パレット・ユニットハウス等を 一貫製造できることが最大の強み
有限会社光成工業は、1967年に神奈川県横浜市で創業しました。
村上耕一現社長の父・晃さんが会社を立ち上げ、当初はプレス工場として操業。
横浜を拠点とし、岩手県平泉町にも事業所を設置しました。
その後、経営の抜本的な改革に伴い、本社の移転を検討することとなった光成工業。
そこで新たな拠点として選んだのが、すでに事業所のあった岩手県でした。
1979年に平泉町に拠点を移し、その後現在の一関市萩荘に本社を構えることとなった。
プレス加工を行う工場の様子。複数の製品の作業を同時並行で行っている。
現在は、運搬・保管用のパレット、ユニットハウスなどの製造を手掛けている光成工業。
一番の強みは、材料の調達から設計・加工・溶接・塗装まで全てを自社で一貫して行えることです。
「同じようにパレットを作っている会社でも、材料の仕入れや設計などの前工程、あるいは溶接が終わってからの後工程は、外注に出してしまうところが多いです。でも、最初から最後まで自社内だけで行えるのが私たちの強み。製作する製品のほとんどがオーダーメイドの受注生産で、全国の上場企業とも取り引きさせてもらっています」
事業を進めるうえで「よりお客様と近い距離で接することが大事」と唱える村上社長。
最大限、先方の要望に応えられるよう、打ち合わせを何度も重ねながら、受注、生産、納品までの流れを自社で実施。オーダーメイドのものづくり企業として、質の高い製品の提供に心血を注いできました。
また、光成工業では、より品質の安定を図るために、さまざまな機械のロボット化を推進しています。
「溶接ロボットは単発小ロットの生産には向いていないのですが、再現性は保たれているのでリピート生産に強いという特長があります。私たちのような業種は、1つの工場につき1個の製品しか生産できないケースが多いのですが、いくつかの製品をパラレルで生産できるように一部の作業をロボット化し、複雑な工程管理を可能にしてきました」
残業をさせない働き方改革を推進
男女問わず、若者から年配者まで、およそ100人の従業員が働く光成工業。
皆が快適に作業にあたれるよう、会社では近年“働き方改革”にも本腰を入れています。
「10年ほど前までは、とにかく残業をしていました。賞与は低めにし基本給を高くすることにより残業単価を高くする。残業すればするほど稼げるという考えで、私も月100時間以上残業していました。でも、社員は次々と辞めていくし、新入社員もなかなか集まらない。これはいけないと思いましたね」
それからは、残業ができない仕組みを作り、現在の平均残業時間は20時間を割り込みました。ゆくゆくは残業ゼロを目指すといいます。また、有給休暇の取得率も80%弱まで増やし、社員のプライベートの時間を大事にしてきました。
「数年前の話になりますが、土曜日に社内の“ゼロ災大会”というイベントがありました。そのような時は、子供の学校行事とかが重なっている社員には有給休暇を使って休んでもらっていたのですが、工場長が会社に子どもの行事のことを言わずに会社イベントに出ようとしていたんです。同じ学校に子どもを通わせている社員が有給休暇を取っていてわかったんですが、その時は激しく注意しました。『家庭をほったらかしにしてまで会社に来るんじゃない。』って、あんなに怒ったのはあれが最後です(笑)」
この一件以来、「有給休暇を取ってもいいんだ」という認識が社員全体に広まり、有給休暇の取得率が一気に高まっていったようです。
最近では、さらなる業務の効率化を目指し、サイボウズ社の業務改善プラットフォーム〈kintone〉を導入。
社員たちにタブレット端末を配り、一日の作業内容や、進捗状況などを手軽に共有できるシステムを自分達で構築しました。
今まで作業日報や購入申請など、紙で行っていた業務がいきなりペーパーレスになったことで初めは社員たちも戸惑ったそうですが、今では端末の扱いも手慣れたもの。
事務手続きの負担が軽減されたことで、より集中して現場作業に取り組めるようになったといいます。
また、外国人実習生を積極的に雇用しているのも、光成工業の特徴の一つ。
コロナ禍以前には、実習生の母国の鍋料理を作ってみんなで食べたり、地域の地区民運動会に参加してもらったりと、交流も盛んに行われていたようです。
「帰国の時期には卒業式を開きます。そのときは社員一同、両国の国家を歌うのですがどちらも涙をボロボロ流すんですよ。コロナ禍になる前には社員同士の飲み会などもよく開催していましたし、お互いにとても良い関係を築くことができています」
国境の垣根を越えて、ファミリーとして過ごす。
村上社長の言葉からも、明るくにぎやかな社内の雰囲気が伝わってきます。
和気あいあいとした雰囲気が魅力 子育てへの理解も二重丸
