石川県に移住をしてきた先輩移住者にお話を伺い、仕事や暮らしのホンネを聞くイシカワズカン。今回は石川県生まれ東京の大学に進学・就職を経てUターン。石川県と東京を繋ぐ架け橋となった宮田昌子さんにお話を伺いました。
夢も趣味もなかった女の子が
東京と金沢の架け橋になるまで
「小さい頃から趣味とか、キラキラした夢とかを持ったことがなくて…そのままなんとなく高校卒業まで金沢で過ごしました」。
キラキラしたものに憧れがちでと笑う宮田昌子さん。
石川県金沢市に生まれ、地元の進学校を卒業。
地元金沢で一年浪人をし、東京の大学に進学。
言わずもがなここも有名な大学である。
美人で秀才…もうこの時点で天は二物も三物も与えてしまっている。
もうこの時点で既にキラキライフを送ってるように感じるが
昌子さん自身はその輝きに気がついていないらしい。
石川県を離れ初めての一人暮らし
何もかも新鮮で刺激的な毎日。
「この頃は東京の生活がめちゃくちゃ楽しくて
金沢に帰ろうとは思ってなかったですね」。
採用の決め手はウィンドウショッピング
大学在学中も相変わらず趣味もできないし、お金もない。
「雑貨屋巡りをしたり、新しい商業施設ができたと聞けば行ってましたね。お金がなかったから見るだけ!」しかしそのウィンドウショッピングが就職採用の決め手に。
「履歴書の趣味の欄にかけるものが何もなくて…『ウィンドウショッピング』って書いたら拾ってもらえました」。
就職後採用の決め手を聞いたところ『売り場をよくみている』と言う点がプラスに働いたのだという。
高校、大学と名門校を卒業後大手ファッションビルを運営する企業に就職。
エリートコースを闊歩している。
総合職募集で入社し、最初は「戦略スタッフ」として奮闘。
入社当時、会社は店舗を全国展開させていくという方針があったので、「いつかは故郷である石川県にも…!」と強い思いを持っていました。
離れてみて初めて感じる金沢の魅力
東京は全国から人の集まる場所。
当然のことながら故郷である石川県金沢市を
知る人があまりにも少なくカルチャーショックを受ける。
「金沢って言っても横浜市の金沢区と勘違いされたり」。
「みんなは故郷のいいところを知ってるけど、自分は金沢のことをそんなに知らないなぁと思った」。
ある時、友人を金沢に招待し兼六園や加賀温泉等、
石川県金沢市の観光地巡りを決行。
『和菓子美味しいね』とか『空気がキレイ』
喜んでくれる友人たちの姿を見て、
改めて故郷の魅力について考えるようになる。
お土産屋さんに並ぶ可愛い小物達。美味しい食べ物。
この時初めて東京に向けて石川県の魅力を発信しようと思い立つ。
「離れてみて初めてあなたの魅力を感じたの….!!」
ヨリを戻すカップルってこんな感じなんだろうか。
東京から金沢の魅力を発信したい!
金沢で直にその魅力を再確認。
実はそれ以前にも昌子さんが影響を受けていたものがある。
石川県金沢市を代表する酒造『福光屋』東京玉川店で開催している企画展『オトメの金沢』。店頭に並ぶ金沢生まれの工芸品や雑貨、美味しい食べ物。金沢を知らない人に金沢の魅力を伝えるディスプレイ。初めて見た時から衝撃を受け、そこからもっと具体的に東京から金沢の魅力を発信できるのではと感じるようになっていた。
金沢旅行から東京に戻ったあと、ちょうど新規事業コンクール募集が会社であり、
すぐ『金沢の可愛い小物』を集めた物産展をファッションビル内で出来ないかという提案を申出、
資料を作りプレゼンをするも結果不採用。
「通らなかったんですが、一人であれこれ準備をしている時間がとても楽しくてすごくやりがいを感じた」と話す昌子さん。
もちろんキラキラしている。
存在も経歴もキラキラしている昌子さんだが
東京から金沢の魅力を発信するにはどうしたらいいのか。
東京と金沢を繋ぐにはどうしたらいいのか。
答えが出ず、モヤモヤとした気持ちを抱える時間が増えたという。
楽しい毎日を過ごす反面、やりたい事をどうしてカタチにしていいか分からず、このまま過ごしていいのかな漠然とした不安を抱くようになる。
運命の大震災
2011年3月11日14時46分。
戦後最大の自然災害となる東日本大震災が発生。
「ちょうどお休みで家に居て。私が暮らしている場所はそんなに揺れたわけじゃなかったんですけど」。
