【人としての魅力】
明石市藤が丘にある会社の事務所へ伺うと、柔らかな面持ちで出迎えてくれた植野社長。今回の取材の主旨を伝えると少し照れくさそうに「頑張ってお答えしますね。」と笑顔で答えてくれた。
余談になるが全ての取材を終え、ご家族や従業員についての話で盛り上がったあと、事務所の隅にポツンと置いてあった赤ちゃん用のオムツが気になった。
「これは従業員に渡すんです。こういう小さな積み重ねで信頼関係ってできると思うし、従業員がとても喜んでくれるんです。私もこどもが3人いる身なので、大変さは理解してあげれると思っているんですよ。」
少しだけ父親の表情を覗かせながら、今日一番の笑顔を浮かべている植野社長をみると、胸がじんわりと温かくなった。
このように、企業の「社長」である前に「人」として、お客様や従業員と親身に接する姿勢はどのように育まれたのか。
ハリマ防災株式会社をどんな時も先頭で引っ張ってきた植野社長の「人徳」も非常に興味深い話となるだろう。
【独立】
「正直な話、”きれいな辞め方”をしていないので、周りに迷惑をかけないということが前提になった独立でした。」
出身は兵庫県高砂市。結婚を機に明石市へ移り住んだ植野社長は、当時、親族が経営する企業に勤めるサラリーマンだった。将来は会社を受け継いでいく”事業承継予定者のナンバー2”として仕事に没頭する日々を送っていたが、親族経営の難しさというべきだろうか。親族である従業員との関係は良好とはいえなかった。
その後も関係が良い方向に進展することはなく、植野社長は会社を退き独立を決意することになる。
「辞職する会社とは同業種になるので、迷惑が掛からないように同じエリアでの商売は避けるということだけを決めていました。恥ずかしながらその他に戦略といえるものはなにひとつなく、縁もゆかりもない明石という場所で、いきなり会社を立ち上げることになったんですけど…。今思い返しても、当時の状況は本当に苦しかったですね。」
文字通り、身一つで険しい独立の道へと足を踏み入れた植野社長。
創業当時は見積書だけを握りしめ、知り合いもツテも存在しない明石のまちを自転車で駆け回りながら飛び込み営業をする毎日。ガソリン代すら捻出できないほど状況は深刻だった。
植野社長から苦労話を聞けば聞くほど、当時の過酷さというものがどんどんリアルに伝わり、”地を這っていた”という表現すら過言ではないように聞こえてくるほど。
しかし、彼の置かれた過酷な状況は”こんなもの”では終わらない。
なんと彼は”一家の大黒柱”であったのだ。
【責任】
「当時、こどもたちは0歳、1歳、3歳。そして、父ちゃんは”ほぼ無職。(笑)
失業保険などでなんとかやりくりしましたが、いよいよご飯を食べていけない状況がすぐそこまで迫ってきたので、大手のチェーンレストランでキッチンのバイトを始めました。朝から夕方まで自社の営業活動をしたあとに、夜の21時から午前2時までアルバイトの日々。月に130時間ほど働いていたと思います。そんな生活を2年間は続けましたね。」
淡々と語ってくれた植野社長だったが、どれほど過酷で長い2年間だっただろうか。
先の見えない真っ暗なトンネルを走り続けた彼だったが、ここで人として大きな成長ができたと話す。
「本当に大変で余裕はなかったんですけど、そんな中でも良い出会いなんかがあって。バイト先に新しい店長が来たんですけど、びっくりするほどよく働くんです。その時に、(あぁ。”責任を負う人”というのはここまで働くものなんだ。)ということを身をもって感じました。そして、自分に置き換えて考えたときに独立してやっていくんだったら考えが甘すぎたなと反省しましたよ。」
逃げ場のない過酷な状況の中で差し込んだ光は「人」との出会い。
そして「責任」という言葉を本当の意味で知ることになった植野社長。
勇気をもらった彼は、父親として、そして社長としての「責任」を果たし、どんな困難も乗り越えていくことを誓うことになる。
【居場所づくり】
世の中はとても残酷なものだ。決意を固めた植野社長だったが、その想いだけで状況が好転するほど商売というものは甘くなかった。
