「writes」「right」「light」3つのライトで、人々のこころを照らす
株式会社ライツ社 代表取締役社長/編集長 大塚 啓志郎「writes」「right」「light」3つのライトで、人々のこころを照らす
株式会社ライツ社 代表取締役社長/編集長 大塚 啓志郎
近年、インターネットの普及に加えモバイルツールの発達により、多くの情報が否応なく脳へ流れ込みます。考えたくなくても、考えてしまう。まさに脳は、職場でも家でも「フル稼働」状態が続いていると言えます。
しかし、この「フル稼働状態」の“中身”はいったいどのようなものでしょうか。受信した情報の取捨選択に思考の多くを奪われ、一刻も早いレスポンスを要求されることにより、出した答えに主体的な考えや意見は無い。このように、情報過多の暮らしは、わたしたちの“純粋な思考”を停止させているのではないかと思います。
現代社会において「じっくり考える時間」というものは大きく奪われています。その中で、自分にとって本当に有意義な、「考える時間」を確保できている人、そして、自分にとって「価値ある考え」を深めている人はどれくらいいるのでしょうか?
今回ご紹介するのは、株式会社ライツ社 代表取締役/編集長の大塚啓志郎さん。「出したい本だけを出す」を前提に、書く力で、まっすぐに人の心を照らす出版社「ライツ社」を地元の明石で立ち上げ、創業以来、話題作を連発し全国にその名を轟かせています。数々の困難を乗り越え、本という武器を手に、“凍りついた人々の心を解かす光”を照らし続ける彼は、なにを想い、なにを目指すのか。そして「考え抜く力」とはいったいなんなのか。ライツ社へ伺いお話を聞いてきました。
出身は兵庫県明石市東仲ノ町。工務店を営んでいた家庭の4人兄弟の末っ子として誕生した大塚さん。幼い頃から真面目で正義感が強く、クラスでの役割もしっかりこなす真っすぐな性格だったといいます。
「家庭が厳しかったわけではなかったんですが、父親がとても真面目に工務店を営んでいたし、お酒もギャンブルもしない、いわば“仕事人間”でした。その影響もあってか、自分もとにかく真面目だったので、やんちゃする同級生からは少し煙たがられていたかもしれませんね。でも、末っ子特有の甘え上手でしたよ。」
クスっと笑いながら幼少期をこのように振り返ってくれました。
真面目な父親は帰宅がいつも早かったので、大人になるまで実家は貧しいと思い込んでいたという大塚さん。中学時代はお小遣いが他の子に比べ少なかったこともあって、大好きなレゴで様々なものを作り「宇宙船100円」というふうに友達へ“販売”していたというから驚き。無いものを嘆くのではなく、自身の手で生み出す。このようにクリエイター気質は幼い頃から備わっていました。
家に本がたくさんあったことで読書も楽しみ、本が大好きだった大塚さん。現在、出版社の編集長をされているということで、“書く“ことについてはどうだったかを聞いてみると、小学生の頃に体験した”書く“ことに魅力を感じたひとつのエピソードを話してくれました。
「小学2年生で阪神淡路大震災を経験しました。家は傷んでしまったんですが、幸い家族は全員無事でした。家業が工務店だったこともあり、被災直後に電話が通じるようになってからは「家を修理してほしい」という依頼が殺到したんです。父と兄は、傷んでいる我が家を直すことなく、お客様の家を優先。毎日どこかの家を修繕しに出掛けていました。なので、僕の中での震災の記憶というのは、地震に対する恐怖の記憶だけではなくて、少し特殊な状況だったんです。その後、学校で被災体験の作文を書く機会があって、もちろん他の子たちは地震に対する恐さを書いていたと思うんですが、ぼくは修繕する側の立場から作文を書いたんです。それを先生がおもしろい視点だと思ってくれたんでしょうね。被災体験をまとめた本に掲載されることが決まりました。その時に、自分はもしかしたら書くことが得意なのかもしれないと思って、書くことが好きになりましたね。」
学生の頃は、勉強嫌いというわけでもなく成績も良かったそうで、関西にある難関私立大学である関西大学へ指定校推薦で入学。家業は兄が継いでいたこともあり建築への興味はあまり湧かず、入学当時は、進路やこれからのことについて、まだまだ深く考えることは出来ていなかった。
そんな大塚さんを大きく変えたのが、大学で行われたひとつの講演でした。
「大学2年生の時にフリージャーナリストの方の講演を聞き、とても魅力を感じました。とにかくその方がかっこよかったんです。そして、その講演の中で『次にベトナムの枯葉剤被害者の取材に行く予定になっているので、2週間お手伝いをしてくれる学生を募集しています』と言っていたので、これはと思ってすぐに応募しました。そして、生まれて初めて自分一人で海外に行くことになったんです。」
