細道に歴史の広がり
主計町茶屋街(金沢市)細道に歴史の広がり
主計町茶屋街(金沢市)
主計町(かずえまち)をすんなり読める人は非常に少ないと思われる。
かずえ、という発音から想像がつくかもしれないが、主計には「かぞえ」るという意味がある。
奈良時代に税の計算など担当した主計寮(かずえのつかさ)という役職がもとになっていて、現代でも国家予算の編成を行うのは財務省の主計局(しゅけいきょく)である。
ところで金沢の主計町は、ひがし、にしに並ぶ金沢三茶屋街のひとつとして知られている。茶屋や料亭が居並ぶこの場所で、かつてお金の計算が行われていたのだろうか。答えはノーである。
主計町の由来は、16世紀末に加賀藩の重臣だった富田主計(とだかずえ)の上屋敷があったことが由来であるとされている。富田は加賀藩の政治の中心にあった人持組頭のひとりで、妻に前田利家公の孫を迎えるほどの重要人物であり、1618年に没した。当時より対岸のひがし茶屋街と合わせて花街として栄えており、昭和初期のピークには50軒近くの茶屋が営業していた華やかな街である。現在の繁華街は金沢城を越えた香林坊・片町へ移ってしまったが、江戸時代から長らく金沢の中心街であった。
主計町を歩くと、どの建物も木製の細かい格子窓が付けられており、内部を見通せないようになっている。この格子窓はひがし、にしの茶屋街でも見られる木虫籠(きむすこ)と呼ばれる伝統様式である。まさに虫かごのように整った外装は街並みに統一感を与えている。浅野川沿いの細い土地に広がる主計町は、他の茶屋街に比べて道幅が狭く、川沿いの通りでも軽自動車1台がやっと。路地へ入れば人がすれ違うのもギリギリの細い路地が伸びている。狭い地域なので道に迷うことはなさそうだが、一度横道へ入ってしまうと、まるで迷路のように幻想的な雰囲気に包まれる。現在でも茶屋が営業しているため、夕方になると曲がり角から髷を結った白い顔の芸姑さんがヌッと出てきて、驚くこともしばしば。川沿いの並木道は全てサクラであり、毎年4月中旬には路地裏まで一面ピンク色に染まる名所でもある。
観光ガイド的な紹介はこれまでにして、今度は主計町の少しニッチなところに注目したい。
浅野川大橋のたもとから主計町に入ると、まず目につくのが「今越清三朗爺出世の地」と刻まれた石碑だ。彼は明治末期、日露戦争で旅順攻囲戦を指揮し一躍国民のヒーローとなった乃木希典陸軍大将にゆかりのある人物なのである。
今越清三朗は1883(明治16)年、主計町に生まれたが早くに父を亡くしたため、子供の頃から飴売りなどのアルバイトをしながら必死に家計を支えていた。彼が売っていたのは飴の中に占いの紙が包まれた「辻占(つじうら)」で、今でも金沢の正月菓子として親しまれている。彼が一躍有名になったのは8歳のとき、金沢を視察した乃木(当時は少将)と路上で出会ったことがきっかけだ。乃木は幼くして家計を支える清三朗に感動し、当時大金である2円を懐から取り出すと「立派になりなさい」と言いながら手渡したという。励まされた清三朗はのちに金箔職人として修行を積み、有名職人として大成する。一連のやりとりは勇ましさと人情を兼ね備えた乃木大将らしいエピソードとして伝わり、清三朗は「辻占売の少年」「乃木将軍と辻占売り」として落語や講談、唱歌の題材になったのである。現在では知る人の少なくなったエピソードであるが、東京の旧乃木邸には乃木に頭を撫でられる清三朗の様子が銅像になって置かれているようだ。
武士と軍人、庶民の生活が交錯していた主計町。道幅は狭くとも、歴史の広がりを感じられる場所ではないだろうか。
(写真提供)金沢市