実際に石川県へ移住し、事業を営んでいるのはどんな人なんだろう。そんな読者の疑問を解決するために、記者が移住の先輩へインタビューに伺う。今回は知り合いもいない場所へ移住しながらも、垣根なく人が集まり、コミュニティのような暖かい空間を作り出し続ける人気のお店のシェフにその秘訣を尋ねた。　

金沢市最大の繁華街片町から犀川へ向かう途中に、白壁にグラフィックが映える素敵な飲食店がある。思わず立ち寄ると、厨房で鍋を振るうのは黒エプロンを着こなす陽気な男性。金沢に移住した横浜市出身の谷村真一朗さん（39）だ。経歴を尋ねると「実はこれまで23職種で働いたんですよ」と想像もしない返答が。経験豊富な生き方を支える「こだわらないこだわり」を、ビールグラスを傾けつつ教えてもらった。

仕事は社会勉強　波乱の職歴

　店名は「Hitch Ark（ヒッチアーク）」といい、いきあたりばったりの旅を表すヒッチハイクと「箱舟」を組み合わせた造語だ。2013年春に開業するまで、谷村さんの人生はまさに波乱の旅路だった。

　横浜市の郊外で育った谷村さん。勉強は苦手で同級生は不良や暴走族ばかり。このままではまずいと奮起して高校卒業後に親の故郷北海道で酪農を経験。20歳で横浜に戻ると今度はスノーボードの専門学校に通いながら空間デザインに関わる仕事をしていた。さらに山梨県のリゾートホテルで接客を学んで、また北海道へ。札幌市のインドネシア雑貨店ではバイヤーを任され、バリ島にも駐在した。この他にもアルバイト経験は数しれず。働き詰めで辛そうにも聞こえるが「社会勉強だと思っていた」と本人は意外にも晴れやかだ。　

お店の中にはご飯が食べれるスペースと、雑貨が並ぶスペースが存在している。谷村さんのこれまでの人生を垣間見るような、居心地が良くて暖かい空間なのが特徴だ。

「尊敬していない」常連客に言うワケ

　料理の腕は27歳のとき札幌市の有名レストランで仕込まれた。芸能人が次々に来店する人気店で働くうちに、誰も知らない場所で自分の店を持つ考えが浮かぶ。開業計画を練っていた時期には妻の明香さんとの出会いもあった。北海道を去ることを決めていた谷村さんは「一緒に来るか別れるかを決めてほしい」と決意を伝え、結婚が決まり、移住というチャレンジに挑戦することとなった。金沢に来てからはスペイン料理店で働きながら資金を貯め、無借金で開業にこぎつけた。

　デザインや雑貨の知識を生かして内外装をDIYした店は、放送局主催のデザインコンテストで優勝するほどの出来栄え。しかし店のコンセプトを聞くと「何もこだわってないんです。」と意外な言葉が返ってきた。

　地元横浜市だけでなく、就職先でもさまざまな人間関係の苦しみを味わい、上下関係を作らないことに憧れがあった。店での接客は陽気で丁寧、軽妙なトークも楽しいが、相手が年配者や社長、政治家だとしても調子は変わらない。親しげなサービスを求めた常連客を「あなたを特別扱いしているわけじゃない」と諌めたこともあるという。こだわりを押し付けないことがフラットな関係を築くことに繋がったのだろうか。今では地元客も観光客も途絶えることがない。「本当は繁盛しない店にしたかったんですけどね」と谷村さんは大笑いした。

　そう言う谷村さんのもとには、人柄に惹かれたファンが友人や知人たちを連れてそれぞれの時間を過ごしに来る。谷村さんとの会話も魅力の一つだ。金沢市に移住を考える人がいれば、一度訪ねてみるに値する場所であることは、間違いない。

石川は海も山も町並みも最高

　谷村さんは移住するまで石川県を訪れたことがほとんどなく、県庁所在地が金沢市であることさえ知らなかったという。なぜ石川を選んだのだろうか。

　「高校生のころ一緒にお店をやろうと話していた友達がイシカワ君だったのを思い出したんですよ」。なんとも不思議な理由だが、谷村さんには天啓だった。実際に来てみると戦災にあわなかった金沢の町や、雄大な白山の山並みに感動したという。日本海もすっかり庭となり、店を閉めた早朝に釣りを楽しむのが日課になっている。時間や収入に追われることが嫌いだったため、現在の生活は「ローコストで生活しやすく、遊び場もたくさんあって最高」とうれしそうだ。

　波乱の経歴をたどり金沢に行き着いた谷村さん。自ら考え出した「こだわらない」姿勢は、これから移住を考える人への大きなヒントかもしれない。酔いも回ってきたが、明香さんの実家から届いたというサクラマスの燻製を噛み締めながら、自分の将来にも思いを巡らせた。