立山登山

富山の地名の由来のひとつには、多くの山が連なり「富める山の国」との意味があるとされます。3000メートル級の山々が連なる立山連峰はまさにその象徴で、晴れた日に壁のようにそびえる雄大さに圧倒された人も多いでしょう。立山は霊山として古くから山岳信仰の対象とされ、〝地獄〟に見立てられた険しい難所も多く、山伏の修験道として登山道が開かれたとされます。その道は古代から現代へと連綿と引き継がれ、現在は富山県の小学生が「一人前の証」を得るために避けられない〝試練の登山道〟へと姿を変えています。

 

「©(公社)とやま観光推進機構」

 

 

■「岩と雪の殿堂」と称される霊山

 

立山はひとつの山を指したものではなく、富山県と岐阜県の間に位置する山々の総称で、大汝山(おおなんじやま)、雄山(おやま)、富士ノ折立(ふじのおりたて)の3つの山から成ります。日本ではめったに見られない氷河が現存する山でもあり、古くから山岳信仰の対象とされている富士山、白山と並び、日本の三大霊山としても知られています。

 

地理的には北アルプス(飛騨山脈)の北側に位置し、有名な黒部ダムがすぐ近くにあることでも知られます。立山連峰は、日本海からわずか30キロメートルの距離に位置し、富士山を除けば、立山は最も海に近い3000メートル峰です。日本海からの季節風によってもたらされる大量の雨と雪は、火山活動とプレート衝突により隆起した山を削り取り、深い谷を形成。新田次郎氏の山岳小説の題材にもなった「剱岳」のように、反り立つような険しい地形を生み出しました。ゴツゴツした切り立った岩肌に夏でも残雪を抱く印象的な景色は「岩と雪の殿堂」と呼ばれます。

 

「©(公社)とやま観光推進機構」

 

西面の明るい富山平野とは対照的に、東面は黒部川が流れる黒部渓谷が広がります。山には、特別天然記念物に指定されているライチョウやニホンカモシカ、イヌワシといった希少な動物たちが暮らし、白く可憐なバラ科の高山植物チングルマや樹齢300年を超えるタテヤマスギといった多様な植物が生育しています。中にはツキノワグマやニホンザルのように、人に害を与える動物も生息しているので、散策する際には十分な注意も必要です。

 

「©(公社)とやま観光推進機構」

 

 

■曼荼羅を通して伝えた開山の歴史

 

そんな険しくも自然豊かな立山に人が登るようになったのは、山に神仏が宿ると考える山岳信仰者が修験道として切り開いたことが、その始まりと伝えられます。立山は平安時代末期に成立したとされる「今昔物語」に、「越中の国(今の富山県)に立山と云う所有り」と記述され、立山地獄に堕ちた娘の話が登場するなど、古代から霊山として広く知られていました。

 

その歴史を知るための貴重な資料が立山曼荼羅(まんだら)です。曼荼羅は巨大な掛け軸式絵画で、立山の山岳信仰の世界観が凝縮して描かれており、信仰を全国に広める布教活動のツールとして作成されました。立山信仰の内容を口頭で伝えるよりも、掛け軸を丸めて携帯し、掛け軸に描かれた絵を通して伝えた方がより分かりやすく、効率よく伝えられると考えられたのです。立山山麓に住む人たちが、江戸時代から昭和初期まで、曼荼羅を携えて全国を回り、立山信仰を広めていきました。

 

その曼荼羅には、立山を開山するきっかけとなった「立山開山縁起」が描かれています。それによると、大宝元年(701年)、立山を含む越中国の国司だった佐伯有若の息子、有頼が白鷹を追って立山奥深くに分け入ると、熊が出現。その熊を追い詰めたところ、熊は阿弥陀如来の化身だったことがわかります。その阿弥陀三尊を仰ぎ見て、麓に立山大権現を建立したことが立山信仰の始まりとなったという物語になっています。

 

この曼荼羅に描かれた世界観をもとに始まった信仰登山が、立山登山の始まりとなりました。山には他界が存在するとの信仰から、立山の各所は浄土と地獄に由来するものに見立てられました。

 

例えば、現在も地名として残る「地獄谷」は、亜硫酸ガスが噴出し、草木が枯死して地獄のような景観が死後の世界をイメージさせる象徴となっています。その近くの「みくりが池」は血の池地獄、「剱岳」は針山地獄を連想させるものとして見立てられました。

 

こうした地獄に見立てられた立山の各所を巡拝することで、形式上「他界」に入り「死」から戻ってくるという疑似的な死後を体験することが修行となり、超常的な力を身に付けられるとの考えがあったそうです。死を経て入山し、山中で罪を清めて生まれ変わり、下山する「擬死再生」の道とも表現されます。

 

