分の中に染み付いたことで、いつか海外で仕事がしてみたいという意識を持つようになりました。

 

Q とても刺激的な経験だったのですね。


ちょうどその頃の中国って経済が急成長している時期だったのですけど、近代化が進む一方で、街にはまだ人民服を着ている人がいたり、自転車に乗った大量の人々が街中にいたりと、とにかくカオスな感じがとても刺激的で。とにかく日本とは全然違う感覚があって楽しかったですね。当時の日本は就職氷河期で閉塞感があってなんとなく面白みに欠けていた時代でしたけど、隣国では経済成長が進んでいる真っただ中で街も人も元気で、そのギャップや価値観の違いをダイレクトに感じていました。

 

日本にいては気づけなかった歴史観とか文化的、人類的なバックグラウンドの違いみたいなものを知ることができたのはやっぱり興味深かったです。多分、その頃の僕は、ある一辺倒な、その保守的な考え方をずっとフォローするよりは、一回日本を出て、国際的に見て日本はどいう位置づけになるのかっていうところにものすごく興味がありました。例えば、建築とかデザインっていう面でも日本は海外からどう見られているのかなど、外から日本を見るっていうことをとても意識していました。
 

 

Q、カナダでの留学を終えて中国に渡られた?


それが、紆余曲折在りまして。その後、日本でお世話になった事務所のサポートもあり、卒業後はニューヨークの設計事務所で働くことになっていたのですが、リーマンショックですべてが白紙になってしまいました。とりあえず200通近く作品集と履歴書をまとめたレジュメを作って北米の設計事務所に送ったけど9割近く無視されて…。返事が来たとしてもお断りのメールのみって言いう感じでした。リーマンショックの影響で自国の雇用もままならないのに、ましてや外国人を雇おうという事務所はやはりなかったですね。

 

Q 日本に戻ろうとは考えなかった?


日本に出るときにいろんな人に「頑張ってこいよ!」って送り出してもらって、「日本の気持ちを忘れんなよ」って高級な箸とかいただいたのに、そのまま日本に戻るって行くことはやっぱり考えられなかったです。その時は、悩みましたが、いつかは上海に行きたいっていう想いがあったので、学生時代にお世話になった上海の設計事務所にアプローチしてみたら「いいよ。おいでよ」って言ってもらえて。卒業後、すぐに上海へ行きました。

 

Q 上海に行ってみていかがでしたか?


その時は、内定通知書があったわけでもなく口約束を信用して上海に行ったのですが、「本当に来たんだ」って顔されて(笑)。仕方がないからとりあえずそこの机で仕事しててって感じで。その事務所は国際的な事務所で50~60人くらいのスタッフの半分以上が欧米出身で、ハーバード大学とかM.I.Tとかものすごい大学を卒業して働いている人ばかりでした。そんななかに、紛れ込んじゃったわけです。実力主義で使えないって思われたらすぐにクビになっちゃうようなかなり厳しい環境で、新しく来た同僚もどんどんいなくなっていくので、それはもう必死でした。

 

カナダに留学していたものの英語もまだまだで、仕事と並行して学びつつの生活だったので寝る暇もないくらいでした。「ここで生き残っていくんだ!」っていう強い意識の中でがむしゃらになって取り組んでいたので、一気に昇給や昇進もして最後の方は、人事のことまで担当するようになりました。
トータルで6年半ほど上海にいたのですが、前半の3年はその事務所でチーフデザイナーとしてプロジェクト全体を自分で動かせるくらいにはなっていたので、厳しい環境があったからこそ持ち前の反骨心やハングリー精神を発揮できたようにも感じます。


 

Q その後、独立をされるわけですね。


それまでって、大きな博物館やホテル、商業施設など何万、何十万平米という規模のプロジェクトに日々携わっていたのですが、建築と経済って直結しているからプロジェクトの途中でクライアントが変わるっていうこともしょっちゅうありました。とにかく箱さえ作ればあとはどうにでもなるみたいな考えを持つクライアントが多くて、経済原理としては正しいのだけれど作り手としては疑問を感じていました。

 

商業施設作るにしても、こうやって歩いてほしいなとかここにベンチを置いたらいいな、緑が見えたらいいなとか、どうしたら買い物を楽しんでもらえるだろうかとか考えるわけじゃないですか、でも、クライアントにとってはそういう部分ってほぼ関心がないことが多くて。次第に、しっかりとお客様の目に触れるところを設計してみたいなという想いが強くなっていきました。

 

あと、直接クライアントと話をする機会も多くて個人的にもお仕事をいただけるようになって、迷いはありましたが独立を視野に考えるようになりました。それまで大規模開発の案件を多数いただいていましたが、すべてやめて、それから小さなバーの設計を一つ受注しました。そこから独立が始まったっていう感じです。それが2011年のことで、そこから手触り感のあるデザインを少しずつやり始めていきました。

 

日本っていろんな工程やジャンルが分業されていますが、中国では、0から作っていく作業が当たり前。例えば、大理石を貼りたいと言えば、山奥の採掘現場に連れていかれて、そこで採掘されたばかりの大理石の中から選ぶんです。そういったものづくりの手法がとにかく刺激的でおもしろかったです。どんどん、ひとつ一つのものづくりの尊さとか美しさに深く惹かれていきました。


 

Q 中国でご活躍されていたわけですが日本に戻ろうと思ったきっかけはあったのですか?


日本に戻ろうというよりは新たな拠点を作りたいと思ったのがそもそものきっかけでした。せっかくなら好きな街に暮らしたいなという想いもあって、ものづくりに向き合えるような何かそういうことができる場所はないかと探していた時に、職人がたくさんいる鎌倉と井波が候補にあがりました。

 

 

富山には伸びしろや余白がまだまだたくさんある

 

Q どうして井波を選んだのですか?


