落ち着きある、もうひとつの茶屋街
にし茶屋街(金沢市)落ち着きある、もうひとつの茶屋街
にし茶屋街(金沢市)
城下町を抜けて浅野川沿いにあるのがひがし、主計町茶屋街。犀川を渡ったところにあるのがにし茶屋街である。文字通り金沢の東西の河原に対になるようにして、三茶屋街はある。しかしにしは、ひがしに比べてかなり落ち着いた印象をうけるだろう。
現在のにし茶屋街は主に1本の通りからなる。茶屋街と呼べそうなのは100メートルほどで、その先は普通の住宅街を通って北陸鉄道の野町駅へ至っている。横道もないためこの通りを1往復して去っていく観光客も多い。誤解を招くようだが、決して見どころが少ないというわけではない。にし茶屋街はもちろん芸妓さんの控える茶屋があり、昼は和菓子など飲食ができる店も開いている。ただひがし茶屋街のように、間口の広い土産物屋や、観光客の声が通りまで聞こえる賑やかな店はない。いつ来ても看板は控えめで呼び込みもなく、ひそやかにのれんを揺らしているだけなのである。
しかし茶屋街というのは、本来、夕方からが本領である。金沢市によると、にし茶屋街には5軒の茶屋があるが在籍する芸妓は三茶屋街の中で最多なのである。昼のお店が増えたひがし茶屋街に比べて、にし茶屋街にはまだ夜の街らしさが色濃く残っていると考えれば、この慎ましさにも納得がいくだろう。この夜の街らしさというのは、犀川の対岸にある現代の繁華街片町の陽気な風も受け止めるだけの覚悟を印象付ける。さらに付け加えるならば、かつては片町をも凌ぐホットな一角だったことさえあるのだ。
にし茶屋街の終端、レトロな青い建物の西検番事務所を右手に曲がり緩やかな坂を下ると、藩政期に作られた泉(いずみ)用水沿いの道に行き当たる。用水を渡る小さな橋の先は閑静な住宅地のようだが、よく見ると建物はまだにし茶屋街のような町家づくり。特徴的な格子窓「木虫籠(きむすこ)」の街並みがまだ続いているのである。ここはかつて「きた」と呼ばれ、知られざるもう一つの茶屋街だったのだ。
ひがし、にしは金沢城から見た方角が付けられているのは前述の通り。では、にしの隣に「きた」があったというのはおかしい。実はかつてきた茶屋街は名前の通り城下の北側に所在していた。現在の近江町市場のすぐ近くにあたる。きたも三茶屋街とともに幕末まで栄えたが、明治時代に入ると買い物客の多い市場の近くに茶屋街があることが問題視されるようになり、一帯の店はにし茶屋街の隣に集団移転させられたのである。
さて、茶屋街のことを遊郭と呼ぶこともある。茶屋街と聞けば芸妓の奏でる小唄や三味線に「一見さんお断り」の文句が掲げられる一流の接待の場所を想像するだろう。事実、現在残る三茶屋街は今でも地元企業の経営者が集う社交場として重要な機能を果たしている。ではきたはどうだったのか。これは移転を迫られたことからもわかるが、実態は庶民向けの淫猥な遊郭だったのである。古くから密接な接待を行う店の従業員は芸娼や遊女と呼ばれており、現在まで残っている芸妓の仕事内容とは完全に別もの。きたはこの芸娼、遊女が中心の街だったのだ。
きた茶屋街は移転後も順調に繁栄を続け第二次大戦も乗り切った。しかし売買春に対する警察の取締も厳しくなり、次第にスナックや料亭に業態転換する店が増えた。石坂一帯にはまだ茶屋建築を残す建物も多く一部は喫茶店などに改修されている。タイルで飾られた立派な玄関や、たたきからまっすぐ2階へ続く幅広の階段などに遊郭の面影をしのぶことができるだろう。
再びにし茶屋街の表通りへ戻る。先程も紹介した西検番事務所の駐車場を挟んで隣に「西茶屋資料館」がある。かつての茶屋跡に整備された建物で、入口には金沢市の観光ボランティアガイド「まいどさん」が常駐しており観光案内所としても便利である。建物2階には茶屋そのままのお座敷が再現されており、芸妓こそいないものの気軽に上客気分を味わうことができる穴場でもある。そして1階に並ぶのは、にし茶屋街で育った明治時代の小説家島田清次郎、通称島清(しませい)の展示である。
島田清次郎は明治末期の1899(明治32)年生まれで、にし茶屋街で茶屋を営む母の実家で育った。地元の秀才で金沢市内の中学校に入るも紆余曲折あり退学。新聞記者や公務員などさまざまな職を転々としながら執筆活動に目覚め、1918(大正7)年発表の自伝的作品「地上」で文壇に躍り出る。その才能は芥川龍之介や菊池寛からも高く評価されるほどだったが、ファンレターを寄せた女学生とのスキャンダルが発覚して凋落。晩年は精神病と結核に苦しみ、1930(昭和5)年に31歳の若さでこの世を去った。
島田清次郎は幼少期から茶屋の客や芸妓を観察し、愛憎織り交ぜた人間模様を小説の題材にしたほか、当時の遊郭の劣悪な環境は、彼が社会主義運動に参加する動機も生み出した。決して明るいとはいえない人生だが、にし茶屋街は彼の出発地であり創作の原点になった場所である。
一見すれば落ち着いて見える現存最大の茶屋街「にし」。対岸のネオン街の熱気と「きた」の残り香が混ざる路地を歩き、悲運の文人について思い巡らせれば、またひとつ、金沢のもつ奥深さに気付くことができるだろう。
(写真提供)金沢市