世界魅了する鋳物工場の5代目、外に出て気付いた家業の魅力、仕事と子育て両立する脅威の突破力とは

能作千春さん 能作社長

錫(すず)というやわらかい金属の特性を生かした〝曲げられる器〟という斬新な工芸品を次々製作し、国内外から注目される高岡市の鋳物メーカー「能作」。古臭さを醸す従来の伝統工芸のイメージを払拭し、産業観光やブライダルなどの領域に事業を広げ、今や従業員の約7割は女性だ。その仕掛け人であり、今年3月、5代目社長に就任した能作千春さん。やりがいのあった県外での仕事を辞めてまで、家業を継ぐ決意をさせたものとは。

 

富山を出て偶然知った父親と家業の偉大さ

 

Q 幼少期はどのような環境で育ったのですか?

 

生まれたのは1986年、代々受け継がれてきた家業の鋳物屋「能作」の三姉妹の長女として生まれました。幼少期は休日に家業の工場の中でよく遊んでいて、父親のことが本当に大好きな、かなりの父親っ子でしたね。

 

父親は本当に年中仕事をしているような人でした。もともと福井生まれの父親は婿入りで能作に入社したのですが、前職は新聞社のカメラマンをやっていましたので、右も左もわからない産業に飛び込み、がむしゃらに鋳物と格闘する毎日。鋳物の独特のにおいが漂う工場の空気を感じながら生活していましたね。

 

Q 父親の姿をみて、どのように感じていましたか?

 

父親が仕事に取り組む姿はすごく尊敬していましたし、何より仕事のことを楽しそうに語る父をみて、仕事って楽しいものなんだと思っていました。

一方で、町工場は女性が働ける環境ではないとも感じていました。当時は製作していたものが仏具や茶道具、花瓶が中心で、それほど生活に身近なものではありませんでした。鋳物を作る仕事に対しては、いわゆる3K(「きつい」「汚い」「危険」)であると感じていたこともあったんです。

 

Q 家業を継ごうとは思っていなかった?

 

父から「家業を継げ」、「富山に残れ」といったことは、今まで一切言われてこなかったんです。

それで、高校卒業後は神戸の大学に進学し、その後就職のタイミングで、とりあえず父のようにキラキラと私自身が活躍できるような職業に就きたいなとは思っていました。いわゆる「キャリアウーマン」になりたくて、メディア関係だったり、新聞社だったり、雑誌社を志望していたところ、神戸市内にあるアパレル通販誌の編集者として働くことが決まりました。

そこで、思いがけないことがあったんです。勤務して2年ほどたったある日、すごくセンスに長けた憧れの先輩が、「こんなおしゃれなもの見つけたんだ」と会社に持ってきたものがあったのですけど、それが父親が当時作っていた錫製品だったんです。

 

 

本当に衝撃を受けて。職場では私が能作の娘ということも特に話していなかったので。そもそも、その時は能作の知名度はほぼない状態で、販売店舗も持っていなかったので、まさか神戸で売られているとは思ってもいませんでした。

 

Q すごい偶然ですね

 

小さい頃から父親とはよくコミュニケーションを取っていたので、新しい錫製品を開発したとか、今挑戦していることがあるとか、定期的にそういった情報はやりとりの中で知ってはいました。

それで、実際に自分の足で先輩から聞いた能作の商品が置いてあるという神戸三宮の雑貨屋に行ってみると、おしゃれな店舗空間に3つの能作の錫商品が置いてあったんですよ。今でも忘れられないのですが、商品のそばに「富山県高岡の能作」と名前が入った小さなポップが置かれていて、これはもしかしたら実家の家業がすごいことになっているのではないかと思ったんです。

 

Q ちなみに、どのような商品が置いてあったのですか?

