土本勝洋さん(たい焼き工房 土九)

「石川県いいな!石川県で生活したい!ってキラキラした気持ちできたんちゃうけど、大丈夫です?」。甘い香りのするたい焼き工房土九の店内。関西弁で話し出すオーナーの土本勝洋さん。定休日にもかかわらず快く取材に応じてくれた。石川県に四店舗。取材中にも定休日と知らずに訪れるお客さんがたくさん。言わずと知れた人気店だ。



学生でいたい気持ちから
大学受験を決意するも浪人

奈良生まれ。小中学校を奈良で過ごし大阪の高校へ進学。学歴社会だった当時の風潮もあり大学進学を決意。「というか、まだまだ就職したくなかった」。真剣な眼差しでいうことではないが、正直な人だ。

受験勉強と同時に軽い気持ちで始めた和菓子屋さんのがアルバイト。「近くの和菓子屋さんが、風習なのか年末すごい量のお餅をつくんですよ。それを手伝うっていう短期アルバイトを募集してて、なんかおもろそうやなって」。軽い気持ちでアルバイトを始めるが、そのおかげで受験勉強が疎かになり一浪。そして二回目の受験を控える12月。いつも通りアルバイトの為和菓子屋へ行くと店主から「お前、手先が器用やし、このまま働いてみいひん?」とまさかのスカウト。浪人生を捕まえて受験勉強ラストスパートにスカウトをぶっ込んできた和菓子屋の店主もすごいが、それだけの才能を土本さんに感じたのかもしれない。「まあ、勉強もそないしてなかったしそれもいいかなって」。怒られると思いつつも親に相談。「実際怒られたけどね。当たり前に」。そりゃあそうだろう。しかし子どもの意思を尊重してくれたようだ。怒られながらも大学受験ではなく和菓子の道へ進むこととなる。

20歳で飛び込ん和菓子の世界
飛び込んでみると軍隊でした

初めての就職で飛び込んだ職人の世界。「軍隊みたいなとこやった」と苦笑い。上下関係にも作法にも厳しい。「やかんの口部分の方向が違うってだけで怒られてましたからね」。「でも今思えば、一人前に育ててやろうっていう親心からしつけてくれてたんやろなあって思います」。

入ったばかりの頃は主に雑用でもなんでもをみっちり。肝心の和菓子については「教えてくれる、というよりも見て覚えろ式」。仕事が終わってから覚えてる範囲で練習するも「当時は今みたいにYouTubeもないし、簡単に撮影もできないので、百貨店に走って(展示してある上生菓子)を見て、頭の中においといて、帰って絵にしたりメモして実際作って見てた」。絵心のない人間はこの時点でなす術をなくすだろう。もしくは能力者級の記憶力が必要となる。…過酷すぎる環境だ。現在ではインターネットがなんでも教えてくれる事を思うとggrks※ggrksとは「ググレカス」の略称、つまり「(人に質問する前に)それくらいGoogleで検索しろカス野郎」という意味のネットスラング。すら優しい言葉に聞こえる。

辞めたくなったことはないのかと尋ねると「常に辞めたかった」。とあっけらかん。「実際数回辞めるって言いに行ったこともある」。そんな通常運行で辞めたかったにも関わらず引き止められ、その間にも必死で試行錯誤し気づけば10年。洗い場から始まり、蒸し物焼き物と一通り修行を終えたある日、和菓子作りの最高峰上生菓子を作ってみろと告げられる。





10年の修行を終え和菓子の花形
上生菓の作成に抜擢

「ずっと見てきたし、できるんちゃうかって自信はあったけどやってみると全然うまいこといかなかった」。実際にやってみて感じる厳しさ。これまでの先輩の作品を写真に残したり、絵に残したりしていたファイルがあったのでそれを参考にしようとするが、これまでの先輩の作品とは違う、新しいものを作れという理由で没収されてしまう。

日本の長い歴史の中で培われてきた成果技法を用いて、四季や自然の情緒などを表現する和菓子。和菓子だけでなく花や季節についての知識も必要となる。これまでの仕事に加え「新しい和菓子」を毎月生み出さなくてはいけない。先月のものよりも良いものを、より新しいものを。想像を超えるプレッシャーが少しづつ積み重なり精神を蝕み始めていた。


このままどっか行ったれ!
限界を超えた暴走

上生菓子を任されるようになった30歳から3年を過ぎた頃遂。23歳で結婚、子ども授かり当時は小学校中学年。週休1日。常に新しい作品、常に締め切りという生活に追い詰められた精神はついに限界を超える。

「休みの前日、嫁と大喧嘩して」

「喧嘩の翌日、子どもは学校へ嫁は仕事に出かけ、自分は銀行に(お金を収める)予定があったので、銀行に向かって…銀行までは行ったんやけど…手元にお金もある、帰りたくない。このままどっか行ったろって…」。そのまま家族にも職場にも告げず一泊。もちろん翌日は無断欠勤。何もかも放り出したい気持ちではあるが、命を放り出す気持ちにはなれず働かねばという気持ちから求人用のフリーペーパーが目にとまる。新聞配達やコンビニの店員等が並ぶ中、和菓子職人募集の文字に目が止まった。


どうせなら和菓子がしたい
逃げ出したくなるほどに追い詰められていたにも関わらず、ずっと携わってきた和菓子の仕事が目に止まる。高島屋に支店のある和菓子屋の店長候補。
すぐに電話して履歴書を送ると、13年間も和菓子に携わってきたのであれば本社のほうに来ませんか?と声が掛かる。



