「街に残る文化の香りと暮らす価値を絶やさないために」

明石 博之さん グリーンノートレーベル株式会社 代表取締役、場ヅクル・プロデューサー
 地方のまちづくりを「カルチャー=価値観のシェア」という観点から、まちや地域をプロデュースしている『グリーンノートレーベル株式会社』。魅力あふれる地方の価値を高めたいと、全国各地での地方創生、そして富山での「場づくり」に携わってきた明石博之さんにその想いを伺った。

 

 

「社会をデザインする」という夢の出発点は秘密基地

 

Q お仕事について教えてください。
地方創生や地域活性化などの社会デザインが私の仕事です。まちの賑わいやコミュニティの中核となるような「場づくり」を行い、地方が抱える社会課題の解決や、地方の文化的な価値をもっと上げるような活動をしています。具体的には、空き家や空き店舗などを活用したプロジェクトのディレクションやリノベーションの空間デザインなど、地方が持つポテンシャルを最大限に生かしたまちづくりを行っています。

 

Q 広島県出身の明石さんですが、幼少期はどんなお子さんだったのですか?
みかんと造船の町として知られる広島の因島(現・尾道市)で生まれ育ちました。代々、商売をしていた家系で父や母も毎日忙しくて、小さい頃から、2歳年上の姉や近所に暮らす従兄弟たちとみかん畑や海で遊んだり、絵を描いたりして過ごしていました。小学校2年生のときに、父の仕事の都合で広島市に家族で移住し、自分のテリトリーも山が近くにある場所へと変わりました。これまで、みかん畑や海辺を走り回っていた日常から山や野を駆け巡る日々へと変化しました。

 

Q 幼少期から、絵を描くのがお好きだったのですね。
そうですね。絵を描くのは好きでしたね。何かを作ることも好きだったので、広島市に移ってからは、山の中に秘密基地を作って遊んでいました。山に捨てられていた住宅資材を拾ってきたり、工事現場の大工さんに使わない木材などをもらったりして試行錯誤をしながら作っていました。大小合わせると5年間で20か所ほど作りましたね。友人と一緒に大きな基地を作ることもありましたし、自分だけで作ることもありました。完成したら、お菓子や漫画を持ち込んでそこで過ごす時間がとても好きでしたね。何度も他のグループに壊されたこともあったのですが、その度に、「誰にも見つからない場所に作ろう!」と。そうやってのめり込んでいくうちに基地をつくる場所がどんどん山の奥地になっていきました。

 

Q 探求心が旺盛なお子さんだったのですね。その後、デザインに興味を持つように?
元々、絵を描くのは好きでしたが、高校生の頃に、「デザインをすること」がおもしろいと感じるようになり、プロダクトデザインの仕事がしたいと考えていました。一浪して、プロダクトデザインが学べる多摩美術大学に進学。入学後は、アルバイトもできないほど毎日、課題に追われる日々でした。せっかく自分が行きたいと思った大学に入ったのだから一単位も落としたくないと死に物狂いで勉強に明け暮れていました。

 


Q そんな明石さんが「社会をデザインする」という仕事を選んだのはなぜですか?
ちょうどバブルが崩壊した直後でしたが、就職に関しては選び放題の時代でした。東京の方が選択肢も多かったので広島に戻ることは全く考えていなかったですね。プロダクトデザインができる会社を選ぼうと思っていたのですが、進路相談の際に、一番尊敬する先生から「君はプロダクトデザインには向いていない、これから社会と人の間にデザインが必要とされる時代がやってくる。君は社会デザインに向いているのでは?」と。確かに自分でもプロダクトデザインの道に進むということに違和感はありましたし、先生の言葉が後押しとなり、地方創生や地域活性化などを行うコンサルタント会社に入社しました。

 