 

今でも販売している「フラワートレー」という錫のお皿なのですが、実はこれ、次女がデザインしたものだったんですよ。次女は美術系の高校、大学を卒業後、現在は東京でデザイナーとして働いています。

妹たちは手先が器用で、三女はパティシエとして働いています。趣味で始めた似顔絵ケーキやアイシングクッキーがすごい人気になって、SNSでそれを紹介したところバズり、今では高岡市内に店舗を構えて独立しています。小さいころから自分では分かってはいたのですが、妹たちのような才能は私にはないですね。

 

忘れられなかった「ものづくり」を楽しむ父の姿、強まる家業への思い

 

Q 神戸市内の雑貨店で能作の商品を見つけて、家業に対する意識が変わった

 

早速、能作に興味を持ってくれていた私の会社の同期とともに、有給休暇を使って実家の工場に行くことにしました。高校生になってからは、いつしか足を運ばなくなった工場が現在、どうなっているか気になって。

久しぶりに足を踏み入れた工場の雰囲気は衝撃的でした。たまたま、その日は工場で働いていた職人たちが10人くらいで集まってバーベキューを楽しんでいたのですけど、私が子どもの頃からいた職人たちが年を重ねるなかで、30代、40代の若い職人もいたのです。昔とまったく同じ空間で働いている職人の年齢層が、すごく若返っていて。そこでまず驚きました。

そして、お肉を焼きながらみんなすごく楽しそうに仕事の話をしているんですよ。「これは、こういう風に仕上げたらもっといいものができる」とか、「今度の注文はこう対応しよう」とか。その輪の中心の中に父親がいて、すごく楽しそうにしていて。ものづくりって本当に楽しいことなんだなって。その光景に触れたときが、私と能作との距離が一気に近づき、結びついた瞬間でもありました。

 

 

Q そこから、富山に戻ることを考え始めたのですか?

 

徐々に能作に対する興味が強くなっていく中で、噂が噂を呼んで、職場の先輩たちが私に能作の商品を注文してくるようになったんです。まだネット通販もなかったので、私は実家から送ってもらった最新の能作のカタログを常に入れていて、社内中に回覧して、どんどん注文を取りました。

仕事で取材やロケの合間に撮影に来られていたモデルさんに、「こんな製品を実家で作っているんです」と紹介したりと、営業活動みたいなことを始めていましたね。今だから明かせますけど、当時の上司や先輩方は私がいずれ家業を継ぐと思っていたようです。

ただ、編集の仕事はすごく楽しくて、編集長になりたいと思うくらい、好きだったんですよ。通販誌なので、物をどうやって売るかということを考えながら企画をして、新しいことを生み出すっていう作業も、同じものづくりとしてはすごく楽しくて。

しかし、一方で能作のことも徐々に自分の一部になってきて、悩む時間が増えました。ものづくりを楽しそうに語る父親の姿、職人の姿が脳裏にこびりついて、離れなかった。父と一緒に働きたいという思いが強くなっていきました。

それで、ちょうど編集の仕事に携わって3年の節目で、富山に戻り、家業に入ろうと決断をしました。父親も3年の節目で前職のカメラマンを辞めて能作に入社していましたし、3年という区切りがいい節目だと思いました。

その後、能作に入社したい旨を父親に伝えると、二つ返事で「いいよ、戻っておいで」とボソッと一言だけ返してくれて。今になってよく言うのですけど、父親は私が帰ってきてくれることをどこかで期待していて、能作に入ると聞いたときには本当にうれしかったそうです。

 

Q 能作に入社してからは、どのような仕事を担当したのですか?

 

父は18年間、職人としてのキャリアを積んでいたので、私も本来そうすべきだったと思いました。それで、半年ほど工場での作業を覚える意味でも、職人に教えていただきながら勉強しました。とはいえ、半年の経験では、職人といえるほど技量は身につかず、ただ技法を覚えるだけに過ぎないなと感じていました。

一方で、そのとき製品の出荷数がものすごく増えていて、受注から生産、発送を担う間接部門が全く回っていなかったんです。父親と5名程度の従業員で、どうにか回しているような状況。毎朝、父と私が一緒に製品を洗って、乾かして、机の上で箱に詰めたり…。作業をやってもやっても追いつかない状態だったので、すぐに私は受発注と発送の体制を整えることに専念しました。

それまでは、棚卸作業もやっていなくて、製品が足りなくなっても口頭で職人に製作依頼を伝えるだけ。それを週に1度は棚卸作業をするようにし、足りない分を生産依頼として書面にして職人に渡すように変えました。

また、それまで机の上で商品を梱包していたところを、専用の梱包室を作り、発送場も設けることで、管理体制や受発注の新しい仕組み作りに奮闘し、自分なりに改革を進めることはできましたね。

