高岡大仏

高岡大仏は、高岡市大手町の鳳徳山大仏寺にある、高さ15.85メートル、重量65トンの阿弥陀如来坐像です。現在の大仏は、実は3代目。伝統の銅器製造技術を結集し、30年の歳月をかけて造られました。1981年には、高岡市の有形文化財にも指定されています。小杉大仏、庄川大仏と並ぶ越中三大仏の一つであり、その存在感は抜群です。市民からは「だいぶっつぁん」と、親しみと敬意を込めて呼ばれ、高岡のシンボルとして愛されてきました。

 

■参道を進みながら「美男」を眺める

 

まず、境内を入ってすぐ見えるのが仁王像です。

開口の阿形(あぎょう)像は怒りを顕わにした表情、口を結んだ吽形(うんぎょう)像は怒りを内に秘めた表情と言われており、院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての役割を果たしています。

 

その後回廊までの参道を進んでいく際に着目してほしいのは大仏の目元。進むごとに少しずつ目が見開かれていく様子が見ることができます。

高岡大仏の顔立ちは出来栄えの素晴らしさから、歌人の与謝野晶子が「一段と美男」と評したという逸話もあります。


 

 

■見応え満載の回廊巡り

 

参道を真っすぐ進むと、大仏の台座が目の前に迫ってきます。

台座の下は回廊になっており、内部は6:00~18:00まで、参拝が可能です。

中には阿弥陀三尊像、戦後の高岡に在住した新進画家10名が描いた13点の仏画や、2代目高岡大仏の焼け残りとされるご尊顔が安置されています。

 

回廊の壁面には、その昔、高岡の御神木と崇められた杉の巨木「七本杉」の伐採木をキャンバスに用いた仏画13作が展示されています。

七本杉は高岡駅前の大通り「末広町通り」の道路中央に立っていた、幹周り12メートル、樹高は約40メートルの杉の大樹でした。

1609年の高岡城築城以前からあったという記録が残っており、名前の由来は七樹あったうちの一樹が残ったから、また、枝が七本あるからなど、諸説あります。

御神木と崇められて市民に親しまれておりましたが、杉の老朽化と道路拡張工事のため伐採され、13枚の仏画として生まれ変わりました。高岡で親しまれてきたご神木が別の形で今なお、残っているのはどこか感慨深く、人々のご神木への想いがより伝わってきます。

 

回廊の最深部では、1900年の大火で類焼するも、焼失を免れた2代目高岡大仏のご尊顔とされる仏頭が安置されています。大火の際に一部焼け焦げた跡が残り「大火の教訓を忘れじ」と、火災の予防を訴えかける存在となっています。

 

また、高岡大仏の特徴である「円光背」に取付けられる予定であった十二光仏は、重量の制限上これを断念し、仏頭の後方壁面に配されています。

 

 

■市民へ時を知らせる「時鐘」

 

完成から200年以上を経過した今も尚、毎日午前6時と午後6時の2回鳴らされています。

時鐘はまだ時計が普及していない江戸時代に、高岡の町民が秩序を保った規則正しい生活の営みを送れる事を望んで製作されました。

「高岡鋳物」の誇り高い価値を守るために町人達が寄進し、1806年に見事な大鐘を完成させ、大火による数度の移転を経て、大仏寺に寄付されました。


 

 

■大仏再建の歴史と鋳物の町、高岡

 

高岡大仏は初代、2代目の木製大仏が大火で類焼した歴史から、焼失を三度繰り返すまい、との思いが込められて3代目は青銅製で造られました。

2代目高岡大仏の焼失後、篤志家による再建計画が進み、「高岡大仏再興事務所」の趣意書に名を連ねた発起人は52名。内訳は市内の名士が網羅されており、大仏再建における並々ならぬ思いが伝わってきます。

高岡は元々、江戸時代の初めから鋳物作りが盛んな町。茶器や花器、仏具などの銅製品である「高岡銅器」は名が知られていました。青銅製としての再建は火事に強いという理由だけではなく、地場産業である高岡銅器のさらなる発展への願いも込められていたと言われています。「鋳物の町高岡」の鋳造技術が結集して造られた大仏は、幾度の大火を乗り越え生まれた、町を象徴する存在とも言えるのではないでしょうか。

高岡のシンボルである、大仏以外にも時鐘、七本杉の仏画など高岡市民の生活に関わってきたことがよく分かります。古くから高岡の地で親しまれ愛されてきた歴史を、この場所で是非体感していただきたいです。

 

 

■行き方

●所在地:富山県高岡市大手町11-29

URL http://www.takaokadaibutsu.xyz/

■万葉線「坂下町」電停下車徒歩約3分
■JR新高岡駅から車で約10分
■あいの風とやま鉄道高岡駅から徒歩約10分
■能越自動車道高岡ICから車で約10分
■北陸自動車道高岡砺波スマートICから車で約20分