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株式会社山口勇商店・株式会社サンユーワークス / 部門担当者

インタビュー記事

更新日 : 2023年11月11日

石川県の最北に位置する珠洲市。現在は本州で一番人口が少ない市になってしまったが、中心街の飯田町には現在も多くの家が軒を連ね、人々の暮らしは途絶えることなく続いている。この飯田から珠洲や奥能登の暮らしを見つめ続けているのが、創業102年目を迎えた老舗、山口勇商店である。
商店街でも目立つピンク色の看板を掲げる本社屋を訪ねると、店内にはおもわず羨ましくなる素敵なキッチンカウンターや洗面台がずらり。
「ここはリフォームをイメージしてもらうためのショールームなんです」影からひょっこり現れた作業着姿の山口彰社長(48)=写真左端=が胸を張った。

株式会社山口勇商店・株式会社サンユーワークス 事業概要

創業者の名を冠する山口勇商店は、1921(大正10)年に珠洲市で金物店として創業した。戦後はプロパンガスや水道、サッシ工事など住生活に関わる事業を軸とし、1984(昭和59)年には現本社屋に市内で唯一となるホームセンターを開業するなど地域生活の向上に貢献してきた。現在は「ホームセンタームサシ」のFC店舗を珠洲市、能登町で展開している。サンユーワークスは1995(平成7年)、山口勇商店の管工事、サッシ部門を分社して設立された。両社は連携しながら、奥能登の暮らしを支え続けている。

「超」アットホーム

 

山口社長は創業者の山口勇氏のひ孫にあたる。金物店として創業した同社は、創業当時は馬の蹄鉄(ていてつ)やのこぎりの目立てなど、地域の産業を支える事業を生業としていた。次第に金物や水道工事、プロパンガス販売などに事業を拡大していったが、昭和50年代まではまだ個人商店らしさが色濃く残っていた。山口さんも学生時代から商品の陳列や集金などを手伝った「当時の事務所は自宅で、大みそかに1年分の集金が終わると社員全員で年越しそばを食べていました。とても小さな会社でした」。家庭の中に仕事があったため、会社の後継ぎになるという認識もあまりなかったという。

会社の大きな転機となったのは山口さんが中学校に入る頃だった。当時、大都市近郊で建築、農業資材などを小売するホームセンター業態が増えていることを知った父が「これを珠洲に作るぞ」と決意した。山口勇商店には小売の取引先がほとんどなかったが、父はほうぼうを駆け巡って独自に仕入先を開拓。1984(昭和59)年、現本社屋にサンユーホームセンターを開店したのである。積極的に事業を前進させる父の背中を見て、山口さんも大学卒業後にホームセンター業界に就職。5年間勤めたあと、父の店を発展的解消した「ホームセンタームサシFC珠洲店」を引き継ぐことになった。

2015年には隣町の能登町宇出津に2軒目のFC店をオープンし、貴重な人材の受け皿となっている。最近は地元だけでなく県外出身者の就職も増えている。「これまで工事や販売で暮らしを支えてきたが、今はこの奥能登で雇用を生み出すのも大きな使命だと考えています」。超アットホームだった頃のやさしさはそのままに、間口は大きく広がった。


自分から飛び込む

 

ホームセンターで農業資材部門を担当する奥野明仁さん(44)=写真中央=は、大阪府出身。珠洲にやってきて4年めになった。大阪では介護職などを勤めていたが、妻の実家がある珠洲を訪れ、豊かな自然とのどかな街並みに引き込まれた。長女が中学生になるタイミングで「子育ては珠洲でしたい」と考え、両親の反対を押し切って移住した。当初は介護職の経験を活かして福祉施設に就職したが、最初は言葉の壁が立ちはだかったという。
「お年寄りの言葉がわからなくて、妻に『どういうこと?』って聞いていました。耳が慣れてくるまでは本当に辛かったです」
根からの優しい性格もあって、誰とでもすぐに打ち解けることはできたが、介護で言葉が通じないのは大事故に繋がりかねない。人と関わる仕事を続けたいと思った奥野さんは、人々の暮らしに直結している山口勇商店への転職を決めた。現在は土や肥料を販売する売り場の責任者だが、客との距離が近く、やりがいを感じているという。「能登の人は、初対面だと人見知りしてしまうんです。でもあきらめずに自分から相手の懐に飛び込んでいくようにすると、すぐに馴染めますね」
大阪とは違うスローライフのなか、3人の子供ともゆっくりと向き合う時間がある。長女と次女の双子は相撲で全国大会に進むほどのびのびと成長している。