ちょうどそのころには、2店舗目の出店の声がかかっている時期でもあったので、出店の準備から展示会やギフトショー、インテリアライフスタイルショーなど、販路を拡大するためのPR活動も父と一緒にがむしゃらにやりましたね。

 

Q 業務はかなり多岐にわたったわけですね

 

小さな小さな町工場である能作を、世の中に知ってもらうために何ができるかを、本当に一生懸命考えながら働いてました。楽しくてしようがなかったです。

ただ、この1年後に結婚と出産という経験をすることになるんです。1年間がむしゃらに仕事をして、結婚もせずにこのまま仕事に生きると思っていたのですが…。その時に出会った今の夫と付き合い、結婚することになりました。

 

Q  結婚や出産を機に生活や仕事への意識はどのように変わりましたか?

 

結婚後、長女を身ごもり出産するまでは育児に専念しようと思い、しっかりと育休を取ったんです。その当時の職場に女性はいなかったので、私が初めて産休・育休をとるスタッフになったんですよ。大きいおなかで鋳物屋で働くことや周囲の理解を得ることの大変さをすごく感じましたね。

でも、人って欲深いと思いますね。育児が楽しい一方で、やっぱり仕事をやりたい思いがわいてくるんですよ。

その頃には夫が父と同じように婿入りで能作に入社をして、職人として歩みだしていました。私が家に帰ると父親からは経営の話を、夫からは職人としてものづくりの話を、それぞれから聞くわけです。私は、なぜ会社に対して何もできないんだろう、何かしたいっていう気持ちで辛くなってきて…。育児の喜びを待ち望んでいたはずなのに、一方ですごく切り離された感覚を抱くという、矛盾しているような気持ちでした。

 

Q 相当な葛藤があったのですね

 

しばらくして2人目を身ごもったときは、産休中も何か会社に貢献したいと思って、前職の編集者の経験を生かして社内報を作ることにしたんです。職人らを取材して、父親や夫に聞いたことを原稿にまとめて、月に1回全従業員に届けることで、どうにか自分と会社との関係をつなぎとめていました。

今も制作は続けていて、毎月月末になると私が記事をA3の紙1枚にまとめて、給与明細とともに入れて全従業員宛に送っています。店舗も国内外にたくさんできたので、遠方のスタッフ同士をつなぎ、私の考えを届けるためのツールとして社内報を使っています。

 

Q 第二子を出産後、本格的に仕事に戻りました

 

2人目を出産後4カ月で職場に復帰してから、現在の工場では生産や受け入れ面でもキャパオーバーということで、父親から社屋移転の相談を持ちかけられました。父親は、高岡の伝統産業を多くの人に知ってもらうため、産業観光(インダストリアルツーリズム)をやることが悲願だったので、その体験を提供できる新社屋にしたいという強い思いがあったようです。

ただ、それを父親自らやるのではなく、娘の私に「お題」として課してきました。第二子を保育園に預けながら、産業観光の仕組みも整えるため、またがむしゃらに働く毎日です。

そのときにようやく自分の居場所が見つかったというか、前職の経験を生かすことができると思いました。それは多分、父親にはできなかったことだと思います。

ここで私にとっては、2回目の大きな転機を迎えることになるのです。

 

Q 重責を担ったわけですが、どのように新社屋の建設を進められたのですか?

 

素材とデザインをテーマに、「見せる」ことにすごくこだわりました。製品製作で付き合いのあるプロのデザイナーたちとの連携と発想を一番の軸となる部分に置き、どのようなおもてなし、サービスを提供するかについて顧客の立場に立って計画を練りました。

観光分野に長けている従業員は社内に誰もいなかったので、産業観光部という部署を新設し、経理職と物流職の従業員を引っ張ってきて、一緒に計画作りから始めました。とにかく、独自性を持って、能作らしさって何かというところを深堀して考えました。

例えば、工場見学は完全無料にし、能作を知ってもらうためのものと決めました。産業観光で儲けようとは思っておらず、能作では営業活動を一切してない分、広報活動だと思ってやろうという気持ちで。

 

 

体験できる工房は、子どもたちに学びという要素を通して、夏休みの宿題を能作で叶えてあげるようにしました。そこには親心も含んでいます。毎年の夏休みの宿題はすごく荷が重いので、全てここで解決できたらいいのではないかと、子どもを持つ母親の意見をたくさん取り入れました。

