「失敗は怖いことじゃない。偶然体験した〝釣り・漁業〟で地域活性を目指す女性起業家」

中川めぐみさん ウオ―代表取締役

大手製薬会社やIT企業を渡り歩き、偶然体験した「釣り」にハマったことをきっかけに起業に至った中川めぐみさん。釣りを地域活性化のツールと見定め、漁業発展と地方創生を使命に日々、魚と地方の人と向き合う。学生時代は早く出たかった地元、富山は創業の地。行き当たりばったりにも見える紆余曲折な人生を楽しむ、そのポジティブ思考はどのように育まれたのか。

 

 

釣りは地域の多様な人と関われる強力な入り口

 

Q 2022年春に株式会社ウオーを立ち上げました。どんな会社ですか?(個人事業主として起業したのは2018年。その後、一般社団法人ウオーを経て株式会社を創業)

 

よく言っているのは、「釣り・漁業×地域活性の仕事をする会社」です。釣りは観光コンテンツや地域創生の起爆剤になりうると思っていて、それを実現するためにさまざまな業務を行っているっていうのが釣りの方の事業です。漁業の方は、漁師さんたちの深刻な課題を明るく解決できる方法を考えるというもので、この2軸を事業としています。

(※ちなみに社名の「ウオ―」の由来は、魚の音読み(ウオ)、雄たけび(共創・気合)、歓声(応援・感動)であると名刺の裏面に記載している)

 

Q そもそも、なぜ「釣り」を事業にしようと思ったのですか?

 

10年ほど前、オンラインゲームなどを展開するグリー(GREE)に勤めていた際に、ゲーム以外の新規事業を立ち上げるタイミングがあったんです。そこで、当時は「釣りスタ」という釣りゲームが大人気だったので、リアルな釣りを楽しめる予約とECサイトをグリーがやったら面白いと思って上司に提案してみました。

それで、プレゼンが進んでいくうちに、自分も含めて周囲が釣り未経験ということが判明し、市場調査という名目で東京湾のアジ釣り船に乗ったんですね。当時、釣りはハードルが高くてコアな趣味だと思っていたのですが、初心者が手ぶらで行ってもアジが10匹も簡単に釣れてしまった。気軽に非日常を体感できるアクティビティだなと、すごく楽しいと感じてしまい、ハマっていったんです。

その経験をSNSで拡散したら、周囲の友達も反応してくれて、一緒に行くようになりました。釣りはゲームでは味わえないような生命反応や手応えがあって、それがすごい刺激的で楽しかった。釣った魚を食べるとめちゃくちゃおいしくて感動した。周囲の友達もそれにハマってくれたようで、気が付いたらサラリーマン時代に100人以上釣りデビューさせていました。

とはいえ、グリーでは釣りは新規事業にはならなかったのですけど(笑)。

 

Q 釣りを体験することで大きな発見があったのですね?

 

20代後半からさまざまな土地へ旅行に行くようになったら、東京は新しいものをひたすらコピペしている町だと感じるようになって。むしろ地方の方が独自の文化や歴史、食べ物でも面白いものが多く、魅力的なんじゃないかと感じたんです。

ただ、それで色々な地域に足を運ぶようになったのですけど、結局その土地に行っても私はただのお客さんで、サービスマンとしか触れ合えない。お金を払う側、もらう側との薄い関係で終わるのが寂しいと感じていました。

そんなとき、たまたまある地域で釣りをしようと乗り合いの釣り船に乗ったら、何時間も同じ船に一緒にいるため、地元の人と話す機会に恵まれたんです。サービスマンではなく同じ一般人同士として話ができた。地元の色々なことを教えてもらったり、釣った魚を調理してもらえる店を教えてもらって、常連さんとその魚を食べたり…。一気に友達ができる感覚。釣りが釣りで終わるのではなく、その地域の素の顔が見られるきっかけになってくれたんです。

とにかく釣ることだけを目的にしている方だと、釣り終わったら帰るだけなのかもしれないけれど、私みたいな観光客だと、釣りを入り口に釣り以外のことも楽しみたいのではと思ったんです。地元の人から情報を聞いて、その日は釣った魚で地元のおいしい酒と一緒に楽しんで、翌日は前日に教えてもらった情報で地域の本当に面白い所を回って帰る。そういう旅がすごく魅力的だなと感じました。

釣りは関係人口みたいなものを巻き込める、ものすごく強力な入り口なのではないかと認識が変わりましたね。

(※「関係人口」とは、移住した「定住人口」でもなく、観光に来た「交流人口」でもない、地域と多様に関わる人々を指す)

 

 

35歳が最後のチャンスとの思いで起業、年間100回釣りし100記事を執筆

 

Q どのタイミングで起業しようと思ったのですか?