営業活動に力は入るが成果が全くあがらない。そんな焦る気持ちばかりが先行していた植野社長を救ったのは、またしても「人」だった。
「やり方が間違っているなと気付いてはいたんですが、他のやり方というものが全くわからない。そんな時、同級生でもある管理会社を営む社長にアドバイスを頂きました。『どこかの団体に所属して色んな人と一緒に活動してみたらいいんちゃう?』という助言でしたね。」
植野社長はこのアドバイスを活かすべく、独立して2年目に「明石商工会議所青年部」に所属することになる。
ここから植野社長の営業スタイルはガラリと変わった。
「飛び込む」というスタイルは変わらなかったが、「飛び込み先」を変えてみたのだ。
凄まじい労力と時間をかけながら、なんのツテもない相手に無謀に飛び込んでいた日々から、人と人とが出会うキッカケ作りの場に飛び込み、少しずつ輪を広げていく。
こうして、少しずつ自分や会社の「居場所づくり」を始めた植野社長。
そして、この取り組みが後に会社を変えていく大きなターニングポイントとなった。
【経営者たるもの】
独立するまでは経営の勉強などはしてこなかった。そこが一番後悔した点だったと振り返る植野社長。
ただ、商工会議所青年部や中小企業家同友会などの活動をキッカケに、たくさんの経営者に出会い、セミナーや勉強会にも積極的に参加することで、少しずつ経営について知識を深めていった。
そして、会社を経営するにあたって、当たり前だがとても重要なことに気付かされたという。
「当時は生活に切羽詰まっている状況だったので、頭の中は売上!売上!お金!お金!という感じでした。売上を取るためにも、家族の生活を守っていくためにも、少々は人のことを踏みつけてでも、のし上がっていかなければという考え方でした。そんなときに、同士である先輩経営者や仲間たちに『お前それは違うで。』と叱っていただきました。ここから少しずつ考え方が変わってきましたね。」
目先の成果だけではなく、まずは企業としてどうあるべきか。経営者としてどうあるべきかという点にフォーカスできた植野社長は、ここから経営理念や指針について考えを深めていく。
このキッカケがなければ間違いなく今の会社は存在していないと話す。
経営について学びを深めていった植野社長だが、同時に経営者の輪を広げていけたことも良い収穫だったと振り返る。
「団体に属しているだけではだめで、その中でしっかり自分のポジションを確立し、認知を広げる確率を高めていく。こうやって少しずつ自分と会社を知ってもらい信頼関係を築いていくことで、結果は必ずついてくると自分に言い聞かせてました。」
売上だけを追い求める無謀な営業ではなく、経営者たるもの、仕事の前に一人の人としてお客様と向き合うことが大事だと腹落ちした植野社長。ここから会社の売上は少しずつ上昇を辿る。
そして、2020年には個人事業主から法人へと移行し、現在のハリマ防災株式会社が誕生することになる。
【消防用設備コンサルタント】
ハリマ防災株式会社は、まちの防災インフラを構築するうえで重要な役割を担う。
「消防用設備の保守点検、設計がメインの事業です。点検を行うと不備や回収事案が発生し、そこから物販に繋げます。消火器やホースなどを売ったりしますね。収益はおおよそここから生まれます。」
災害が発生し、いざという時に困らないよう点検は徹底的に行うという。
また、日々業務をしていると、消防用のベルが鳴りやまないなどといった数々の緊急連絡も舞い込むが、同社は緊急対応にも強い。市内であれば即日対応を原則としている。
この地道な繰り返しがまちを救い人々を救う。これが同社事業の柱である。
そして、この基本的な動きと併せて、ハリマ防災株式会社では独自で消防用設備のコンサルタント業務もスタートした。
この業務は、新築や改修工事の案件、工務店などからの問い合わせで、建物を建築する際に必要な消防設備のアドバイスや、消防署に届け出が必要な設備の案内などを行う。そして、アドバイスだけでは終わらず、実際に消防設備の配置設計をし、工事までをトータルで請け負う。
