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株式会社シンノウ / 操縦大好き重機オペレーター

インタビュー記事

更新日 : 2023年08月29日

リサイクル業を通して地球環境への負担をなくしつつ、地域の快適な生活環境づくりに取り組む株式会社シンノウ。

SDGsの推進を掲げる明石のまちで重要な役割を担うこの企業をまとめあげるのは、代表取締役の神農正稔(しんのうまさとし)さん。

創業者である父から譲り受けた「誠実と真心」という言葉。企業の基本理念であり父からの教えでもあるこの言葉を信念に掲げ、数々の困難を乗り越えてきた”不屈の男”の過去に迫りながら、現在の取組みや未来の展望、そして求める人材像について話を伺った。

株式会社シンノウ 事業概要

製紙原料から、製鉄原料、産業廃棄物、一般廃棄物まで幅広く取り扱うリサイクル業を営む企業。主に鉄工所から出る鉄くずや、付随する産業廃棄物などを収集・リサイクルを行うことで、地球に優しい取り組みを担う地域のSDGs先進企業。近年はリサイクル業だけに留まらず、「生活の一部に“シンノウ”がある」をモットーに、一般家庭の引っ越しやエアコン設置のお手伝い、空き家のゴミ収集などを手広く実践。BtoBに捉われない新たな挑戦を続けるパワー溢れる企業である。

【ブルーカラーの企業】

山のように積まれた鉄くずや産業廃棄物。大きな音をたてながら重機が動き、たくさんのトラックが汗をかく。こんな職場を想像すると、皆さんはどのようなイメージを抱かれるだろうか。

 

社会の様々な分野で経済を支え続けてきたブルーカラーの企業たち。

彼らは高度経済成長期において「豊かな日本社会の実現」を牽引してきた紛れもない”功労者”たちである。そして、そんな企業に従事する労働者たちは「日本社会の基盤を作っているのは我々だ」という仕事に対する強いプライドを覗かせていた。

 

しかし、日本の生活水準が上昇した1980年以降のイメージは大きく変わり、常にホワイトカラーの企業と比較されながら、「3K(きたない・きつい・きけん)」と名指しされる企業も増えた。

バブル崩壊後は、日本社会全体が不況に陥りホワイトカラーの企業内で大量のリストラが発生したり、ホワイトカラー職種特有のストレスによる精神疾患・過労死などが問題となった背景もあって、ホワイトカラー職種のほうが良いという風潮は薄れてきた傾向にある。

 

一方で、前述したようにブルーカラーの企業の日常的な職場風景を想像すると、「ここで働きたい!」と率先して手を上げる若者は多いとは言いがたいのが実情ではないだろうか。

 

株式会社シンノウは産業廃棄物処理・リサイクル業を営む、まさにブルーカラーの企業。創業から60年を迎えようとする同社は、このような時代のなかでどんなビジョンを描き、なにを成そうとしているのか。

そんな事を考えながら、絶え間なく動く重機を横目に事務所に足を運んだ。

 


 

【驚きの設備】

 

案内された部屋に向かうと、まず驚きの光景を目の当たりにした。

なんとジムに置いてあるような本格的なトレーニング器具がならんでいるのだ。

 

話を聞けば、社長が従業員たちの為に置いてくれたものだそうで、いつでも気軽に利用してよいとのこと。また、併設されている応接室はとても清潔感があり、産業廃棄物、重機やトラックの考えなどはすぐに打ち消された。

そして、なんといっても衝撃だったのは、産業廃棄物処理・リサイクル業の社長とお会いするということで勝手に抱いていた剛健で隆々しい社長像も見事に打ち砕かれたことだ。

 

スラっとした風貌で目の前に颯爽と現れた神農社長は、端正な顔立ちで笑顔も眩しいとても爽やかな方だった。

 

「今日はインタビューで創業経緯なども話すみたいですけど、この会社はうちの父親が創った会社で、創業したストーリーを簡単に言うと…」

 

話し始めた神農社長はとても穏やかだったが、創業経緯を聞いてみると、とてもじゃないが穏やかな内容ではなかったことを知ることになる…。

 


 

【シンノウの軌跡】

「父が産まれたのは、終戦ひと月前の1945年の7月でした。家族は疎開先の高野山に隠れており、親父はそこで産まれたみたいです。終戦後、九州に移り住んだと聞きました。」

 

当時は集団就職が当たり前の時代。九州で学校を卒業した先代は大阪の製鋼メーカーへの集団就職が決まり、家族総出で神戸に移住してきたことを教えてくれた。

その後、製鋼メーカーに1年間勤務しながら、起業に憧れを抱く。退社後の1964年11月に、同社の始まりとなる「神農商会」が創業された。

 

「”寄せ屋”とよばれるようなことを始めたのがキッカケみたいです。当時はその辺の鉄くずを集めたり、浜辺で磁石を引っぱって、くぎなんかを集めて小遣いにしていたような時代で、その延長線上で庭に鉄くずを集めたり、鉄工所から出る切れ端を寄せ集めていたんです。」

 