働く意味がわかった

 

同じくホームセンターに勤める熊谷(くまがい)千奈美さん(58)=写真右端=は、夫とともに横浜市から能登町に引っ越して6年目になる。妻の地元が珠洲だった奥野さんと違い、縁もゆかりもないIターン移住だ。夫婦とも会社員だったが仕事が激務で、夕食はいつも0時過ぎ。夫は体調を崩しがちになり、ゆったりした田舎暮らしへの憧れが募っていった。ある日、夫に誘われて東京で開かれる大規模な移住イベントに参加すると、そこには奥能登の自治体のブースがあった。釣りが趣味だった夫は、かつて訪れた能登半島を思い出し、吸い寄せられるように職員に話しかけると、相手も大の釣り好き。大盛りあがりで帰宅し、夫の気持ちはすっかり移住に傾いてしまった。「移住するなんて本気にしていなかったので、しばらく大喧嘩になりました。もう半年以上口もきかなくなって……」家庭の危機かと思われたが、最終的には夫が激務に耐えられなくなって体を壊してしまった。「ほんならしょうがないねってなったんです」熊谷さんは当時を思い出して頭をかいた。熊谷さんは最初、より金沢に近い街を希望していたが、「中途半端な郊外なら今までと変わらないだろ」という夫に押し切られ、最北端の奥能登に落ち着いた。

来たばかりで頼る人もいなかった熊谷さん。知り合いを増やそうと公民館主催の半日旅行に参加すると、バスで隣り合わせたのがサンユーワークスに勤めていた女性だった。「たまにお店を手伝いに来ないと誘われて、たまたま退職者が出たこともあってそのまま就職が決まりました」。行動力もさることながら、まさに偶然のめぐり合わせだった。最初は金沢の近くがいいと思っていたが、今はここ以外には考えられないほど、街に愛着が湧いている。
「横浜では仕事をこなすだけで精一杯。大きな会社なので誰の役に立っているかもわからなかった。今はお客さんと直接話すことで『この人を幸せにする仕事なんだ』と実感できるのがうれしいんです」。熊谷さんは山口社長の横で恥ずかしそうに笑顔を見せた。

 

「知っている」強み

 

同社が構想しているのは雇用の問題だけではない。奥能登の人口減少が進む一方で、科学技術は今後ますます進展していくだろう。
今でもインターネットを使えば、珠洲にいながらにして、いろいろなモノや情報が手に入るようになっている。
「でも、実際に顔が見えるというのが能登にいる強みだと思うんです」山口さんはゆっくりと噛みしめるように話した。リフォームやプロパンガス販売などを通じて、お客さまの要望だけでなく、ときには家族構成までわかった上で新しい提案ができるのである。フランチャイズのホームセンターも地元客の要望にあわせて品揃えや展示に工夫をこらす。売り場や商品は本部のルールで定められているが、直営店では取り扱っていない商品やサービスも充実している。

「生活に必要なものは時代によって変化していきます。私たちは地域の住生活を支える会社として、既存の事業にこだわらず、新しいものを次々に取り入れていきたいと考えています」

100年以上にわたって奥能登の暮らしを支えてきた山口勇商店。販売や工事という実務を越え、会社そのものがよりよい生活を求める移住者の受け皿にもなりつつある。家屋のみならず生活をもリフォームするという熱い使命を感じ取った。