当事業の強みは、相談から最終工事に至るまでワンストップで引き受けることができるので、その後スムーズにメンテナンスに繋がり、長くお付き合いができる顧客がどんどん増えること。
植野社長は、コンサルタント業務を始めたキッカケについてこのように話す。
「人との繋がりが増えていくなかで感じた事があります。結局自分が欲しい仕事を頂こうとしても、そんなに都合よくもらえるわけがない。創業時はメンテナンスの仕事だけを取りにいきましたが、必要ないものはやっぱりいらないですよね。そこから考え方を少しずつ変えていきました。お客様が必要とするものをなにかしらのかたちで提供できたときに、初めて欲しい仕事が回ってくる。そんな想いからコンサルタントの仕事を始めたんです。」
コンサルタント業務に着手したのは創業から5年経ったあとだった。
まさに、この消防コンサルタントは同社独自の強みであり、植野社長が数々の経験を積み重ねて手に入れた、”武器”であり、”努力の結晶”といえるだろう。
【仕事を通して幸せになってほしい】
植野社長に人材観についてのお話を伺うと、あるエピソードを話してくれた。
「実は去年の話ですが、私が作業中にケガをしてしまって2カ月ほど入院していたんです。創業から今までこんなに長い期間仕事から離れるのは初めてだったので、不安しかありませんでした。なによりもまず、売上は確実に落ちるだろうなと覚悟していたんですが…。退院後に蓋を開けてみると売上は下がるどころか上がっていたんです!びっくりしました!」
創業から今まで、いつも先頭で会社を牽引してきた植野社長だったが、この経験が経営者として一番嬉しい瞬間であり、努力が報われた瞬間だったと笑顔で話す。
実は、植野社長は自社の経営理念や指針の策定と同じくらい、人材の育成についても労力を惜しまなかった。
頻繁に社員との面談時間を設け、仕事の悩みはもちろん、家庭の悩み相談まで行い自身の仕事についての考え方を地道に従業員たちに伝えていった。
あくまでも仕事とは方法論であり、本質は「人磨き」「心磨き」。誠実な想いを持って人と接することで自分を磨いていく。仕事を通して幸せになれなければ、どんな仕事も意味を持たない。だから、仕事を通して必ず幸せになってほしい…。
売上増加の件は、こんな経営者の想いが、従業員にしっかりと伝わっていた一つの証ではないだろうか。
続けて、植野社長は募集する人材について具体的にこう話す。
「我々の仕事は基本”サービス業”だと考えています。スキルを発揮する職人である前に、まずは誠実な心でお客様と向き合うことが一番大切。そこをクリアせずにスキルやテクニックが磨かれることはないと思っているんです。」
同社で採用していく人材は基本は技術職。もちろん基本的なスキルや高度なテクニックが必要になってくるが、それが全てではないと話す。
大前提として、自分勝手な行動や、自分さえよければという人材は絶対に受け入れない。かつて自身がそうだった経験から、この観点の採用基準は揺るがない。
ハリマ防災株式会社は「誠実さ」を一番重要視している。
最後に、植野社長は同社での働き甲斐についてこんな話をしながらインタビューを締めくくる。
「会社の主役はもう僕じゃないんです。活躍できる環境は整えていくので、何事にも主体的に関わっていきたいという人は歓迎です。あとは自らが幸せな人生を送る為にうちの会社をうまく使ってほしい。うちでの仕事を通して必ず幸せになってほしいですね。」
生きていれば大きな壁があり、困難もたくさんあるが、仕事や人生の本質的な目的を見失ってはいけないということを改めて教えてくれた植野社長。
この世には数え切れないほどの企業が存在し互いにしのぎを削っている。
果たして、こんな時代に生き残っていく企業とはどんな企業だろうか。
今回は、その答えが少し垣間見えたように感じる。
どれだけ技術が発展しようが、どこまでいっても企業は「人」である。
自己実現の為に、そして自らの幸せな人生を送る為に、ハリマ防災株式会社で働くことを検討してみてはどうだろうか。人生の酸いも甘いも知る”父”がいつでも相談に乗ってくれるだろう。