ネオンの街に不屈の心意気

犀川大橋(金沢市)

 

金沢城下、西のゲート

 

金沢の旧市街地は西に犀川、東に浅野川が流れる細長い台地の上に形成されている。
城下町にやってくる人はこの2本の川のどちらかを必ず渡ることになる。

犀川大橋は江戸時代初期に加賀藩祖前田利家公の命で架けられた木造橋が始まりとされている。国道8号線やJR北陸本線のルーツになった大動脈「北国(ほっこく)街道」の要衝であり、金沢の西玄関として多くの旅人の記憶に刻まれたことであろう。一方で「おとこがわ」とも呼ばれる犀川の雄々しい流れは橋をたびたび押し流し、架け直しが繰り返された。

1898(明治31)年に架けられた最後の木造橋は路面電車の郊外延伸にあたって役目を終え、1919(大正8)年、ついに鉄筋コンクリートの永久橋に生まれ変わった。桁をアーチ状の梁で支える最先端の仏アンネビック式構造を取り入れ、鉄筋には頑丈な米国製を採用。これまでの木橋とはまさに桁違いの強度を誇った。

犀川大橋の開通後、同じく木造だった浅野川大橋の架け替えも始まり、ついに城下の東西は近代的なコンクリート橋でがっちり固められることに


……ならなかった。

 

エリート設計者の再挑戦

 

1922(大正11)年8月3日、金沢市内は未曾有の大雨に見舞われた。

現在の地方気象台にあたる金沢測候所では開設以来例を見ない雨量が記録され、犀川、浅野川では多くの橋が流失。市内の至る所が水に漬かり2万人が被災する大災害となった。

 

頑丈さが売りの犀川大橋は上流からの土砂やがれきを辛うじて押し留めていたが、乱流で川底が削られたことで橋脚が陥没し、橋の中央部から水中に沈んでいった。完成からわずか3年、衝撃的な結末であった。

落橋を目の当たりにした県や国の役人は、もう二度と流されない橋を作ろうと決意する。再建にあたって招かれたのは、帝国大学卒で米国の建設会社で学んだ当代一のエリート設計者関場茂樹(せきばしげき)だった。彼は日本における鋼橋の先駆者だった。

水害では川の中に建てた6本の橋脚が流木や土砂をせき止め、崩落の原因をつくった。そこで、関場は橋脚を持たず両岸から桁を支える構造を提案。彼が設計したのは三角の鉄骨を組み合わせるワーレントラス式の橋であった。大雨の翌月に起こった関東大震災の復興作業で、国内の資材が不足しており、鋼材は英国から丈夫なものを取り寄せることになった。

被災から2年後の1924年、ついに現在まで残る2代目の永久橋が完成した。のちに関場の代表作と称されることになる新たな橋には、当時の県知事による金箔塗りの扁額が誇らしげに飾られ、完成当時の喜びを今に伝えるものとなっている。

 

酔客の夢にも架かる橋

 

犀川大橋を抜けていた国道8号線は、1972(昭和47)年の金沢バイパス開通で郊外に迂回するようになり、橋の交通量は減った。これに先んじて路面電車が1967(昭和42)年に廃止されており、現在は架線を支えていた梁だけが残されている。

しかし北陸最大の歓楽街である香林坊、片町と、郊外をつなぐ橋の役割は依然大きく、現在でも1日に3万5千台の自動車が通過する。一時期は運転中でも揺れを感じると言われるほど老朽化が進んだが、2021年までに多くの改良工事が施され、現在では架橋当時の頑丈さを取り戻している。朝は通勤通学のバスや自転車が絶えることなく行き交い、夜は酔客が欄干にもたれて夢を見る。橋上は春なら桜の咲き乱れる河川敷、冬ならば雪をかぶった白山に圧倒されるだろう。金沢の風景に寄り添う犀川大橋は市民のみならず、観光客にも長年愛され続けている。

まもなく100周年を迎える犀川大橋。片町やにし茶屋街へ出かけるときは、不屈の歴史に思いを馳せてみるのもいいだろう。

 

名称 犀川大橋
所在地 (東岸)金沢市片町1丁目、同2丁目(西岸)金沢市千日町、野町1丁目
竣工 1924(大正13)年7月
形式 下路式単純曲弦ワーレントラス橋
橋長 62.308メートル
幅員 21.669~23.669メートル