親子3代でつないできた「左官屋」という家業
「もともとは、じいさんが戦後に左官屋として独立したのが始まりだったんです」
そう話すのは、代表取締役の足利哲也さん。
左官屋とは、建物の壁や床を塗って仕上げる職人のことです。
哲也さんの祖父が個人で左官の仕事をはじめ、初代から事業を受け継いだ哲也さんの父が法人化。
工事の規模が拡大してきたところで哲也さんが3代目に就任しました。
3代に渡って家業をつなぎ、地元に根づきながら事業を広げてきました。
時はさかのぼり第二次世界大戦時。
学生だった初代は捕虜としてシベリアで2年ほど過ごします。
終戦後に帰国できたものの、十分な学を得ないままに戦地へ送り出されていたために、職に就きたくても困難な状況でした。
そんな中でなんとか手に職をつけようと弟子入りしたのが左官屋だったのです。
「祖父は多くを語らない職人肌の人でしたが、シベリアにいたころの話を聞くと、激動の時代を生き抜いてきた人なのだなと思います。」
職人として独立した初代の背中を見て育った足利さんの父も、左官職人になって後を継ぎました。
2008年に法人化し、付き合いのある業者が会社をたたむ時に、そこに勤めていた従業員を何人か雇うことになった経緯もあり、左官だけでなく公共の土木工事なども担うようになりました。
そんな祖父と父の背中を見て育った哲也さんも建設業の道を選びます。
一関工業高校の土木課を卒業後、すぐに一関市千厩町の「橋本工務店」に入社。
およそ10年の間、土木工事の現場監督として経験を積んだ後、実家に戻ることに決めました。
「18歳から勤めていたので、今の会社に戻ってきたのは28歳の時です。もともと橋本さんのところでいろんなことを勉強していつかは家に戻ろうと考えていて、10年がひと区切りかなと思っていました。担当していた大きな現場がひと段落して、そろそろかな、と」
家業に従事して10年ほどの月日が過ぎ、哲也さんが38歳になったある日、父から不意に「来月からお前が社長やれ」と代替わりを言い渡されます。
「唐突で驚いたが、職人あがりの寡黙な父らしい伝え方だった」と、哲也さんは話します。
こうして3代目に就任した哲也さんは、代表として社員をまとめながら自身も現場監督として現場に出向き、忙しいながらもやりがいのある日々を送っています。
現場に必要なのは「安全」と「段取り」
足利さんの元で働く菊池昭弘さんは、一関市内の高校を卒業後に足利工業に入社。
そのまま13年ほど勤め、一度は退社したものの数年後にここに戻ってきました。
現在は主に左官の仕事を担いながら、橋梁の補修工事や土木の現場など、幅広い業務に取り組んでいます。
共に働く人たちに何気ない会話を持ちかけ、楽しそうに話す姿が印象的な菊地さんは、現場のムードメーカーです。
菊池さんの1日は、朝会社に着いて今日の現場の作業内容を確認するところから始まります。
必要な機材や材料を車に積み込んで現場に向かい、段取りを決めて作業に取り掛かります。
その日の作業を終えると会社に戻ってきて、次の現場を確認して1日を終えます。
日々仕事をする上で大事なのは「安全」と「段取り」だと話す菊池さん。
危険が伴う現場仕事だからこそ、その二つがしっかりとできている必要があると言います。
「まずは安全第一ですね。労災事故が起きないように、作業をどう工夫するか考える。怪我をすると何もできなくなっちゃいますから。出来るだけ安全に作業を進めるために必要なのが段取り。」
「昔から『段取り八分』なんて言います。どの材料を使うかとか、何の機械を使うかとか、今日の現場にはどれが適しているかとか。必要な全てのものを準備して、現場に向かっています」
菊池さんは、先輩たちの背中を見て仕事を覚えました。
当時は職人らしく「見て覚えろ」と言う先輩たちも多かったそうですが、実際には現場で先輩たちに支えられながら仕事を成し遂げ、その経験を積んでいくことで成長してきました。
「一人じゃできない仕事ですから。先輩たちがこれまで支えてくれた分、誰かが困った時は力になりたいです」と菊地さんは話します。
これまで担当した中で印象的だった現場を尋ねると、菊池さんはこう話してくれました。
「初めて壁仕上げを一人でできた時かな。自分にはできないと思っていたのに、経験を重ねるうちにいつの間にか上達していて、『あぁ、できるようになったんだな』って。それを実感した時は嬉しかったですね」
数々の現場を担ってきた中でも初心を忘れず、誠実に現場と向き合う菊池さん。
現場で仕事をするその眼差しから、経験の厚みとプロとしての意識が垣間見えます。
営業はしない。ベストを尽くした仕事が次の仕事に繋がる。