小学生向けに実施している夏休みの特別プランでは、例えば、工場内をまわるときはスタンプラリーのようにして、職人さんに指導を受ければミッションクリアとなり、缶バッジなどをもらえるというような仕掛けを取り入れました。

 

Q いろいろと工夫を凝らしたのですね

 

対象が子どもか、国内観光客か、海外観光客かによって、案内の仕方はまったく違ってきます。一言に工場見学と言っても、対象によっては伝わり方が異なるので、工場を案内するスタッフ用のマニュアルは一切作っていません。

スタッフからはマニュアルを作ってほしいと何度か言われたことがあるのですけど、マニュアルを読むスタイルの見学様式にはしたくなかったんです。とにかく、スタッフ自身の気持ちを伝えてほしいという姿勢を貫いています。苦労はしていると思うのですが、それぞれが思うままの工場案内をしてもらっています。だから、すごく個性豊かで面白い。

工芸やものづくりに興味を持つのは、ものすごい狭い層だと思っています。なので、まずは興味を持ってファンになってもらうために、色々なところとコラボレーションできっかけを作ることもしています。

例えば、雪が積もった日には、巨大なかまくらを作るイベントを実施しました。それも本格的で、秋田県横手市から「かまくら職人」に来てもらい、高さ3メートル級のかまくらを作ったんです。次の日、大雨ですぐに小さくなってしまいましたが(笑)。

工場の中はクールでかっこいいと感じてもらうために、ファッションショーをやったこともあります。いろいろと工場らしからぬことを計画していて、それを何年もやっていると、職人たちの意識もすごい変わってきましたね。

今、若い従業員が増えているのですが、イベントを企画すると、「やりたい」と志願するスタッフたちがたくさんいるんですよ。今は長期の連休イベントは挙手制でやりたい人を部署問わずに集めています。外注せずに内製でいろんな計画を立てて、どんどんブラッシュアップさせていっているので、彼らのスキルもどんどん上がっている。

2017年4月にオープンした新社屋では、カフェの飲食事業もやっているのですけど、料理の構想を一つ考えるのも、見せ方だったり、売り方だったり、すごくこだわりを持っています。女性スタッフ、育児しているスタッフをはじめ、色々な声を聞きながら、部署をまたいで議論を交わしているような空間になってきたと感じています。

 

Q 女性ならではの視点が所々にちりばめられていますね

 

私が女性であるというところを最大限利用しなければいけないと思ったので、自分自身をターゲットにしたときに、こういうサービスがあったらうれしいということを意識しています。ママ友がいたり、口コミが大好きだったり、SNSをアップしたりと、そういった女性が好む行動を狙い、サービスを提供するようにしています。

特にカフェではそうした部分を意識した結果、今では女性客が8割くらいを占めるようになりました。

こうした施策を通して、女性を受け入れられる職場環境も築けてきたという手応えはあります。子どもがいることは、仕事にとって決してマイナスではありません。それが仕事に生きてくるということを伝えられることは、プラスになっていると思っています。

 

父親の後を継ぐ決意、覚悟ができた大きな1年

 

Q 新社屋が完成し、産業観光など仕事が多岐に渡り、多忙ではありませんでしたか?

 

基本的に仕事が大変だったという記憶は本当にないんですよ。楽しいし、困難であればあるほどやりがいを感じていました。

ただ、辛い時期はありました。2017年に本社を移転して、その後2年間で産業観光が軌道に乗って、忙しくなってきたときです。2019年、結婚10周年の節目をお祝いする錫婚式を、能作の工場で、一日一組限定で錫婚式を祝うという企画を進めていたときに、父が大病を患い、1年近く会社に出てこられない状態になったんです。

ずっと元気でスーパーマンだと思っていた父親が急にいなくなるというのは、初めての経験でした。3日後には、全国から何千人も集まる前でのパネルディスカッションがあり、父親の講演の予定も詰まっていました。その代役を務める傍らで、通常業務や子育ても、当然行わなければなりません。何とか乗り切ることはできましたが、この期間は本当に辛かったです。

ただ、一方で決意ができた1年間でもありました。

 

Q どのような決意に至ったのですか?