Q 入社後は、東京でどのような仕事をしていたのですか?
入社した会社には、社会学や都市工学を専攻していた同僚や先輩が多く、美大出身は自分くらいでした。そんな環境の中で、自然とデザインに関わる分野を担当するようになりました。例えば、シャッター通りの商店街を活性化するためにどうやって注目を集めたらよいか、一つ一つのお店が際立つにはどうしたらよいのかなど、みんなで知恵を出し合いながら、どんどん問題の可視化や課題の具体化をしていきました。ハード面だけでなく、仕組みづくりなどその仕事は多岐に及びます。住まいや会社は東京でしたが、一週間の半分は、限界集落やシャッター通りを抱える町などの地方で過ごす日々でした。そうやって、地方にどっぷりと浸かったことで地方が持つ「おもしろさ」に目覚めていきました。

 

Q そういったご経験が移住のきっかけになったのですね。
地方の町で寝泊まりし、地元の人たちと深く交流していくうちに、東京と自分との接点は消費行動だけだと感じるようになりました。東京だと会社と家との往復ばかりでたまに外で食事や買い物をするだけだと。だんだんと、自分が住む地域でこの仕事ができたら最高なんじゃないかと思うようになりました。自分が暮らす町をよくしていくために、コンサルタントの知識を持つプレイヤーになれたらおもしろいことができるのではないかと考えました。
そんな折に、勤めていた会社の社長が病に倒れ、第二創業という形で会社を引き継ぐことになりました。その際に、既存の事業拠点は東京に残しつつ、妻の実家がある富山に新しく事業拠点をつくり、軸足を移すことを決めました。

 

 


文化の香りが色濃く残る富山の街をデザインしたい

 

Q 富山に来てからはどのような暮らしぶりだったのですか?
当初は、富山駅の近くの賃貸住宅で暮らしていました。正直、富山に来てからも相変わらず他県や東京で仕事をする毎日でした。富山に来る直前は農業をベースにしたまちづくりに関わりたいというビジョンを持っていたのですが、他県での仕事ばかりでなかなか富山での仕事を手掛けることができなくて…。でも、その一方で休日には妻と県内のあちこちに行き永住できる町を探していました。山の中の古民家で暮らすという夢があったのですが、妻の勧めでこの内川に来た時にその考えが吹っ飛びました。「ここだ!」と直感しましたね。それから3年ほどは、富山市から内川に通いながら、町のリサーチや人脈作りなど、事業を展開していくための下準備をおこなっていました。

 

 

Q そういった経緯を経て、内川でカフェを作られたのですね。
「ここで何ができるか」の構想を練りながら、街をぶらぶらしていると空き家や空き店舗が多いのが目に付きました。そこで、空き家をリノベーションして、若い人や地元の人に来てもらえるようなカフェを作ろうと思いました。これだけ美しい景観をもつ内川をもっとPRして、活性化していくには、カフェを入口に内川のことを知ってもらうという動線を作りたいと考えました。今思うと、秘密基地を作っていたあの頃の気持ちや、経験が今の仕事のルーツとなっているようにも思います。

 

Q その後、内川で本格的に暮らしがスタートしたのですね。
カフェの次に、妻の依頼により古い町家をリノベーションしたオフィスをつくりました。妻と共に本格的に内川に根を下ろした時には、富山に来て6年の月日が経っていました。最初は、知人のお手伝いから始めたのですが、内川に移住してお店を開きたいという方のために物件探しから空間デザイン、リノベーション計画など、お店のオープンまでの色々なサポートを担うようになりました。そうしていくうちに、少しずつ内川や富山での仕事が増えていきましたね。そうした「場づくり」を通して、一時は、建築やインテリアなどのハード面の仕事に振り切ったのですが、やはりハード面だけではダメだと痛感。ハード面とソフト面、その二つをセットでやらないといけないと感じるようになりました。場を作ったことで、地域にどういう効果がもたらされるのかを考えながらプロジェクトを組み立てていくことが、自然と自分のスタイルになっていきました。

 

 


市民として価値を生みだす側にいられるのが地方で生きる醍醐味

 

