奥能登先端の道しるべ

禄剛埼灯台

日本海に130キロにわたって伸びる能登半島。その先端部をまとめて珠洲岬(すずみさき)と呼ぶが、中でも禄剛崎(ろっこうさき)沖は海運の要衝である。
周囲には千畳敷(せんじょうじき)と呼ばれる浅い岩礁が広がっており、江戸時代の北前船の船頭の間でも座礁の危険がある難所として知られていた。このため現在灯台が建つ断崖の上では狼煙(のろし)が焚かれていたという。次第に周囲は狼煙と呼ばれるようになり、現在でも珠洲市狼煙町という地名として残っている。

 

英国設計、日本仕上げ


禄剛埼灯台は1883(明治16)年に点灯した、日本でも有数の古い灯台である。危険な航路の助けとして英国人技師リチャード・ヘンリー・ブラントンが設計した。ブラントンは明治期に約40基の灯台施設を設計し、日本の西洋式灯台の父とも呼ばれている人物である。塔の下に半円形の管理区画がくっついた愛らしい外観が特徴で、同様の形を持つ灯台はファンの間で「ブラントン灯台」と呼ばれている。
ブラントンが設計した灯台の多くはそのまま外国人が工事にあたったが、禄剛崎灯台は日本人だけで施工した初の灯台であると言われている。英国との合作もユニークだが、日本の技術の足跡にもなっているのだ。

灯台には菊の御紋がついた点灯記念のプレートが掲げられている。灯台のバルコニーを支える部材にも菊の花がかたどられており、外国人の設計の中にも日本らしさをアピールしようという気概が感じられる。施設内に菊紋を掲げた灯台は日本で唯一だが、当時の経緯などは詳しくわかっていないようだ。日本人だけで竣工したという記念なのだろうか。

 

富山湾の入口示す

 

塔の高さはわずか12メートルだが、断崖の上に建つため海面からは48メートルもの高さを誇っている。周囲には長らく官舎が立ち並び、住み込みで灯台の管理が行われていたが1963(昭和38)年に無人化された。現在は広い敷地にわずかに建物の土台などの痕跡が残っている。珠洲岬の約70キロ南には、アルミや鉄など重工業が盛んな富山市があり、禄剛埼灯台は日本海を進んできた船が富山湾に向かうための進路変更の目印(変針点)である。3秒おきに点灯と消灯を繰り返し、条件が良ければ19海里(約35キロメートル)先まで光が届く。


ところで、地名としての禄剛崎は「崎」なのに対して、禄剛埼灯台は「埼」を使う。実は崎は陸地が海に張り出した部分、埼は海から見て突き出した陸地を指す字だ。このため地形図では「崎」、海図では「埼」が用いられている。地形図と海図はそれぞれ国土地理院、海上保安庁が発行しているが、両者の前身は陸軍陸地測量部、海軍水路部。何かと折り合いが悪かった陸軍と海軍の対立が現代まで尾を引いているというのも興味深いのではないだろうか。

名称 禄剛埼灯台
所在地 珠洲市狼煙町