 

父親が倒れたことを機に、「もし明日、父親に何かあったら会社をどうするか」という話し合いを夫とよくするようになりました。私たちはお互いの得意、不得意な分野を理解していますし、夫はどちらかというと外向的な性格ではないですが職人たちからの信頼はすごく厚い。ただ保守的で、慎重に物事を考えるタイプ。

私は真逆の性格で、新しいことを進んでやろうとして、周りを引っ張っていくのが好きで、人前に立つのも得意な方。でも慎重さに欠けるところがある。なので、「社長を継ぐのは私だ」とその時に確信しましたし、夫も「千春がやった方が会社は発展する」と言ってくれました。

しかし、子育ては手を抜けない。子どもが風邪を引いたり、学校から連絡がくることもあります。夫も仕事、私も仕事と、立場がはっきりしないからお互いすごく仕事を優先しがちでしたね。

そうして話し合う中で、「育児は俺が優先してやるから千春は仕事を優先してほしい」と言ってくれて、2人の間で決着をつけることができたんです。それで、すごい気持ちが楽になりました。家庭の役割と仕事の役割をそれぞれで整理できたことが大きかったですね。

 

Q それで社長になる決意ができたわけですね

 

そのときから、私はいつでも父親の後を継いでもいいという心構えはできました。でも、その後、すっかり父親は元気になって、富山県に対して自分がもっとできることがあると、奮い立っていましたね(笑)。

父親は65歳になり、社長就任から20年というタイミングを節目に社長職を譲ろうと考えていたようです。そのときまでに、自分が社長を託せると信頼できる人間がいれば、後継に譲ろうと。

そのタイミングが2023年(今年)で、ある日、父親に「社長に就任してほしい」と言われたときに、なんのためらいもなく、「わかった」と応じました。覚悟があったので、気持ちは落ち着いていました。2019年は、それだけ大きな気持ちの変化があったということです。

 

 

Q 千春さんが能作に入社してから、職場環境はどのように変わりましたか

 

今は全従業員の75%が女性で、男性の方が少ないんです。職人の数は40人ほどで、そのうちの6人が女性です。

最近は女性で職人を志望している方が増えていますね。県外からも応募は結構来ています。美術系の大学出身者もいますが、前職で販売業をしていた人などさまざまなバックグラウンドを持っている方々が応募してきます。女性が働きやすいと思う事業領域が増えたことも理由のひとつでしょう。例えば観光、飲食、ブライダルなど、鋳物製作以外の事業も魅力的に映っているのだと思います。

私自身が広告塔になって外で話す機会も増えていますので、中には私と一緒に働きたいという理由で来られる人もいます。すごく、ありがたいですね。

 

Q もともと女性が働きやすい職場づくりを意識していたのですか?

 

女性従業員を増やそうという意識はまったくなくて、多様な人材が働きやすい環境整備と、採用も男女区別せずに採用した結果、たまたま今は女性が多くなっている状況です。

スタッフに聞くと、1時間単位で使える有給休暇制度があるので、子どもを持つ親は学校の授業参観などで小一時間抜けて戻れるように時間を使えるといった自由な風土を気に入ってもらえているようです。

あと、時差出勤という制度を設けまして、午前8時、8時半、9時と出勤時間を選べるようにしています。子どもを保育園に送らなければいけない方とか、子育てを優先できるようにしています。

また、新社屋の横にある保育園は、(企業集積地である)オフィスパークの企業と連携して作った施設で、そこに子どもを預けた場合、会社がその費用の4割を負担する制度があり、利用しているスタッフもいます。何よりも、私自身が経営者として女性であり、かつ子育て中であることが、スタッフにとっても心強いようで、相談を受ける機会も多いです。

 

目指すは「世界の能作」、子どもに継ぎたいと思ってもらえる会社に

 

Q 社長として達成したい目標はありますか?