現在、設計を担当する千葉操さんは、7年前に関東からUターンし、光成工業に入社しました。
「たとえば一つの製品を作るにあたって、CADソフトを用いながら作図し、『これぐらいの長さに切りなさい』『このような加工をしなさい』といった製品製作指示書を作り、それを加工現場へ提示します」
ここに入社するまでは、主に医療系のソフト開発などに携わっていた千葉さん。
もともとCM制作に興味があり、専門学校ではコンピューターグラフィックを学んでいたそうです。
「デザイン系のセンスがないと気付きCM制作の仕事は諦めましたが、グラフィックの部分は自分もできそうだなと思い、卒業してからは勉強したことが生かせるような会社に勤めました。今いる光成工業でも当時学んだたくさんのことが生きています」
「工程期間に合わせて図面設計から作業指示書の作成、製造現場と打合せ等も行うだけに、責任の伴う仕事ですが、使いやすさ・安全面など、諸々の条件を満たすためにはどうすればいいかを自分なりに考えて、その製品がだんだん形になってきたときは、とてもやりがいを感じます」
と充実した日々を過ごしているようです。
また、一児の母親として子育てに奮闘する、総務の後藤茉莉香さん。
会社の特徴を、次のように話しています。
「子育てへの理解がとても深い会社だなと思っています。社長のお子さんもまだ小さいですし、上司の方々も自分たちの子どもの行事に率先して参加しているので、われわれ一般社員も休みを取りやすい環境ですね。また、子どもがいきなり熱を出してしまった時も遠慮なく相談でき会社を休める。気軽に子どもの話ができる場があるのはとても良いことです」
地元の高校を卒業後、光成工業に就職した後藤さん。この会社で働き始めて13年目となりますが、
「親睦の行事も多いですし、違う部署の人や、外国人実習生とも、隔たりなくフランクに話ができる。和気あいあいとした雰囲気のある会社だと思っています。それは私が入社した頃からずっと変わりません。これまでたくさん可愛がってもらった分、現場の人たちと積極的にコミュニケーションを図りながら、みんなの手助けになるような仕事をしていきたいです」
とこれからの目標を話します。
拡大路線へかじを切り 会社のさらなる発展へ
光成工業は、2021年11月で43期目を迎えました。
今から約10年前に父・晃さんから会社の舵取りを任された村上社長は、これまでの期間をこのように振り返ります。
「普段は親父と仲が良いのですが、会社が進むべき方向について話をすると、しょっちゅう喧嘩していましたね。その後、親父が亡くなって、自分が会社のトップとなりました。そしたら、やりたいことができるかと思いきや、逆に思い切った決断ができなくなってしまったんですよ」
これまでは親子で意見をぶつけ合い、散々議論した中で最終決定を下すことの多かったという村上社長。
突然、ブレーキをかけてくれる存在がいなくなったことで、自分の意志や判断が正しいのかどうか、確信が持てなくなってしまったと言います。
あれから時が過ぎ、会社のトップとして10年以上が経った今、村上社長は改めて拡大路線へのシフトチェンジを図ります。
「親父の経営が間違ってなかったことを証明するために、この10年間いままでどおりの手堅い経営をし、先代の父が、後継者に変わっても10年はつぶれない会社を経営していたことを証明したかった。そして、10年がたち、それを証明できたと思っています。」
「これからは自分の代。2年前には設立40周年を迎え、このまま守ってばかりではいけないなと感じています。新規事業の準備も順調に進んでいますし、人材も積極的に採用していますし、設備も第4工場、第5工場を立て続けに建て、新たな機械も導入しました。今まさに、未来に向けての投資をしているところです」
同じ敷地内に5つある工場それぞれに最新鋭の機械がいくつも導入されています。
最後に村上社長は、光成工業の目指すべき姿をこのように語ってくれました。
「夢とかビジョンとかではなく、労働環境・社内の雰囲気・それに給与面においても、近隣にある企業と比べて見劣りしない、そんな会社にすることが目標です。目の前の小さな目標をみんなで目指していければいいと思っています。社員のみんなが働いていて“楽しい”と思える、そんな会社をこれからも目指していきたいですね」
製造業と聞くと、どこか大変で、根気のいる仕事だというイメージがあるかもしれません。しかし、光成工業に行ってみると、作業のロボット化や、事務作業のICT化、さらに有給休暇の取得率向上まで、あらゆる工夫を施しながら、働きやすい環境をつくり上げていく風土がありました。
そして、各工場・各部署が連携してオーダーメイドのものづくりを行うためにも、日々、自分たち働く環境とチームワークを磨いているように感じました。
(取材:郷内和軌)
※撮影時はマスクを外していただきました。