その後、弟とともに事業を進めることになり「神農兄弟商会」へと名を変え、4年後には形態を有限会社に変え「有限会社神農商会」として歩みを進める。

 

1973年に起きた「オイルショック」の際には、初めて非鉄原料ヤードも開設し、鉄材だけではなく、廃品回収や紙のリサイクルにも着手。これを機に事業規模をどんどん拡大していく。

このように同社は着実に歩みを進めながら、計7つのヤードを抱える大きな企業へと成長を果たす。そして、1996年7月には形態を株式会社とし「株式会社シンノウ」が誕生する。

 

ここまでの流れを聞くと順風満帆に進んできたかのように見えるが、神農社長が跡を継ぐことになる同社に大きな波乱が起きる。

 


 

【親族経営の難しさ】

 

「親父と叔父、そして親族を中心として進めてきた会社でしたが、事業を進めていく上で少しずつ方向性の違いが出てきました。『シンノウの勢いがすごい』というイメージをそのままに、ヤードをどんどん増やしながら会社規模を拡大していきたい営業肌の親父のやり方が、親族にあまり理解されなかった。借金作りの”借金発生機”やと思われてましたね(笑)。そこからどんどん親父と親族の間に距離が生まれてきました。」

 

事業の拡大を望む父と、安定した経営を望む親族。

最終的に先代は、母から直接『家族が大切なのか、会社が大切なのか』と問われる事態にまで発展していた。

 

「親父はこんなおばあちゃんの問いに『もし両者が川に流されていたら、近いほうを助ける』と言っていたそうです。私はこの考え方は賢いなーと感心しました(笑)。遠い方から助けると共倒れしますからね。そうなればどちらも救えない。親父らしい考え方だなと思います。ただ、私は今でも商売の本質を知っているのは親父だという確信がありますね。」

 

神農社長は、先代についてこのように振り返ってくれた。

 

その後も両者の溝は埋まることはなく、むしろ時間とともに広がりをみせる。

当時、入社5年目を迎えていた神農社長は専務として最前線で会社を支えながらも、現状に対する懸念を常に抱いていたという。

 

そして、跡を継ぐことが決まり社長となった彼を待ち受けていたのは、想像を絶する残酷な結末だった。


 

【不屈の男】

 

「分社しようか。」

 

叔父から聞いたこの発言が全ての始まりだったと神農社長は当時を振り返る。

 

時間と共に広がる両者の溝は埋まることはなく、業種別での分社(鉄部門と紙部門)というピリオドが打たれた。

 

「当時、父と叔父はもう顔を合わせることがないほどでした。そこで、代わりに私が叔父と分社の話をすることになったんですが…。あの日は今でも忘れませんね。当時の叔父の服装までハッキリ覚えてますから。」

 

分社という事実だけでも受け入れがたかったが、神農社長はその分社の内容に愕然としたという。

神農社長が営業活動を主とし、売上の多くを占めていた紙部門を手放し、ノウハウが全くなかった鉄部門を引き受ける形になったのだ。

 

その後、人員や各工場の分配など具体的な話し合いが進められたが、最終的に神農社長が手にした”財産”と呼べるものは決して多くなかった。

 

「あの頃は色んな感情がぐるぐる回ってましたね。精神的にも病んでしまい苦しい時期でした。ただ。そんな中で私が一番許せなかったのは『なにがあっても兄弟、家族で仲良く商売するんだよ』というおばあちゃんの”遺言”を守らなかった、守れなかったことです。」

 

分社には2年を要すると言われたが、一刻も早い手続きを提言したという。

そこには神農社長の並々ならぬ意地と決意が込められていた。

 

文字通りの”0からのスタート”。だが、くよくよしている時間はない。

人生最大の逆境を跳ね除ける決意を固めた後、2011年7月に鉄部門「株式会社シンノウ」と、紙部門「シンノウ紙源株式会社」が新設分割となり、それぞれの道を歩むことが正式に決まった。


 

【誠実と真心】 

 

売上が少なかった鉄部門にあてがわれた人員は少なく、現場の作業員が数人残った程度の株式会社シンノウ。人材募集が急務となった神農社長は、ツテやハローワークを利用しながらなんとか補充に成功するが、当時の様子をこのように振り返る。

 

「鉄なんか触ったことありません!みたいな人ばかりが9人集まった”ど素人集団”でした(笑)。職業柄、事故やケガは付き物なので、無茶をして頑張りすぎるような若い子ではなく、あえて50代中心の採用を心がけたりしてましたね。あとは、私自身も分社前は紙の営業がほとんどだったので素人のようなもの。本当に0からのスタートでした。」

 

人間だれしもこのような状況であれば、当然くじけそうなものだ。

しかし、神農社長は歯を食いしばりながら、チーム一丸となりこの苦境を乗り越えていく。

 

 

不安や葛藤はなかったのか。こんな問いに神農社長は今日一番の笑顔でこのように答えてくれた。

 