大学は東京でしたし、歴史があって都内にも近い鎌倉の方がスムーズに仕事ができたかもしれませんが、なんか自分が求めていた場所とはちょっと違っていました。鎌倉ってある種もう出来上がっている街だと思います。鎌倉っていうブランドが確立されていますが、富山ってまだまだ出来上がってない部分がたくさんあるなと感じました。

 

中国にいた頃のような、これからもっと変わっていけるっていう伸びしろがたくさんあって、いろんなものを作っていける、変えていけるって思いました。元々、ホテルをやろうとか全然思っていなかったのですが、ここにいたら、自分たちがやりたいものづくりを叶えてくれる職人さんたちと協業できるのではないかとは考えていました。

Q そしてついに井波へ移住されたのですね


最初に、築50年の元建具屋をリノベーションしてそこで暮らし始めました。200平米近くあるので、僕たち夫婦と猫一匹の生活には大きすぎて二階はほぼ使っていなかったです。でもそのうち、国内外からいろんな友人たちが泊まりに来るようになって、ふと街を見れば宿がないなってことに気づきました。

 

ここに来る人も、ここが目的というわけではなく、周りの温泉地や観光地に行く途中に立ち寄る場所っていう感じで、ここに来る理由とか観光のスタイルが、街と噛み合ってないなと感じるようになりました。大型バスが来て30分ほど滞在してその間に数十万する彫刻が売れるのかと言えば、売れないですよね。じゃあ、井波にフィットするスタイルって何だろうと考えたときに、「街に泊まる」というアイディアが浮かびました。

 

宿泊する間に彫刻の工房に行ったり、職人さんと交流したりすることでもしかしたら作品を買いたくなる人もいるかもしれないと。宿泊者と職人さんを繋げて、なんなら一日弟子入りできる宿をやったら面白いのではないかと思いました。


Q 実際にやってみて手ごたえはいかがでしたか?


僕にとってはこの街は景観も営みもとても素晴らしいけれども、これまでその魅力を存分に発揮できていなかったところに、こういうホテルというプラットホームを使ったことによって違う見方をしてくれて、琴線に触れるような人たちを呼べる装置ができたわけです。そして、その人たちが発信してくれることで、どんどんその感性に共感してくれる人たちが集まってくるようになったのは大きいかなと思っています。

 

表層的な課題ではなくて何を課題解決したいのかっていうこと考えたときにその手段として「ホテル」という選択肢があっただけで、じゃあホテルを作ったからといってその地域が再生するのかっていうとそうではないとも思っています。地域の問題って実は見えていないケースがたくさんあると思います。ちゃんとその地域が何を求めているのか、どういう姿になりたいのかっていうことをちゃんと本質的に見ていく必要があります。

 

 
Q 山川さんにとって井波や富山はどのように目に映りますか?


宝の山ですね。たくさん宝が眠っているのだけれどもそれに気が付いていないケースが圧倒的に大きいと感じています。全国的に当たり前にあるものだと思っていることが実はここにしかないものだってことがたくさんあると思うのです。女性の帰県率が低いとかいろんな問題があると思うのですが、それらの根幹は真の富山のよさに気づけていないっていうのが一番大きいかなとも感じています。

これまでは、情報の発信が東京を向いていたけれど、今は東京を経由しなくてもダイレクトに世界に発信できます。そう考えると住んでいる場所なんて正直関係なくて、むしろその土地の個性があるところに住んでいた方がよっぽどその人のアイデンティティ形成に大きく寄与するってことの方が大きいと思います。

 

そのエリアの場所性ってとも大事ですし、ある種のブランディングでもあるわけですが、富山っていい意味で「知られていない」っていう点がいいなって思います。県外に出た人たちが帰ってきて初めてわかる価値を伝えられる伸びしろというか、余白はまだたくさんあるってすごくいいと思います。

 

つまり、自分がアクションを起こすことで富山のイメージをどんどん作っていけるわけです。かといって、砂漠のように何にもないところから作っていくのではなく、豊かな自然環境があり、伝統産業や流通システムが確立されていて、あとはアウトプットしていくだけの状況だと感じています。世界中に発信すればちゃんと注目してもらえる価値や可能性を持っている場所だと思います。
 


 

Q最後に、山川さんが今描いているビジョンを教えてください。


例えば、井波彫刻もだいたい250年ほどの歴史なんですよね。そう考えると、今、富山でアクションしたことがこの先、100年、200年と続いてく可能性だってあるわけです。伝統だから守らなくてはいけないということではなく、自然資源や文化資源、人的資源みたいなものをどう生かしていくかによって新たな違う文化に昇華していけると思っています。

いろいろなところからお声がけをいただくのですが、その町や地域ごとに置かれている課題とか見えているものって違うと思うので他の土地での成功事例をそのままコピーしてもうまくいかないという意識を持っています。ただ、自分たちがやってきた人とのネットワークの構築の打ち方や、事業の立ち上げ方などはある種、ノウハウとして提供できると思うので全国の職人さんや伝統工芸といった文脈でいろんな地域にもっと積極的に絡んでいけたらと思っています。「クラフトツーリズム」のようなクラフトをテーマとしたものづくりや人と出会えるサービスの提供という活動を一つのエリアにとどまらず日本全体につなげていける活動ができたらと考えています。

ただ、いわゆる観光地化にするというのではなく、暮らしと観光の間を楽しんでもらいたいと思っています。地元のスーパーや飲食店に行くことでその町のリアルな人々の姿やその町らしさみたいなものを体感してほしいです。極端に観光寄りにするのではなく、あくまでもそこにある暮らしを大切にした「日常のツーリズム」を一般的に提供できるような新しい価値観みたいなものを作っていけたらいいなと思います。