単身渡米後、地元でユニホームデザイナー 困難こそがやりがいだ!

川島真理子さん tufe代表 服飾デザイナー

「おしゃれなオリジナルユニホームを作りたい」。そんな企業の声をくみ取り、独創的なユニホームの企画提案、製造までを一貫して請け負うtufe(トゥフェ)代表で服飾デザイナーの川島真理子さん。仕事を辞めて単身ニューヨークに渡ったかと思えば、富山に戻りオリジナルの洋服ブランドを立ち上げる|。疾風迅雷のごとく駆け回る行動力の原点はどこから生まれてくるのか。

 

沢山の笑顔を作れることに、めちゃくちゃやりがいを感じる

 

Q 現在はどのような仕事が中心ですか?

以前はレディースの洋服を作っていて、それを小売りに卸していました。期間限定のポップアップを関東や関西の百貨店で場所を借りて、販売しに行くことをやっていましたね。

今は企業向けユニホームの取り扱いに特化させていて、その企業に合ったユニホームをデザイン、提案させてもらっています。仲良くして頂いている店とコラボして割烹着を作ったりもしていますよ。

 

Q 会社名のtufe(トゥフェ)とはどのような意味ですか?

中期のフランス語で『房』という意味です。

洋服って自分1人では完成させられない。生地を作るデザイナーさんだったり、生地を織る人だったり、資材屋さんだったり縫製工場のスタッフの皆さんなど多くの人が関わって作り上げられます。服が完成するまでに関わるいろいろな手を房に例えて、房からひとつの洋服が作られていくというような意味を込めました。

「トゥフェ」という言葉の響きがすごい女性らしくてきれいだなと思って、それをブランド名につけてレディース服を展開しました。

 

Q ユニホーム作りに携わるきっかけとなったのは?

一番初めにユニホームの仕事をくださったのが(トヨタ自動車の車を販売する)ネッツトヨタ富山さんで、レディースの上下のセットアップのユニホームを作ってほしいという依頼でした。県内8店舗のコンシェルジュが着用するもので、平日の冬用ユニホームでしたね。

それまで服を作る中で「ユニホーム」っていう概念が頭に全然なかったんですよ。日常着として女性の洋服を作ってたので、ユニホームっていうカテゴリーがあるんだなと再認識した感じでした。

それで2017年に「neatDesign(ニートデザイン)」というユニホームブランド立ち上げました。neatは「きれいな、整った」という意味です。次に手掛けたのは建築会社のユニホームで、男性用の依頼もそれ以降は増えてきましたね。現在(2021年9月)までに17社のユニホームを製作しました。すべて富山の企業です。

 

Q ユニホーム製作は会社のカラーを表現するので難しそうですね

一般の洋服ならば好きな人に買ってもらえればよいのですけど、ユニホームは多くの社員に合うものにしなければならないので、本当に難しいです。

その企業の雰囲気に合わせなければならないし、社員の意見を聞き入れすぎてもコンセプトからズレてきたりする。かといって聞かなければ誰も着ないものになる。難しいですね。

けれども、難しいからこそやりがいあると思っています。色々な人が私の製作したユニホームを着てくれる姿が目に見えるので、それがすごくうれしくて。沢山の笑顔を作れることに、めちゃくちゃやりがいを感じられるんですよね。

 

「自国について詳しく知らないことをすごい〝恥〟だなと思いました」

 

Q 独立したのはいつ頃ですか?

2012年に29歳で起業したので、2021年で9年目になります。私、本当に職歴がほとんどないと言っても過言でないくらいで。文化服装学院という東京の服飾専門学校を卒業して、ヨウジヤマモト(山本耀司氏が設立したファッションブランド)で販売員をしていたんですが、職歴はそれくらい。本当はこの会社では製作を担当したかったのですけど、販売の方にまわされて…。六本木の店舗での接客が中心だったのですが、お客さんのほとんどは外国人だったんです。私の英語がほとんど通じなくてすごく情けない思いをしました。

ある時、その店舗にニューヨーク支店の社員が研修に来て、その時に電子辞書を使いながら片言の英語で会話をしていたらニューヨークも面白そうだと思ったんです。製作に行きたいとアピールしてもすぐには会社側も動いてくれず、ここで時間費やすよりも、もっと自分の身になることは絶対できると思い立った。

それでヨウジヤマモトを8カ月くらいで退社してニューヨークに行きました。思いついたらすぐ行動みたいな。昔から誰が何を言おうが、猪突猛進なところがありましたね。

 

Q ニューヨークでの生活はどうでしたか?