 

グリーの後に広告代理店を挟んで、ビズリーチ(転職サービスを提供しているIT企業)に転職したのですけど、そこで地方創生室という地域活性を応援するチームの広報を担当しました。色々な地域で地方活性化に向けて頑張っているプレーヤーの方々と会う環境だったのですけど、そうしたプレーヤーの方々にものすごい刺激を受けたんです。話をしているうちに、自分もプレーヤーという立場が面白いと感じてきて。

当時は広報の役職としてプレーヤーのサポートがメインの仕事で、なかなか現場に行けずに悶々としていました。日に日に現場に行きたい思いが募って、それでチャレンジしたいと思ったんです。35歳のときです。当時は何となく35歳が大きいチャレンジができる最後の年齢かと思っていて、それで思い切って決断しました。

 

Q 35歳が最後のチャンスだと感じた?

 

今になっては、「最後のチャンス」なんてことは全くなかったと思うのですが、当時は事業のチャレンジをはじめ、結婚や出産など大きな選択の分岐点が35歳に感じていたんです。私の場合、出産という選択肢があまりイメージできなくて。そうなると、生命を未来に繋がないとしたら、自分がいた証明・意味をどうやってこの世に残そうかなと考えたのが、たまたま35歳だった。

もちろん、選択はひとつしかできないなんてことは無いですよ。全部を叶えることも、何かだけを選ぶこともできる。どんなやり方でも、その人だけの幸せをつくることができると思っています。

 

Q 最初から釣りを事業にしようと思っていた?

 

何かしら現場でやりたいという思いが一番初めにあって、できれば自分で何か新しいものを生み出したいっていう欲があった。その上で、地域活性に釣りってすごい使えるんじゃないかという、自分の中の妄想みたいなものが膨らんで合致した感じです。

それを当時の会社(ビズリーチ)の上司に相談したところ、「そんなにやりたいんだったら1回休職という形で、最大で3カ月休みをあげるので全国を回ってみたらいい。違うと思ったら同じ役職で戻ってくればいいから」と言っていただいて。それで実際に全国を回ってみたら、やっぱり独立したいという気持ちが確信に変わり、退職しました。

独立したのは2018年1月です。当初は株式会社でなくて個人事業主で、その後に一般社団法人にしています。

 

Q 独立するのに不安はありませんでしたか?

 

ものすごいありました。そもそも、ビジネスモデルがなかったんですよ。釣り×地域創生で何かやりたいという思いだけで先走っていた。実はビジネスプランを練り、資料も作ったのですけど、信頼している先輩(経営者)に見せたら、「お前一瞬で死ぬ(破綻する)」って言われました(笑)。「ビジネスセンスはないのだから、とにかく足でいろいろと回ってみろ」と説かれて、素直にその通りに回りました。

その言葉を受けて、年間100回釣りに行き、100個の記事を執筆することを決めました。そこで、釣りではじまるさまざまな特別体験の情報を届ける「ツッテ」というブログメディアを2018年3月に立ち上げたんです。そうしたら、新聞やテレビなどにブログが取り上げられ、自治体などからお声がかかるようになり、講演などの仕事につながるような流れができました。

とはいえ、沖縄から北海道まで全国を回っていたので、移動費や宿泊費で貯金がどんどんなくなっていきました。なので、一時期は前職のつながりで広報の業務委託などの副業もしていましたね。

 

弾みになった〝魚払い〟の発想「ツッテ熱海」

 

Q 副業に頼らず本業の仕事が回りだしたのはいつ頃ですか?

 

ブログを作っていたときもこだわったのは、釣り人向けのサービスではなく、観光客や初心者、女性、家族連れでも楽しめる情報を発信することでした。手ぶらで行き、釣り方も教えてもらえて、釣った魚は近くで料理してもらえ、食べて帰ることができる観光パッケージみたいなものをひたすらりリサーチし、実体験して、記事にしていたんです。そうしたアクティビティとしてのプランに自治体やさまざまな団体も興味をもってくれて、ブログを見た自治体や商工会議所、漁協などからも声がかかるようになったんです。

そうした中で、ひとつ弾みになったのが、静岡県熱海市で実施した「ツッテ熱海」という取り組みです。これは、熱海の提携船で釣った魚を地元市場に持っていくと、その地域の買い物に使えるクーポン券で買い取ってくれる仕組みです。

たまたま、熱海の近くでつい釣り過ぎてしまったことがあったんです。自宅にも持って帰れない魚の量で、そのときに、仲良くしていただいていた熱海魚市場の社長さんに「釣りすぎた」と連絡すると、「ちょうど魚が足りないから、買い取る」と返事が来たんですよ。その時は6000円くらいで買い取ってもらいました。