 

大きなところでは、父親が達成しきれなかったことをまずは着実に進めていきたい。

一つ目は、海外での成功です。現在の海外の売り上げは、国内の20分の1ほどしかありません。海外でも通用する製品をどのように伝えていくか。世界向けのブランディングやマーケティングが能作にとっては重要になってきます。売る仕組みを考えるのは得意なので、腕の見せ所だなと思っています。

あとは、錫婚式のような「コト」作りをさらに広げていきたい。「モノ」づくりの会社が、人に幸せを与えるという、すごく大きな文化を作っているつもりです。その文化をもっと発展させていきたい思いはありますね。新規分野の開拓も計画しています。

まだまだ能作を知らない人もいて、直営店舗がない都道府県もあります。能作にとって店舗というのは売り上げを作る場ではなく、知ってもらう場だと思っているので、そういった見せる拠点を広げていきたい。

 

Q 子どもに家業を継いでもらいたい思いはありますか?

 

私も父親と同じで、自分の娘に後を継いでほしいとは言わないつもりです。とはいえ、長女は今、小学4年生ですが、高校生あるいは社会人になる頃までには、後を継ぎたいと思ってもらえるぐらいの会社に成長させたいと思っています。

長女には素質を感じます。家庭で夫と経営の話をしているせいか、長女が「ママ。綿菓子の原価って知ってる?」と聞いてきたり、飲食店に行くと、「ホールの人数少なくない?キッチンのスタッフ少ないよ」って話したりするんですよ(笑)。

一般的な子どもはケーキ屋さんとか、お菓子屋さんをやりたいって言うじゃないですか。でも、うちの長女は「店を持ちたい」って言うんです。

 

Q 娘さんの将来は有望ですね(笑)。いずれ富山で一緒に働きたいという気持ちもあると思いますが、千春社長のように、富山にI・Uターンで働く女性は全国と比較しても少ないと分析されています。

 

育児や介護のサポート体制は絶対的に改善すべき点が富山にはたくさんあります。

例えば子育て支援について考える場合、保育園に通うくらいの年齢の子どもを想像する男性経営者はすごく多くて、保育園を作れば何とかなるという発想に陥りがちです。

もちろんそれも大切ですが、小学校に上がれば新たな壁が立ちふさがります。(保護者が家庭にいない小学生の児童を放課後や長期休暇中に預かる)学童保育施設の数は現在ものすごく不足しているのが分かっている状態です。民間学童が増えても利用料金が高く、そこに子どもを預けられる家庭は限られてくるのではないでしょうか。

弊社にはシングルマザーとして勤務しているスタッフがいますが、彼女たちを面接したとき、同居家族などのサポート体制がないために他社の採用面接は不採用になったという声が結構あるんですね。すばらしいスキル持っていても、子育てを理由に雇用すらしてもらえないことは、大変もったいないことだと強く感じています。

 

Q 富山に女性を呼び込むためには何が足りないのでしょうか?

 

おそらく、魅力を打ち出す広報力、PR力が足りないことに尽きるのではないでしょうか。

個人的には、一度富山を出て、外から富山をみる機会を持てたらいいと思います。私自身、県外に出たので富山の魅力に気づくことができました。女性が県外に出れば、女性人口流出につながると主張する保守的な人はいますけど、考え方を改めてほしいですね。

県内には女性の経営者が少ないのが実態です。経営者の集まりに参加すると、正直、女性の私はまだ距離があると感じます。

海外に行くと女性の経営者の方すごく多いです。先日、台湾で会食の機会がありましたが、お会いしたトップの方は女性でした。そもそも、女性だから男性だからという意識もありません。

 

Q 富山で働こうと思っても、一歩踏み出せない方々にどんなアドバイスを送りたいですか?

 

富山は本当に食も自然も豊かで、さまざまな工芸も盛んで魅力的な県だと思います。富山以外のことに触れるなかで、富山の魅力をひとつでも多く感じてもらえればうれしいです。富山は知れば知るほど、住めば住むほど、スルメのように味わいが増していく地域です。

とりあえず、観光目的でも構いませんので、一度、富山に足を運んでほしいですね。点から点へ観光地を見て回るだけの楽しみ方ではなく、ぜひ、面としてそのエリア全体を堪能してもらいたい。

 

 

また、富山は全国的に伝統工芸が盛んな地域です。そうした工芸に触れてもらうため、能作では、高岡市内で受け継がれるものづくりを満喫できるクラフトツアーを開催しています。「理系女子」(理系分野に進学する女子)という言葉が一時流行したように、今度は「ものづくり女子」をはやらせたい思いがあります。そうした女子にとって富山はたまらない街であることを伝えていくことで、工芸の担い手不足の解消にもつなげていきたいですね