「めっちゃ不安でしたよー!本当に気持ちが折れた時というのは、実際にボキっとなにかが折れる音が聞こえるんです。(笑)。それくらい大変でしたが、でも数字ではなく”商売”として、やっぱり”商売魂”というものがどのようなものなのかということを知っているのは、私だという信念があった。もちろんまだまだ分からないことは多いですけど、常に前向きに考えることにしていましたね。」

 

そして、今日に至るまで会社を存続させてこれた一番の要因についても話してくれた。

 

「お客さんの信用かな。あとは会社(お客さん)の信用って結局のところ、親父の信用だったんだなって気付かされたんですよ。親父が積み重ねてきたお客さんとの信用が会社を守ってくれた。だから親父にも感謝だし、お客さんにも感謝。そして一緒に頑張ってきてくれたスタッフ達に感謝でいっぱいですよね。」

 

経営者として歩みを進めることで、商売人の”魂”を知り、先代の偉大さを痛感したという神農社長。

 

現在、企業の成長とともに経営理念や社訓、スローガンなどを再度見直しながら、お客様からの信用を着実に積み上げている同社だが、創業時から変わらない会社の方針がある。

 

それが「誠実と真心」である。

 

先代から受け継いだこの言葉を軸とし、逆境を跳ね除けながら成長を続けてきた同社だが、これからどのような事業を展開し、今後どんな企業に成長していくのだろうか。同社が進める事業の一部をご紹介しよう。


 

【生活の一部にシンノウが】

 

地域に根付いた信頼ある企業を目指す株式会社シンノウは、地球環境への負担をなくしつつ、お客様の快適な生活環境づくりに努めることを重視している。

そして、その想いが今、ひとつのカタチに。

 

「近年、地元を含め、様々な地域に一般家庭用の資源回収BOXを設置しています。大きな目的は“地域活性化”と“地域を安心、安全”にすること。主に各地域の自治会などでうまく運用してくれればいいなと思っています。例えば、地域で使われていない土地に回収BOXを設置すれば、自治会は土地活用ができ賃料がもらえる。また、資源収集を手伝うことで市や県から助成金だってもらえる。これらで集まった資金は自治会のクリスマスパーティーなどの集会や活動資金に回せることで、もっと地域が自由に動ける仕組みを作れます。また、回収BOXに防犯カメラや自動発光ライトを付けることで、地域の安心・安全も守れます。実際、交通事故が起きた際の現場検証の証拠品として、映像の提供依頼を受けたこともあります。我々は、もっと地域に深く根ざして、地域の為の企業であり続けたいと思っています。」

 

神農社長は現在の取り組みについて、このように話してくれた。

リサイクル業×地域活性化。とても魅力的な取り組みを続けるシンノウ株式会社。これからどんな新しい取り組みが行われるか、地域の中でも目が離せない注目の企業だ。

 


 

【とことん突き抜ける】

 

「お父ちゃんかっこいい!とこどもが思ってくれるような仕事をすべきだと考えています。もちろん3K(きたない・きつい・きけん)のイメージがあって、とても大変な仕事ではあるんだけれども、誰かがやらなければいけない。みんながやらないようなことを僕らは喜んで綺麗にしていくという想いが一番大切です。」

 

神農社長は同社で働く際の、仕事の取り組み方やマインドについてこのように話してくれた。

 

めんどくさいことをしよう。みんながやりたがらないことを率先してやってみよう。そうすれば必ず笑顔になってくれる人がいる。このような理念が従業員たちと常に共有されている。

実際、従業員は全員が会社支給のスマホを所持しており、案件やプロジェクト毎のグループを都度作成し連携を取る。大きなプロジェクトから数人程度の小さな案件まで含めると、これまでのグループ総数は300を超えるという。

 

 

「3Kと言われるくらいなら”8K”までいってやろう。テレビも8Kやし(笑)」とジョークを交えながらも、これまで誰も真似できないことを突き詰めてきたことで活路を見出してきた株式会社シンノウ。

 

「私がいつも従業員に求めるのは、どれだけ1つの事柄について真剣に考えたのかということです。考えが曖昧であれば曖昧なまま終わってしまう。真剣に考え抜けばなにかしらの活路が見えてくるはずなんですね。そういうときに神様はいるんだなぁという経験もたくさんしてきました。誰かが必ず助けてくれるんです。」

 

とことん突き抜けたときにだけ見える景色があり、そこにはお客様だけでなく、自分自身も必ず笑顔になれる働き方が存在すると話してくれた神農社長。

お客様のため、地域のため、そしてなによりも一度きりしかない自分自身の人生のために。株式会社シンノウでは、そんな目標を共に探していきたい人材を募集している。

 

ちなみに同社は従業員の想いを尊重し、止む無く退職となる場合は「いつでも戻っておいで券」を退職時のプレゼントとしている。

神農社長いわく賛否両論あるそうだが、どんな事情であれ退職に至るまで尽力してくれた従業員に対する、この上ない「誠実と真心」が込められたプレゼントではないだろうか。

 

世のため人のために働くことが、自分自身の喜びに変わっていく株式会社シンノウ。これから地域でどのような取り組みを進めていくのだろうか。ワクワクしながら今後を見守りたい