でも、このお金を熱海の外で使うのは何か間違っている気がしたんです。地域の大切な資源を自分勝手に持ち出してしまう感じがして。だから、そのお金は熱海でおいしいものを食べて、お土産を買うことに使ったんですけど、それが「魚払い」みたいな感覚で楽しかった。で、それを魚市場の社長さんに話すなかで、「仕組みにしよう」と盛り上がって、具体的に形にしていきました。

「ツッテ熱海」というオリジナルのクーポン券を作って、それを使えるお店も20店舗ぐらい開拓しました。そうしたら、この仕組みを新聞などのメディアが取り上げてくださって、さらに幅広いお仕事の依頼をいただけるようになりましたね。

ちなみに今は静岡県・西伊豆町から正式に依頼を受けて、「ツッテ西伊豆」という企画を3年ほど走らせています。こちらは漁師の高齢化により町が深刻な魚不足に悩んでおり、その解決策のひとつとして、町が地域通貨で観光客の釣った魚を買い取るというもの。より社会性の高い企画として評価をしていただいています。

 

Q 一般社団法人から現在は株式会社に移行しました

 

釣りで全国の漁港を回る中で、漁業や漁師さんは驚くほど魅力的だと気付いたんです。しかしその反面、同じくらい課題も多いんですね。それにちゃんと向き合うためには、社団法人や個人事業主ではなく、きちんと持続できる形の事業をつくるべきだと判断して株式会社に変更しました。売り上げをしっかり立てるという気持ちも持ちながら事業に向き合う必要があるなと思って。

そして事業を通して色々な地域を回っていく中で、偶然、地元である富山の人ともご縁がありました。私は正直、それまで富山ってあんまり面白いと感じることはなかったのです。大学から東京に出たため、思えば富山の仕事や社会、プレイヤーたちにぜんぜん触れていなかったんですね。だけど、2年前くらいに富山出身の会う人会う人がものすごく面白いことに取り組んでいた。だんだんとその面白さにハマっていき、せっかくの地元だし、株式会社を立ち上げるのだったら富山でやりたいなと思い、それで富山市に立ち上げたんです。

 

 

Q 富山ではどのような活動をしているのですか?

 

富山ではまだ活動を探っている段階ですね。泊漁協(朝日町)に入れていただき「副業の海女」としてたまに潜らせていただいて、私のとったサザエで都内魚屋さんのイベントを開いたり、県外IT企業の社員研修を受託して、そこに県内漁師さんを巻き込んだり。豪華釣りプランを設計して、都内の経営者たちに体験してもらう…なんてことも実験的にやっています。そうしたことを通して、自分が本当にやりたいことと、富山にとって、漁業者にとって役に立つ良いものが何かを探っている段階です。

人にしても、企業にしても、何をやろうか考えても結局動けないことが多い。私は「とりあえずやってみる派」で、積極的にチャレンジしていこうと思っています。

 

Q 今後の目標は?

 

今一番考えていることは、漁師さんの課題を明るく解決することです。そのうちのひとつとしてやってみたいのは、海の非常事態を非常食にするというプロダクトを作ることです。

正式なデータはないのですけれど、日本では漁獲されている海産資源のうちの1〜3割が廃棄されているという話があるんです。これは資源管理の面からもよくないし、漁師さんにとっては売り上げの面でも効率が悪い。しかも廃棄されているものの中には、実はおいしくて栄養のあるものも沢山あるんですね。それを活用できればと思っています。

今でもそうした海産物を一般の生活者向けに売ろうとする取り組みは増えていて、素晴らしいことだと思います。ただ、さらなるインパクトをだすためにも、これを企業や業者向けに、非常食として継続的に買い続けてもらうシステムができないかと考えています。

努力義務ですけど、東京などの企業は自治体から防災の観点を踏まえ食料(非常食)の備蓄を求められているのですが、こうした非常食を廃棄する海産物から作った非常食に切り替えていく方法があると思います。企業にとっても非常食を確保するために必要な費用はそれほど変わらず、備蓄する食料を替えるだけでサステナビリティやESG(環境・社会・企業統治)に貢献することにもなります。

実はそれが漁師と企業をつなぐ飛び石になると思っていて、会社の中にそうした非常食が一定数置いてあれば、漁師や地域が見えるきっかけになり得るんです。例えば、その非常食の賞味期限が切れるときにただ捨てるのはもったいないとなれば、それを利用して漁師さんを招いた何かしらイベントを実施することもできると考えています。

ただの非常食では終わらない、プラスアルファの体験価値につながるのではないかと思っています。企業にとっても漁師さんにとってもウィンウィンになるし、地域にとっても地元をアピールできるツールになる可能性もある。暗いものというよりは面白い、非常事態が非常食みたいなキュートな感じの宣伝にもできるかなと思っています。

こうした大喜利要素の入った事業やプロダクトを増やしていくことで海の課題を知ってもらい、いつの間にか多くの人が巻き込まれて、解決の入り口になっているようなものを作っていくのが今後の目標ですね。

 

 

富山で過ごした学生時代は早く東京に行きたいと思っていた

 

Q 面白いと思っていなかったという富山ですが、学生時代はどのように過ごしていたのですか?