代表の哲也さんは日頃から「ベストじゃなくてもいいから、ベターを目指す」ということを従業員の皆さんに伝えています。
「仕事はプライドを持ってやらないと。妥協して『これでいいや』って仕事してたんじゃ、次から仕事を頼まれなくなる。だから、普段から『ちゃんと決めてこいよ』って伝えてます。」
「決められた工期の中できっちりと質のいい仕事をして、最低限のラインじゃなく、自分が今できるベストまでやってきてほしい。たとえベストが難しくても、ベターを目指してほしいですね」
妥協せずにベストを尽くす。
それを積み重ねていくことで信頼や評判につながり、黙っていても仕事が来るようになる。
足利工業では基本的に新規の営業をかけていません。
これまでの実績が新しい仕事を生むと考えているからです。
知人の紹介がない依頼はお断りすると言います。
知人の紹介で依頼を受ける場合も、「紹介してくれたあの人のメンツを潰すわけにはいかない」と、一つ一つ丁寧に仕事をして信頼と実績を積み重ねています。
「そしてそれは、共に働く仲間のためでもある」と哲也さんは言います。
「例えば飛び込みで20件営業して1件とったとして、そこでベストな仕事ができればいいけど、大体回ってくる仕事は他が手を出さずに残った仕事だったりして、下手すると赤字ってこともある。」
「きついスケジュールで焦ったり、使う材料に制限かけたりする中でベストは尽くせない。ベター、ベストを目指すんだったら、ある程度予算や納期に余裕がある仕事を取ってこないとね」
スタッフの菊池さんも同じように「綺麗に妥協せずやることを大切にしている」と話します。
例えば左官工事の場合、菊池さんが担当した壁が全部上塗りの塗装で塗られて見えなくなるそうです。
「なぜそれでも綺麗に仕上げるのか」と思わず尋ねると、こう返ってきました。
「綺麗にやっておけば、次の仕事につながるんです。ただそれだけです。もし仕上がりが汚いと言われたら、その仕事がずっと残ってしまう。」
「だから出来るだけ綺麗にしたいんです。会社の名前を背負ってるので」
その責任感とプロ意識が、足利工業の強みであることは間違いありません。
建設業は「地図に残る」誇らしい仕事
体力的にハードな業務が多いこの業界で、労働水準の課題を少しずつでも変えていかなければならないと、哲也さんは考えています。
社長になってからまず初めに取り組んだのは、福利厚生の向上でした。
建設業の補償制度である共済制度を作り、現場単位で全員の加入を徹底するようにしたのです。
「建設業界はどうしても福利厚生を後回しにしてしまうところがあって、これまで退職金がなかったんです。」
「このままではいけないと思い、共済制度を作って、1日300円を長年積み立て、それを退職時にもらえるという仕組みを取り入れています。少しずつ環境を変えていかないといけないと思っています」
その課題意識は、少しずつ社内に変化をもたらしています。菊地さんはその変化をこう話します。
「足利さんが社長になってからどんどん時代に合った働き方になってきているなと思います。業務内容もやりやすくなってきた。」
「この仕事は天候次第だったり元請けさんのスケジュールに合わせたりと波がある仕事ですが、以前に比べて休みをしっかり確保してもらえるようになりました」
また、現在足利工業では40代の菊地さんが一番若手で、若手の職人が少なく、ベテランの職人が多いと言います。
哲也さんは今後時代に合った建設業界の働き方を模索しながら、若い人たちを迎え入れて育てていきたいと考えています。
「人口減で若い人たちがいないし、いても出ていってしまう。その受け皿になれたらいいなと思っています。」
「IターンとかUターンとかを考えて、こっちで仕事を探す時に『仕事が無いからやめよう』となってしまうのはもったいない。やる気を持って仕事に打ち込んでみたら、やりがいを感じると思うし、その結果、地元に残ろうと思えるかもしれない。そういう人たちを受け入れていきたいと考えています」
足利さんは、この仕事のやりがいをこう語ります。
「同じ現場が一つとしてないので、常に新しい現場でどうすればいいか考えながら進めていくのは面白いです。」
「そして何より、この仕事は地図に残ります。GoogleEarthでも見れるんですよ。子どもや孫ができた時に、『この建物はお父さんが作ったんだぞ』って自信を持って言える仕事です」
プライドを持ち、一つ一つ丁寧に取り組んだ仕事が地図に残っていく。
私たちの当たり前の便利な生活を見えないところで支えているのは、哲也さんや菊池さんのように仕事にプライドを持って誠実に現場を担う職人たちです。
ここには、地図に残せる職人の仕事が待っています。
(文:佐藤文香)