ちなみに、立山は女人禁制であったため、江戸時代までは、入峰を許されない女性のための布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)という行事が山麓の芦峅寺で行われていました。この儀式は廃仏毀釈で廃止されましたが、1996年にイベントとして復活しました。

 

 

■岩場をよじ登りたどり着く雄山山頂からの絶景

 

立山山麓には、岩峅寺や芦峅寺をはじめとした信仰登山の拠点があり、「芦峅寺一山文書」によれば古くは室町時代にその起源があったと推察されます。1800年頃の芦峅寺宿坊配置図をみると、芦峅寺集落には参拝者の民宿や寺の機能を併せ持つ宿坊が33あったことが確認できます。現在は、旧佐伯邸(旧宿坊教算坊)などわずかしか現存していません。

 

その宿坊付近や登山の起点となる室堂平周辺には立山曼荼羅に描かれた名所が点在し、照らし合わせながら訪れるとより印象深い体験ができます。

 

例えば、女人禁制の山へ入山した女性が杉にされたとされる「美女杉」や、登った先には天狗が待っているとされる「獅子ヶ鼻岩」、立山を開山した佐伯有頼が熊を追ってたどり着いたという「玉殿岩屋」などを確認することができます。苦労して登り、「雄山」の山頂に立つことができれば、曼荼羅に描かれている天女の舞う姿が拝めるかもしれません。

 

現在は室堂までは立山駅からケーブルカー、美女平から高原バスを乗り継げば約1時間で行くことができます。室堂からの登山道は整備されており、小学生や登山初心者でも雄山山頂にはたどり着けるようになっています。

 

室堂から40分ほど歩けば下界と神域の境界とされ、小さなほこらがある「祓堂(はらいどう)」に到着します。さらに、そこから約20分歩けば、室堂から雄山山頂までの中間地点、トイレ休憩もできる山小屋のある「一ノ越」に到着します。

 

ただし、一ノ越からは大小の石が混在する急登な岩場になっており、岩に手をかけてよじ登らなければいけないルートが出現します。落石などにも注意する必要があり、無理せずに休みながらゆっくりと登ることをお勧めします。

 

そうして50分ほどかけて登り進むと、ようやく雄山山頂にたどり着きます。快晴ならば富山湾までを一望でき、登頂した人にしか味わうことができない絶景が目の前に広がります。

 

ちなみに、山頂に位置する峰本社の開山は7月~9月末で、御朱印やお守りなどを求めるならばこの期間でないと授与されないので覚えておきましょう。

 

「©(公社)とやま観光推進機構」

 

 

■富山の小学生は必ず登る慣習、いつから始まった?

 

信仰として始まった立山登山ですが、明治になると政府の神道国教化政策に基づいて行われた廃仏毀釈の影響で修験道も禁止され、宗教色は薄らいでいきました。明治5年には女人禁制が解かれ、外国人の登山も行われるようになり、観光目的の登山道へその姿は変貌していきます。

 

登山道の整備に伴い、富山の男子には「少年時代に立山に登らないと一人前になれない」とする成人への通過儀礼として立山詣をする慣習が生まれました。その風習は受け継がれ、現在は富山の小学6年生のほぼ全員が学校行事として立山に登るようになりました。各学校では1泊2日の立山登山合宿が行われることも多く、県内の各市町村は、小・中学生を対象とした立山登山活動に対して補助金を交付しており、県内の教育事業の一環として今では定着しています。

 

では、富山の学生が立山を登山する慣習はいつから始まったのでしょうか。

 

高木三郎氏の著書「旧制中学校における立山登山の歴史」によると、「大正10年代になると、富山市の中心地域の小学校で立山登山が実施されるようになった」との記述があります。当時の新聞記事で、富山市内の八人町尋常邸等小学校(現八人町小学校)が大正11年から、星井町吟常高等小学校(現星井町小学校)が大正13年から、それぞれ立山登山を実施したことを紹介しており、その実態が確認できたとのことです。

 

この時期に実施されるようになった背景には、鉄道を中心に交通機関の整備が進んだことにあるようです。富山県営鉄道が大正10年4月に南富山―上滝間、同年8月には岩峅寺まで開通し、大正12年4月には千垣までを開通させました。これにより、富山市内からの立山登山の日程が、1日以上短稲することが可能になりました。体力面で心配な小学生の登山のハードルが一気に下がり、立山登山を促す要因になったと考えられています。

 

さらに、その歴史を掘り下げれば、明治45年に東水橋尋常高等小学校(現水橋中部小学校)が小学生の立山登山の始まりだと指摘しています。同校の沿革史によれば、明治45年の欄に「七月二十五日、立山登山隊ノ組織成リテ学校ヲ出発シ、同月二十九日無事帰校セリ」と記されていたとのことです。

 

さまざまな歴史と文化に支えられ、連綿と受け継がれてきた立山登山。多くの名山を抱える登山大国の日本において、立山登山は趣を異にする大きな魅力が詰まっています。