Q 都会と地方で暮らすことの違いは何だと思いますか?
東京などの大都市では特に、否応なしに与えられたシステムの中で生きざるを得ないのが現状です。都会に行けば行くほど、生きている自分の価値はどうしても、消費者としての自分に傾いてしまいます。でも、地域で暮らすって単なる消費者としてではなく、「市民」として存在できるのだと思います。市民として町に関わり、そのコミュニティのなかで助け合いながら生きていく。つまり、自分が町を変えることができる市民であるという自覚を明確に持って暮らしていけるということが都会との大きな違いだと思います。地方で生きることは、一市民として、与えられたものを単に消費するだけでなく生産する側、価値を作る側でいられるという点にとても魅力を感じます。

 

Q では、地方が持つ価値とは何だと思いますか?
「文化」って作るのはとても大変ですが、壊すのは簡単です。例えば、ここにしかない田園風景に新たな価値を生み出し、違った価値として大切にすることは地域を守り発展させていくことに繋がっていると思います。しかし、それらが少しずつなくなっているのもまた事実です。私は、そのことになんとか歯止めをかけたいと思っています。私たちが手掛けている宿には、多くの外国人観光客の方が訪れます。みんな日本の文化に触れることを楽しみにやってくるのです。見たことのない風景、食べたことのない料理。その土地でしか出会えない「文化」が地方にはたくさんあると思いますし、それこそが唯一無二の「価値」のなのだと思います。

 

 

Q では、富山の魅力や良さはどんな点にあると思いますか?
富山に来て思ったのが、あらゆるものが「いちいち素敵」だなと。湾の向こうにそびえたつ立山連峰の雄大な景色、物語のワンシーンのような山間の棚田、昭和40年代の建造物が軒を連ねる街並みなど。富山にはそういった「文化の香り」があちこちに残っています。いわゆる「伝統」として保存されている場所は確かに美しく素晴らしいですが、ガラスケースに入れられて飾られているようにも見えます。でも富山は、自然体で残されている素晴らしい場所がたくさんあります。それってとてもすごいことだと思うのです。グーグルマップの衛星地図で見たときに黒い瓦の街並みがこんなにも現存しているのは、全国的に見ても非常に稀有な場所だと思います。何にも乱されていない、壊されていない街並みが数多く残り、人々の暮らしが町のあちこちににじみ出ているように感じます。そのように文化的に見ても富山はスコアが高いと感じています。

 


見えないものの価値を数値化する「価値の銀行」を作りたい

 

Q 地域をデザインし盛り上げていくために大切にしていることは?
「こうありたい」というビジョンがあっても、短期的な成立を求めないようにしています。社会デザインとは、すぐには結果が出ないものですから。当初は何でこんなことをやるの?と意味が分からなくても、年数が経つにつれて、意味を理解してくれる人が増えたり、協力しくれる人が増えていったりすることで未来はどんどん広がっていきます。お店単体の利益だけを追求するのではなく、町全体の利益や文化的価値に共感してくれる方を増やし、移住や出店を促すことが大切だと思います。

 

 

Q これから取り組んでいきたいことはなんですか?
「価値の銀行」を作りたいと思っています。地域の文化的資源や社会起業家の事業をお金以外の価値で数値化したいと考えています。今まで評価が難しかったモノ・コトを新しい価値基準で評価ができる仕組みを作りたいと思っています。例えば、映像技術とAI技術を組み合わせ、さらに価値算出基準となるロジックをつくることで、世界中の町並みや風景の価値を数値化し、その地域のアイデンティティ(地域の独自性)を知ることができます。また、経験や構想をデジタルトークン化して共有すれば、短期的な経済指標だけではない方法で、素晴らしい夢やビジョンを持つ人に、資金や協力が集まるような仕組みも作れると思います。日本が誇るべき地方文化を守り、新たな価値基準を活かした社会デザインを進めるために「価値の銀行」は実現したいプロジェクトです。