【企業インタビュー】
「家族が幸せになる家づくり。これが何年たっても変わらない、私たちの思いです。」
竹田工務店は、兵庫県明石市に事務所を構える建築会社。おもに木造戸建ての新築やリフォームを手掛けている。
この会社が産声を上げたのは1964年。
「大工だった父・竹田雅勝が、個人事業主として始めました。」
時は戦後の高度経済成長期。人口増加により、町のいたるところで新築工事が行われていた。大工の仕事も多忙だったに違いない。
「大工や職人さんが、毎晩のようにうちのお茶の間に集まって、図面を広げてあーでもないこうでもないと議論を交わしているんです。」
酒が入れば、ときには怒鳴り合いの喧嘩になることも。それはまさしくプライドとプライドのぶつかり合いだった。
「そういう光景を間近で見ながら、私は育ったのです。」
自分の仕事に誇りをもって生きる。昭和の職人の“カッコよさ”を、私はこのとき自らの魂に焼き付けたのだろう。
その情熱は、半世紀を経た今も変わらない。
【竹田工務店に入社】
高校を卒業した私は、大学の建築学科に進学。
「本当はすぐに大工として働きたかったのですが、父が許してくれませんでした。」
今思えば、良い選択をさせてくれたと思う。大学に行ったことで、建築計画や設計・製図、構造計算などを体系的に学ぶことができた。
さて大学卒業後は、地元の建設会社に就職。ここでの経験が、私の“建築士”としての世界を広げることになる。
「木造建築だけでなく、学校や病院、工場などの施工管理を、幅広く経験することができたのです。」
建築は面白い。そんな思いを深めつつ仕事に没頭していたある日、母が亡くなった。
「これにいちばんショックを受けたのは父でした。」
夫婦ともに50年。二人三脚で会社を切り盛りしてきたからこそ、喪失感も大きかったのだろう。父は目にみえて落ち込んでいった。
「あの血気盛んだった父が、どんどん弱っていくのです。」
このままではまずい。18年間お世話になった建築会社に別れを告げ、私が竹田工務店に入社したのは42歳のとき。
「しかし、ちょうど不景気のど真ん中で、新規の仕事がまったくありませんでした。」
仕事がなければ食っていけない。それはすなわち倒産を意味していた。なんとか打開策はないものか。
「営業をやったことはありませんでしたが、案件を取ってくるために外回りの営業から始めました。」
不動産屋を周り、地域の交流会に参加した。家族が幸せになる家づくり、父が追い求めてきたものを、途絶えさせないためだった。
【木造建築の家づくり】
家づくり、といっても様々な切り口があり、たった一つの正解はない。なぜなら家に住むのは人であり、人それぞれに幸せの価値観は違う。
「その中で、私たちが専門にしているのは木造建築の家づくりです。」
日本には四季がある。雨季があれば真夏の日々もあり、凍えるような季節もある。その気候の変化に、もっとも良く対応できるのが木造建築だった。
「木材は生きています。呼吸をしていると言っても過言ではありません。」
湿気を吸収し、寒い日には断熱効果にも優れる。その息吹に包まれて、家族が安心して、快適に暮らしていける。
なにより、安らぎを感じられる木のぬくもりが、住んでいる人に安心感を与える。それは目にみえない形で、子育てにも影響しているに違いない。
「新築した時には小さかったお子さんが、何十年後かに立派な大人になってお目にかかることがあります。」
ご家族の成長を見守っていける。それがこの仕事の大きなやりがいの一つでもある。人生、苦もあれば楽もあり。
「お客様とは、一生のお付き合いをさせていただいています。」
一期一会の出会いの中で、大切な家づくりをまかせていただく責任。その想いに応えるために最高の仕事をしたい。それが、私たちの原動力だ。
「家の完成はゴールではありません。だからこそ、何十年も先まで見すえて素材一つの選び方から徹底的にこだわるのです。」
木が年輪を重ねるように、家族の思い出はその住まいに刻まれていく。それを思うたびに、この仕事の素晴らしさを実感する。
「家族とともに成長していく家づくり。それが、父の代から目指してきた住まいづくりの本質です。」
家づくりは、とても暖かく、そして人間愛にみちた仕事なのだ。
【「透る家」というコンセプト】
私が正式に会社を引き継いだのは2014年、その二年後に父が亡くなった。
「創業者としても、職人としても偉大な父だったと思います。」
普段から厳しい父だったが、建築現場でのこだわりは一味違う。とにかく細かく、誰が何と言おうと完璧主義を貫いていた。
