サムライ気分になれる道
長町武家屋敷跡(金沢市)サムライ気分になれる道
長町武家屋敷跡(金沢市)
北陸最大の繁華街として知られる片町は、かつて犀川支流の小川沿いに店が並んでいたことに由来するという。川のせいで道路の片側にしか建物がないので「片町」というわけだ。では、長町武家屋敷跡のある長町は、その名からして細長い町なのだろうか。実は地図を見ると「長町」は角の丸い三角形の町域で、特に細長くはない。
一般的によく知られる長町の由来は、町域内を東西に並行して走る8本の道にまつわるものだ。
かつては、それぞれの道の両側をひとつの「丁」として、順に一番丁から八番丁と呼んでいた。一番丁通りは金沢東急スクエアから金沢市老舗記念館へ抜ける道、現在知られる長町武家屋敷跡は二番丁通りである。この呼称は今でも住民に根付いており、道路標識で「長町三番丁通り」などと案内されるほか、交差する大野庄用水には通りの名と同じナンバーを冠する「長町四の橋」などが順に並んで架けられている(なお七番丁通りに架かる橋のみ「大野橋」と呼ばれている)。
これら8本の道路にそれぞれ細長く家々が連なっていたので「長町」と呼ばれるようになった、と説明すれば多くの人は納得するに違いない。
しかし、実は町名の由来についてもうひとつ、あまり知られていない話がある。それは武家屋敷跡のイメージにもピッタリの、ある武家の名を元にしたとする説だ。
その武家とは「長家(ちょうけ)」である。
長町武家屋敷跡を抜けて大野庄用水を下ると、長町を出て、北隣の玉川町に入る。
加賀藩には加賀八家(はっか)と呼ばれる8つの名家があり、それぞれの当主が藩主の前田家と協調して政治を動かしていた。長家もそのひとつで、能登の穴水(現穴水町)から頭角を現し、現在金沢市立玉川図書館がある場所に広大な屋敷を構えていた。つまり長家が住まう町だから長町と呼ぶようになった、とする説である。
ただ、この説は玉川町が長町から離れていることや、近くに屋敷を構えた武家が複数あるなか長家の名を冠したことなどに不自然な点が多く、後代の創作ではないかとする研究者もいる。しかしこの玉川町に長家の屋敷が存在していたのは紛れもない事実で、明治時代までは建物もあった。さらに長家の出身地にちなんで玉川町の一帯を「穴水町」と呼んでいた時期もあり、こちらは現在も公園の名前として残っているほどである。
結局、長町の由来についてはっきりとした答えはわからない。名だたる武家が由来だとしたらまさしく武家屋敷のイメージ通りだが、歴史はそれほど単純ではなさそうだ。
話を武家屋敷跡に戻そう。
現在の武家屋敷跡と聞いて思い浮かぶのは、屋敷そのものよりも、あの特徴的な土塀の連なる光景ではないだろうか。
特に冬場、塀にわらが巻かれた様子を思い浮かべる人も多いだろう。あの「わら」のことを薦(こも)と呼ぶ。
土塀の壁面は麦わらと土を混ぜ合わせて塗り込める、現代で言うセメントのような素材でできている。耐火性能に優れており、木造建築が主流だった時代に家や財産を守る必須の設備として重宝されていた。
しかし、土塀は湿度と温度に弱い。そして金沢は雪国である。積もった雪から水分が塀に染み込み、陽射しで温められて蒸発するのを繰り返していては、たちまちひび割れだらけになってしまうのだ。薦は雪が直接触れるのを防ぎ、土塀を長持ちさせる効果がある。例年12月初旬に町内総出で取り付けが行われ、雪が止む3月初旬に片付けられている。モルタルやコンクリートで塀を作り直すことも可能な時代だが、伝統的な土塀に薦を掛ける営みは絶えることなく続いている。ここではかつてのサムライと全く同じ景色を見ることができるのである。
冬場はすっきりしない天気の金沢だが、長町では握った傘を刀に見立てサムライ気分で胸を張って歩くのも悪くないだろう。
ただ、間違っても通行人に当てぬように。傘での「辻切り」はシャレにならない。