聞き違いから金沢を訪れることに
「かな@;asiわに来ませんか?って言われて、神奈川か、今東京だから近い、明日行きます!って即答したけど再度聞き直したら石川県の金沢市で」。それまで石川県にも金沢市にも行ったこともなかった土地へ聞き間違いで訪れることになろうとはまさに運命の悪戯。初めて金沢駅に降り立った感想は「なんもないな」。「鼓門しかなかったけど、上生菓子で鼓門は作ろうと思った」。まだ面接前なのに既に作るものまで決めているあたり、常にモチーフを探し続けねばならなかった背景を感じさせる。観察眼鋭すぎ。花や景観をシマウマを狙うライオンみたいな目つきで見ていたんじゃないだろうか。不審者すぎる。

金沢、片町って
ええまちやなって
初めての土地で人に聞きながらもバスを乗り継ぎ面接会場である本社で面接を終える。「まだ合否を貰ってなかったけど、まあ、行けるだろうと。受かったら住む場所が必要だから部屋探そうと」。なんと合否をもらう前に住む所を探し出した。会社の近くで部屋探しをする中で金沢をウロウロ。「なんかちっちゃな飲み屋街が見えてきて、飲むのも好きやし立ち寄ったりして」。片町発見の瞬間である。※ほとんどの都道府県の繁華街が駅の近くに存在するが石川県の繁華街、片町は金沢駅から離れた場所に存在する。はそのまま4時間片町に滞在。「飲むのも好きだし、ちょっと歩いたら川(犀川)もある。なんかいいなと思ってそのまま近くの部屋を契約しました」。
まだ合否をもらってないのに部屋まで契約しちゃう強靭なメンタルすごい。

「金沢がなんぼのぼんじゃい」
無事採用をもらい家族を置いて単身で金沢へ。「家族を置いてきてるんで、しっかりここで結果を出そうと。奈良で13年間もやってたんで金沢なんぼのもんじゃいって意気込みだった」。半端ない意気込みも伝わってか「最初は関西弁のやつが来たなって遠巻きに興味持たれてる雰囲気で、正直いい気はしなかった」。しかしなんぼのもんじゃいなオーラ全開の人に気さくに話しかけるのは実際困難である。「けど話していくうちにどんどん距離が縮まって、あの店知ってる?あそこ行ったことある?とか情報を教えてくれるようになった」。最初は人見知りだけど打ち解けると途端に世話焼きになる石川県民の特性がわかるエピソードだ。

山も海もある自然の多い石川県で
子育てがしたかった

39歳になる頃には石川県にも職場にも慣れ、製造課長に抜擢。上生菓子や新商品の開発も任されるようになり生活も安定してきたタイミングで「家族を石川県に呼び出そうと。子どもも小学校6年生だったし、中学生になるタイミングがちょうどええなと」。「家族は大阪の方で生活してたけど、なんかグレたら嫌やなって」。これまでのエピソードから無断欠勤したり家を飛び出してみたり、お父さんもちょっぴりグレてる感は否めないが子どもがグレるのは断固拒否らしい。いやでも大阪で生活してるからグレるという発想はいささか乱暴。

「里山街道を車で走ったときに、目の前にバーっと海が広がってて感動して。山も海もあるこの自然の多い土地は子育ての環境にも良さそうやなって。スノボも好きやったし、ちょっと走ればスキー場もあるぞって子どもに石川の魅力をプレゼンしてたらすんなり石川県に来てくれた」。
「日本の道100選」にも選ばれた里山街道


石川県ってたい焼き屋少ないな
家族揃っての石川県生活がスタート。交通機関の不便さや、曇りの多い気候と慣れない生活を送ってる中での奥様の一言「石川県って、たい焼き屋少ないな」。たこ焼き、クレープ、たい焼きなど食べ歩きができるグルメが発展していた関西と比べて石川県は圧倒的にそういったものが少ないかった。「確かに、と思って。ないんやったら自分で作ってしまおうって」。すぐにたい焼きの鋳鉄(ちゅうてつ)
を購入し、和菓子屋に勤務しながらもタイ焼きの研究を始める。※ちなみにこの時購入した鋳鉄は本店に今も飾られている。「たい焼きの研究しながら自転車でいろんな物件を見て回った」。閃いてからはとことん早い。すぐに行動してみるという成功哲学を地でいっている。



和菓子✖️たい焼き
納得のたい焼きが完成すると共に、気に入った物件も見つかり2014年5月に一号店ともなる「たい焼き工房土九」をオープン。人気を呼び、一本でやっていこうと決意、程なくして務めていた会社を退社。副業が禁止なこともあり、密かにオープンさせていたつもりだったが、「辞めるという話を社長にしに行った時に、知ってるよ!と言われましたね」。副業に目を瞑りつつも継続して働いて欲しいという気持ちの表れだったに違いないが、新しいものに集中するスタイルの土本さんはそのまま退社。「たい焼き工房土九」に全力を注ぐ。

たい焼き工房 土九




石川県の特産物を使って
和菓子職人が作る鯛焼き

20年間携わって来た和菓子の知識と技術を活かし研究を重ねて生み出されたたい焼き。現在も尚研究を重ね進化しており、石川県を飛び出し全国ので物産展でも高評価を受けている背景には石川県の地元食材であるヤマト醤油や「いままで食べてきた塩のなかで一番美味い。いつか商売するならこれで勝負したい」と言わせた奥能登の天然塩である大谷塩を使用するなど地元食材を活かしたたい焼き作りがある。

投げ出そうとしつつ
持ち続けてきた和菓子の遺伝子

常に辞めたいと思いながらも辞めずに歩んできた和菓子の道。継続は力なりという言葉の通り、和菓子職人としての技術とセンス、が反映された「新しいたい焼き」が人気を呼び現在は4店舗にまで発展。今でも本店には自らが立つ。聞き違いから始めて石川の地を踏んだ土本さん。今では石川の食材を活かし全国へ発信している。

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