「あまりに口うるさいので、喧嘩になったこともありました。」
しかし、家の完成が近づくにつれて、父のいうことの正しさを認めざるを得なくなった。
細部のこだわりが住まい全体に行きわたり、まるで家そのものが目にみえない光で輝いているよう。
「それはもう、芸術品のような完成度でした。」
そんな父が亡くなり、私が社長になった今、力を入れているのは技術の伝承である。
「大工の技術を、未来に引き継いでいかなければなりません。」
透る家、というコンセプトを掲げたのも、そんな経緯からだった。
空気が透きとおり、家族の視線が行きかい、そして長く住み継がれる家づくり。父の追い求めた住まいの姿もそこにある。
「目にみえない部分こそ手を抜かない。それが父のこだわりでした。」
時を越えて家族を守り続ける、ほんとうの住まいづくり。そこから生まれた愛の芽はやがて、多くの人々に幸せを与えていくだろう。
「自分の仕事にプライドを持つ。それは自分との戦いであり、父にとって人生をかけた挑戦でもありました。」
技術の結晶である家づくり。私たちが伝えていきたいのは、その「心」なのだ。
【未経験者からの人材育成】
時代が変わっても、家族の幸せは変わらない。その姿を守っていくことも、家づくりに携わる者の使命である。
「匠の技を次の世代に伝えていくために、本格的に人材募集を始めました。」
大工の仕事というと、未経験者にとっては難しいというイメージをもつかもしれない。しかし、実際にはそうではないという。
「未経験者の方が、先入観がないため、素直に技術を吸収してくれるのです。」
大工として一人前になるまで7年。一から家を建てられるようになるまで10年。決して安易な道のりではない。しかし、だからこそ
「人生をかけるにふさわしい仕事といえるのです。」
家づくりは、二つとして同じものはない。現場ごとに状況は異なり、ときにはトラブルも発生する。経験というものの価値はそこにある。
「昔であれば、職人の技は見て盗むものでした。しかし、今は違います。」
現場全体で、新しい人材を育てていく。その想いを全員が共有することで相乗効果が生まれ、活気にみちた人間関係が生まれている。
「新人が新たな風を吹き込み、ベテランは新たな使命感に燃えています。」
大切にしているのは、大工の仕事にやりがいを感じてもらうこと。なぜならそれが、良い家づくりをするための条件だから。
「家づくりに賭ける思い、情熱・・・そして夢。」
それを次世代に伝えていくことが、今の私の使命となった。
【地域と共に、人と共に】
家は建てて終わりではなく、建ててからがスタートである。その想いから始めたのが「家守り点検」サービスである。
「網戸の不具合や、屋根裏の点検など、小さな部分補修を引き受けています。」
住まいも年齢を重ねるごとに部分的なメンテナンスが必要となる。そのときに、気軽に相談できる存在でありたい。
「一昔前に比べて、新築の需要は少なくなりました。」
原材料費の高騰や土地不足など、さまざまな要因があるだろう。代わりに増えているのがリフォームやリノベーションの依頼である。
「ウッドデッキの設置や、壁紙のリフォーム、浴室の交換など。今ある家を生かして、住まいを新しく生き返らせていきます。」
人も家も、地域の財産であることに変わりはない。
受け継いできたものを大切にして、生かしていく。それは人の生き方にも通じるのではないだろうか。
「人材育成においても、第一に伝えているのはそのことです。」
地域に育まれ、地域とともに成長してきた。それが竹田工務店の歴史である。そしてそれは、これからも変わらない。
「家づくりの仕事に限らず、さまざまな場面で地域と関わることが大切だと考えています。」
家族の絆、友との思い出、地域のお祭り。時代を越えて変わらないものの中に、人の生き方の本質がある。それを見失わずに進んでいきたい。
広い意味でまちづくりに貢献していくことも、家づくりの仕事の一部なのだから。
「明石は災害も少なく、住みやすいまちと言われています。」
しかし現実として、労働力が足りていない。若手の人材が、神戸や大阪に出ていってしまうのだ。それは地域にとって、残念なことだ。
「自分たちのまちは、自分たちで守り育てていく。それは建築業界に限らず、地域全体の課題です。」
人とともに支え合い、地域を大切にして生きていく。そして仕事を通じて、感謝の喜びを受け取っていく。
「人と人。私たちの目指す未来もそこにあります。」
時を越えて受け継がれてきた、家づくりの技。その心を次世代に伝えていくために。
竹田工務店の挑戦は、始まったばかりだ。