城主移れど築城やまず
金沢城公園(金沢市)城主移れど築城やまず
金沢城公園(金沢市)
金沢の市内地図を開いてまず目につくのは、街の真ん中に大きく描かれた公園地帯だろう。その主要部となる金沢城公園は約30ヘクタールの広さをもっている。東京ドームが6個半入る大きさだから、プロ野球の全試合を同時開催できるほどの広大さである。120万石を誇った城下町のシンボルであるが、隣の兼六園に比べると目立った建物もなく、観光客にとっては少し退屈な印象を受けるかもしれない。
金沢城は戦国時代の1546年、一向宗門徒によって開かれた尾山御坊(ごぼう)がはじまりだ。一向一揆によって「百姓の持ちたる国」となった金沢に拠点を置き、北陸一帯で一揆を推し進めた。
尾山と言えばこちらも金沢城に隣接する尾山神社を思い浮かべた人も多いだろう。金沢の街は犀川と浅野川によって細長く削られた台地上に広がっており、この台地が動物の尾のように見えることから尾山と呼ばれるようになったのである。尾山神社だけでなく、金沢城にも尾山城という別称があり、今でも年配の人は中心部へ出かけることを「尾山へ行く」と言うことも多い。
教科書ではおなじみの加賀国一向一揆は、やがて本拠地である石山本願寺の降伏によって収束。1580年に織田家の家臣である佐久間盛政が尾山御坊を攻め落として金沢城と命名すると、そのまま最初の城主になって築城がはじめられた。3年後には賤ヶ岳合戦で武勲を立てた前田利家が入城。利家が入城した6月14日は城下町金沢の幕開けとされており、6月初旬に開かれる百万石祭りでは利家入城を再現した武者行列が恒例行事になっている。
前田家14代の居城として300年にわたって整備が続けられたが、天守閣は1602年に落雷で焼失した。謀反を疑う幕府の目も厳しかったことから、再建されることなく現在に至っている。
明治時代に入ると、廃藩置県によって金沢城は城としての役目を終えた。最後の城主だった14代前田慶寧も1871(明治4)年に藩主の任を解かれて東京へ転居し、多くの元サムライが去った金沢は静まり返った。
しかしそれもつかの間、1898(明治31)年には陸軍第9師団が金沢に新設され城内に師団司令部が置かれた。北陸三県から数万人の兵士が集められ、街ににぎわいが帰ってきた。第9師団は日露戦争で旅順攻囲戦、奉天会戦などに参戦する。金沢も重要な軍都として大きな成長を遂げることになった。陸軍の名残は移築された旧師団司令部庁舎、旧偕行社(ともに現国立工芸館)や、武器庫(現県立歴史博物館)、城内に残るレンガ積みのトンネルなどに今も見ることができる。
第二次大戦後、陸軍が解体されると多くの関係者は故郷へ戻っていった。空襲を受けなかった金沢は大陸からの引揚げ者で騒がしくなったが、都市部の復興が進んだことで次第に落ち着きを取り戻した。2度目の城主不在となった金沢城だが、次にやってきたのはなんと大学だった。
1949(昭和24)年、 旧制金沢医科大学、第四高等学校(現いしかわ四高記念文化交流館)、金沢高等師範学校などが母体となった国立金沢大学が設置され、金沢城内にキャンパスが開かれた。その名もずばり丸の内キャンパスと呼ばれ、世界には2例しかない「お城の中の大学」として1994(平成6)年まで多くの学生、研究者に親しまれた。当時の建物は全て解体されたが、黒門前の公衆電話は今でも所在地が「金大くろもん前」となっており当時を偲ぶことができる。
金沢大学の移転後、江戸時代から現存する重要文化財の石川門や三十間長屋、鶴丸倉庫の修復とあわせ、多くの城内建物の復元が行われる。特に大きなものは2015(平成27)年の玉泉院丸庭園、そして2020年の鼠多門(ねずみたもん)の再建である。玉泉院丸庭園は兼六園よりも古くから整備されていた城内庭園で、城の石垣を借景とする全国に例を見ない庭園である。これに隣接する鼠多門は尾山神社との間にかかる橋とともによみがえり、香林坊から城内を通って兼六園まで通づる徒歩経路「加賀百万石回遊ルート」が完成した。
焼失した天守に代わって藩主が居住していた二の丸御殿も、2021年から復元に向けた整備事業がスタートした。これまで門や倉庫が多かった城内に、いよいよ大名の居住空間が再現されることになり、ますます見どころが増えそうである。築城から460年あまりの金沢城だが、現在もなお築城が続いていると言えるだろう。
(写真提供)金沢市
名称 | 金沢城公園 |
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開園時間 | 3月1日~10月15日7:00~18:00 、10月16日~2月末日 8:00~17:00 令和3年度は、毎日21時までライトアップ(夜間開園)を開催、外周部の石垣ライトアップは毎日22時まで |
ウェブページ | http://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/ |