無慈悲な災害に心を痛めながらも
「人生がこうやって終わる事もあるんだな、それならやりたいことの為に動いてみよう」と決意。その日の夜には金沢での求人を探し、10月には金沢に帰省している。
金沢のことをもっと広げたい。
金沢での職探し基準になったのは『金沢らしさ』。
旅館、和菓子、金箔等金沢らしさを持った会社を探し
希望通り石川県を代表する会社芝寿しに入社。
「当時28歳未婚、約10年もの間金沢を離れているし、特別な技術も持っていない自分を受け入れてくれる会社があるのか不安だった」。
と話す昌子さんももちろんキラキラしている。
こんなキラキラした人を不採用にする会社などあるのだろうか。
あるとしたら多分『キラキラしすぎて当社には眩しすぎる』という理由以外見当たらない。
芝寿しといえば笹寿し。
笹寿しといえば芝寿し。
芝寿しは金沢の郷土料理の「押し寿し」からスタートし
笹寿しを看板商品として昭和33年に創業した老舗。
金沢では笹寿しはお祭りなどのハレの日に振舞われるちょっとしたご馳走。
鮭・鯛・鯖などが定番だが
一番人気は絶対的に鮭。最終的には取り合いになるので
笹寿し初心者さんは川を上る鮭をとる熊くらいの強い気持ちで
序盤から鮭を確保しておくべきと言える。
遠慮してると真っ先に無くなってしまうのが鮭である。
老舗ブランドを同世代に知って欲しい
「同世代の方にもっと芝寿しを知ってほしい」そう昌子さんが伝え続けことで
会社は新しいプロジェクトの担当者に昌子さんを抜擢した。
店舗をリニューアルし、気軽にお子様を連れてランチに来れる場所作りや
新ブランドとして身体も心も元気になるお弁当開発の立ち上げに奔走していた。
石川県民なら誰もが知る「芝寿し」というブランドは
誰もが知っていながらそれは5,60代の父母世代に強く
古き良きハレの日の仕出し弁当、特別な日のご馳走のイメージ。
ターゲットを3,40代の女性に広げるにあたり
そのイメージにも変化が必要だった。
日常的に食べられてヘルシーであること。
お弁当そのものだけでなく
売り場もカジュアルで気軽に入れて
子ども連れのお母さんたちがくつろげるように。
学生の頃から様々な売り場を見てきた昌子さん。
『ウィンドウショッピング』がここでも活きてくる。
社員の意見を受け入れ挑戦させてくれる社風のおかげもあり
のびのびと発言ができ、チームで目標に向けて動けたという。
「自分が言ったからカタチになったわけじゃなく、
ひとつの意見として取り入れてもらえる部分もあり、
そこをみんなでカタチにしていく感じ」。
そうして誕生したのが古き良き伝統も
蓋をあけると笑顔になれる金沢らしい華やかさも残しつつ
毎日食べてもお財布にも身体にもヘルシーなお弁当たちと
子ども連れでも気兼ねなく過ごすように改装された売り場である。
取材で伺った『保古ほっこりテラス』
※元々は芝寿しの工場及び店舗保古店。もそのひとつ。
明るく開放的な店内と隣接された雑貨屋さん。
天気のいい日にはテラスで日向ぼっこも出来る。
伝え続けることで実現する
「伝えること」を大切にしてきた昌子さんに
もうひとつ奇跡が舞い込む。
なんと勤務していたファッションビルから芝寿しにイベント出店してみないかという連絡だった。「たまたま当時の上司にあたる方が、自分が金沢を広めたいと話していたことを思い出してくれて」。
誰かの記憶に残るというのは簡単なことではない。
これも昌子さんが伝え続けてきたからそ。
これがきっかけで芝寿しの東京での新たな販路となる初出店が決まる。
数年ぶりにファッションビルに訪れ久方ぶりの同期との再会。
「ほんの少ししか会えなかったんですけど『ずっと金沢のことを広げたい、金沢と東京をつなげたいって言ってたもんね。きっとその為に昌子は金沢に帰ったんだね』って言ってもらえたことが本当に嬉しくて」。
金沢を離れて金沢の良さを知り
東京で金沢の良さを伝えようと奮闘し
金沢に戻り文字通り橋渡しをカタチにした昌子さん。
その時々では繋がっていない点だったとしても
今、その点は強固な線になり周囲と力を合わせることで
しっかりとした橋となった。
その原点には伝え続け、
行動をし続けたという弛まぬ努力があったからこそである。
写真撮影:©IMGRAPH