さいはての妖しい灯

繁華街スケッチ(3) 珠洲市の飯田町

きらびやかなネオン街は街の顔。新しい町で暮らすなら有名観光地より、仕事帰りの一杯のほうが気になる。そんな方のためにイシカワズカン記者が県内各地の繁華街に足を運び、写真つきで紹介する連載企画である。

【著者】東京の隣、山梨県甲府市出身。大学進学を機に金沢に転居し、紆余曲折あったものの石川県12年目となった。趣味は散歩と写真と、うまい酒とメシ。北陸新幹線開業後の観光ブームはうれしいが、大学時代の静かな金沢を思い出し、ちょっとブルーになることも。山国育ちだが、最近は寿司屋で何の切り身か当てられるようになった。

 

さいはての街という実感をくれたのは、のどかな景色よりも所要時間の長さだった。金沢から2時間半かけてたどり着いた能登半島最北端の珠洲市。今年初めての夏日を刻んだ太陽は、既に傾き始めていた。

珠洲は人口1.3万人の街である。本州で最も人口が少ない市となって久しいが、1950年代には4万人近い人が暮らしていた。意外にも山地が多い能登半島において、珠洲市の富山湾側(内浦)には平野が広がっていたためである。この平野の中央、若山川の河口に面して広がるのが、現在の珠洲市の中心になっている飯田町だ。

市役所の横の新しめの大通りの先は海である。大通りは商店街の中とか重要な国道上とかに作られるべきものだが、まっすぐ海へ伸びて、そこで終わるから驚いてしまう。終点はかつてフェリーが発着していた飯田港である。なるほど、このあたりの人々の感覚では道路も航路も変わらないのだ。奥能登沿岸の集落が自動車道で結ばれたのは昭和40年代だったというから、それまでは隣の村へ行くにも当たり前のように海を行ったのだろう。

飯田町の商店街は大通りを折れて始まる。まず料理店があり、美容室、青果、和菓子と、思いつくものが順に現れる。奇をてらうものはなにもない。本当に必要なものが必要なだけ揃っている。もっとも住人が全盛期の3分の1になった今では、このミニマリズムに一段と磨きがかかっている。

このあたりの鮮魚店の軒先には、必ず干物を作るネットが下がっている。赤黒い切り身が干からびていく様子を、カラスやネコがじっと眺めていることがある。人間のほうは目もくれず通り過ぎる。バス停前の店の、赤いベンチに手提げ袋が置き去りになっていた。忘れ物かと思ったら、店の中から女性ふたり楽しそうな声がする。バスで病院へ行った帰りに降り立って、そのまま店へ寄ったのだろう。

どうやら町の中心であるらしい飯田今町の交差点で、商店街は大きく枝分かれする。このまま海岸線に沿う道と、山へ向かっていく道がある。この山側が深い。
書店や玩具店を過ぎて、ます字型に折れ曲がるところに、浄土宗大運寺の立派なお堂があり、大通りに逆らって左の細道へ進むと、路地は妖しい空気をまとい始めた。夕刻でも目立つ原色のサインボードを掲げ、スナックが並び立っている。

能登地方の酒場は居酒屋やバーよりも、スナックが主流である。都会でスナックといえば社交場の印象があるが、当地では実にのどかなものである。ほとんどの店には当然のようにカラオケが置かれ、店員の気まぐれでうどんやカレーなど立派な食事が供される。窓がなく扉だけが目立ついかがわしい外見だが、中へ入れば実家のようなアトモスフィアに安堵する。酔って暴れるなどよほどのことがなければ、一見客でも嫌がられることはないといえるだろう。

ヘルメットの中学生がふたり、自転車で通り過ぎた。午後5時を知らせる「夕焼け小焼け」が流れると、スナックのたった1枚のドアから、濡れたカラスのようなドレスのマダムがほうきを持って飛び出してきた。続いて寿司屋の重たそうな引き戸が開き、のれんを掲げるカコンという音がししおどしのように響いた。

さいはての街がゆっくりと目を覚ます。名物芋菓子を売る店の電気が消え、暗くなった表通りを、高校生を満載した路線バスが走り去った。

名称 飯田町
所在地 珠洲市飯田町
駐車場 ショッピングプラザシーサイド、ラポルトすず、飯田港など多数