ニューヨークで語学勉強を3カ月くらいしながら、いろいろと回ってやりたいことを見つけようと考えていたところ、転機となることがありました。

通っていた語学学校の授業で自分の国についてディスカッションをする機会があったのですが、そこで私以外の参加者たちは自国をすごい愛していることが伝わってくる会話が多かった。「じゃあ日本はどうですか?」と質問されたときに私はうまく日本のことを紹介できなかったんです。自国について詳しく知らないことをすごい恥だなと思いましたよ。

それで地元に戻って、日本の面白いもの見てみようと思って帰国したんです。富山ではどのようなモノづくりがあるのだろうかと思って。その時に(高岡市の鋳物メーカー)能作さんの工場見学に行ったりして、初めて地元のモノづくりの魅力を発見できたんですね。そうしたものを見ているうちに、富山で何かモノづくりができたら良いなと思ったんです。

Q それで富山で服飾事業をやろうと思い立った

富山では化学繊維や合繊、トリコット(経編)生地を生産しているところも多くて、富山を拠点に洋服作っていけたらいいなと考えて始めました。24歳くらいのときですね。

富山に戻ってきて結婚したのですけど、妊娠中に自分で小物を作ったりして、作家さんたちが集まるところでそれを売ったりもしました。

 

Q 具体的な活動はどのように始めたのですか?

射水市にあるギャラリーガラスのピラミッドで月替わりでイベントをやっているんですけど、そこで出会ったガラス作家さんの作品をすごい好きになって。それで、この作家さんにガラスのボタンを制作してもらって洋服につけて。。。としているうちに、何か富山のモノづくりも取り入れた洋服を作るブランドを作りたいと思ったんです。

 

Q いつ頃から服飾関係の仕事に携わりたいと思ったのですか?

幼稚園の頃からなんですよ。お姫様のドレスを作る人になりたいというのが夢だったんです。デザイナー職がどんなものかもちろん分かっていなかったので、ひたすらお姫様の絵をずっと描いていました。

そんな思いを抱きながら成長して、高校時に建築関係の仕事にも興味がわいたんですけど、建築は人や家族など多くの人たちを包むものだけど、洋服は1人を包むもので肌に一番近いものだから、そっちの方に強く魅力を感じるようになったんです。

それで文化服装学院に進学したいと高校3年時に決意したんですけど、それを両親に言ったら「そんなもんで食っていけるわけない」と反対されて。でも、どうしても諦めきれなくて、1年間浪人して、バイトでお金もためて、親を説得したら親も折れてくれて。1年遅れで文化服装学院に進学することができました。

 

クリエイティブな仕事をするには富山は良い環境」

 

Q 東京ではどのような生活を送っていましたか?

文化服装学院での課題が多すぎて、それをこなす毎日でした。生地の縫い方とかは反復しないとすぐ忘れてしまうので、友達の家に集まって深夜2時ごろまでみんなで課題こなして、雑魚寝して、起きて、そのまま学校に行くという生活。でも、それが楽しかったですね。

遊んだりもしましたけど、やはり服と関わった遊びが中心。クラブを借り切ってファッションショーを開催したりといった遊び方をしていました。

 

Q いずれ富山には戻ってくると思っていましたか?

当時は絶対に帰ってきたくないと思っていました(笑)。やはり都会への憧れがずっとあって、せっかく東京に出てきたのだからここで過ごしたい思いはありましたね。

 

Q 富山に戻ってきて独立されましたが、再び富山を離れて何かやりたい思いはありますか?

今はないですね。富山は静かで人も温かいし、少し車で移動すれば海や山がある豊かな自然に出会える。クリエイティブな仕事をするには良い環境だと思います。息が詰まる感じがまったくしないというか。

私にとっては家族がそばにいて、一緒に笑い合える場所が富山。モノづくりに関しては合繊主体でやっているのが富山県ですけど、世界に出せるような織物を作っているところも大きな魅力ですね。ただ、色々な意味でスピード感はないです。

とはいえ、視野を広げる意味でも1度は富山を出て生活してみるべきだと思いますね。富山から出て、色々なものを吸収してきてほしいと。それは自分の息子にも言っています。

 

Q 家族とのかかわり方で意識していることはありますか?

どんなに忙しくても家族と一緒に夕食を食べる。仕事を初めてからこの習慣はずっと続けています。本当に忙しくても、絶対に午後6時には一度仕事を止めて自宅に戻り、ご飯作って、家族と一緒に食べて、午後9時ごろにもう1度職場に戻る。忙しい時は1日に2回出勤するような生活をしていますね。