 

どちらかというと、堕落していましたね(笑)。勉強も部活もまじめにしない。中学生時は剣道部でしたが、副部長なのにはかまにも着替えずに話してばかりでした。当時はお菓子作りが趣味で、作ってきたお菓子をみんなに食べてもらったりも。マネージャーというか、今でいうコミュニティー担当みたいな感じでした。

 

Q その後、県内の富山高校に入学した

 

運良く進学できたものの、高校でもカラオケ部という名の帰宅部に。当時はやりたいことが全然なかったんですよ。特に将来の夢もなく、大学に行きたい気持ちもありませんでした。周囲が進学するから大学に行くかという気持ちで、学部を決めるのも一番応用がききそうな経済学部を選んで。苦手な英語の配点が少なかった東京の私立大学を受験しました。

ただ、小学生のころから東京にはすごく憧れがあって、早い段階で東京に行きたいという思いはありました。7歳上と5歳上の姉がいるのですけど、姉のファッション誌を読んだりしていると、東京のおしゃれなファッションや生活ぶりが載っているわけですよ。お年玉もらっても富山では使わず、年に1度連れて行ってもらった東京で洋服代などに充てていました。

 

Q 大学受験に合格し、念願の東京での生活が始まりました

 

見事に大学デビューしちゃいましたね。服も髪も派手にして、109や流行りのカフェに友達と行く。授業にもろくに出ずに遊びまくる日々(笑)。

就職活動の時期になってもやりたいことは見つからず、仕事の幅が広そうな営業職に就こうという思いがあって、最終的には外資系の製薬会社に就職を決めました。

内定を取れたのは麻雀(マージャン)のおかげだと思っています(笑)。先輩の影響でハマって、雀荘でアルバイトしていたくらい。それを就活のエントリーシートの趣味の欄に記入したら、「君ならどこに営業で飛び込んでもやっていけるね」と、面接官からの受けが非常によかった。

 

Q 製薬会社ではどのような仕事をしていのですか

 

MR(医薬情報担当者)と呼ばれる製薬企業の営業職でした。配属先は若手も女性もほとんどいなくて、かわいがっていただきました。

ただ、仕事はあまり楽しくなかったですね。大企業だったので、完璧なマニュアルやプレゼン資料がすでに用意されており、まずはその通りにしてくださいというスタンスで。恵まれた環境だったのですけど、働いていくうちに、自分は会社の歯車のように感じてしまった。だんだん仕事がつまらなくなり、入社して1年半たった頃に、辞めてしまいました。

 

Q その後は?

 

就職活動時期の2005年ころは、ITやサイバーといった分野のベンチャー企業がどんどん立ち上がっていて、大手企業は合わないとの思いから、100人規模のゲームやEC事業を手掛けているITベンチャー企業に転職しました。

そこで通販サイトを担当していたのですが、入社してすぐに先輩が部署異動してしまい、教えてくれる人がいない中で、もう一人の社員と二人で試行錯誤してサイトを作っていました。あの手この手を考えて、会社から渡される目標をさらに超える目標をたてて、それを達成するような作業を繰り返していました。毎日0:00を超えるのは当たり前といった働き方をしていましたね。

ものすごい大変だったんですけど、ものすごい楽しかった。ビジネスモデルを作るのは苦手でしたけれど、目標に対して達成するような作業は結構好きだったんでしょうね。

その後、同じIT領域のグリーへ転職し、先にお話ししたような流れで今の仕事をはじめました。

 

富山ならチャレンジしても大丈夫

 

Q 最後に、中川さんのように起業やU・Iターンに迷っている若者や女性に向けてコメントをお願いします

 

「無茶なチャレンジをしても、そうそう死なないよ」とメッセージを送りたいです。命の意味でも社会的な意味でも。現代は色々と厳しい状況でもありますが、日本は比較的恵まれていて、その中でも富山は農林水産物の生産地で食材や水も豊富だし、物価・家賃も安くて、住む意味でも恵まれている。人も優しいです。

私は独立して以降、実証実験を沢山して、失敗も沢山しているけれど、その度に世間は優しいなと感じています。諦めない限り仕事は見つけられるし、こんな私に対して後ろ指も指さず、面白がってくれる人も多いです。

各々のキャラクターもあるかもしれないですが、「私だから特別」ではなく、多くの人が寛容な時代になっているし、チャレンジが尊ばれるようになっている。だから恐れずにチャレンジをしてもらいたいですね。比較的おとなしい人が多いと言われる富山でも、そうしたチャレンジが許される環境になってきていると思います。

まずは一歩、踏み出してみてください。自分で想像もしていなかったような、おもしろい未来が見えてくると思います。