実際にベトナムで枯葉剤被害者の方を取材し、日本では見たことのないような光景を目の当たりにした大塚さんは、大きな衝撃を受けました。そして、自分の知っている世界の小ささを知ることになったそうです。
「滞在中に、今思えば本当に意地悪なことをされたなと思う体験がひとつあって。フリージャーナリストの方が、銃が打てる施設があるよ、と声をかけてくださり、そんな体験は滅多にできないので行ったんです。その後、初めて銃を撃ち、とても喜んでいるぼくたちに、フリージャーナリストの方が一言こう言ったんです。『でも、向こうの村にこの銃で殺された人もいたんだけどね』と。その時の言葉は今でも忘れられないですね。意地悪なんだけど、今考えてみても、すごく意図のあることをしてくれたんだなと思います。」
このように、いつもの旅行では出会えない、とても濃い体験をすることができた大塚さん。これを機に、目的なく遊んだり、サークル活動を謳歌していた大塚さんの世界観は、大きく変わったと言います。
帰国後、自分と同じような体験をした先輩と知り合い、なにかを感じているだけでは意味がないことを共有した大塚さん。なんらかの形で伝えるのはどうかという提案で、大学前のライブハウスで写真展を開催。この経験から、初めて伝えることの大切さを学び、また「自分は伝えることが好きなんだ」と感じることができたそうです。
その後も在学中は何度か写真展を開きながら、就職活動ではなにかを伝える仕事がしたいと思い、新聞やテレビなどのマスメディアをいろいろ検討することに。ただ、その過程で大塚さんは「なんか違うな。」と思ったと言います。
「実は、写真展を開いた時にある友達から『写真展を見て1日や2日だけ、平和の大切さを感じてもらうだけじゃ、意味ないんじゃない?』と言われたことがあって。確かにそうだなと感じたことがありました。この一言がずっと自分の中で引っかかっていたのかもしれません。」
そんな矢先、写真展を開くきっかけになった先輩が、大塚さんへ一冊の本をプレゼントしてくれたそうです。
「いただいた本は、後に就職先になる出版社が出していた『1歳から100歳の夢』という本でした。日本にいる一般の老若男女100人が、各々の年齢で想う“夢についての作文”を掲載している本です。たとえば、5歳の子は「大きくなったらお母さんを肩車して、雲の上を見せてあげる」という作文。17歳の子は「大人なんか信じられないし、夢なんてあるわけがない。だけどいつか自分に夢が見つかったら、いつか誰かに夢は見つかるよと教えてあげたい」という作文だったり。親世代なら子どもの夢が自分の夢で、高齢者の方なら純粋に「ありがとう」という、もはや夢かどうかもわからない。でもそれを読んでいると、なぜか自然と涙が溢れてきたんです。」
この本との出会いで、大塚さんはこれから自分がやりたいと考えている事に疑問を感じたといいます。「自分はいままで世界の遠いところで起きている出来事を伝えて、人にきっかけを届けようとしている。でも、この本は、世界平和とか大きなことを謳っているわけでもなく、芸能人でも有名でもなんでもない、身近にいる人のとても身近な言葉で大切なことを伝えている。そして、そんな本が10万部のベストセラーになっている。これは人の人生を変えている」と強く感じた大塚さんは、人を変え、そして世界を変えるのは“本”だということに気づきました。そして、迷わずその本を出版している会社に就職したいと決め、自分の人生を変えた一冊のような本を出版しようと志したのです。
京都にある出版社で、初めて新卒採用一期生として入社した大塚さんは、自分の人生を変えたあの本のように、人の心を動かせる本を出版したいと決意。その結果、入社後3年間は少し特殊な仕事をしていた事を教えてくれました。
「入社後、ぼくの職業は編集者でも営業マンでもない“夢集め”でした。1日6~7人くらいの人と会い、あなたの夢の作文を書いてほしいですとお願いするんです。トータルで1000人くらいの人に会ったんですかね。夢を集めて、そこから職業やカテゴリー別に夢の本を作っていきました。」
ヒット作も生まれ、大塚さんの実績や役職は少しずつ上がっていきました。ただ、この結果によって失うことも増えてきたといいます。
「結婚もして子どもも生まれましたが、事業部長になったころから、会議や採用、面談など、本に関わること以外のやらなければならないことが増え、純粋に本を作れる時間がどんどん無くなっていきました。また、業務量が増えたことで、子どもが産まれても寝顔しか見ることができない。最終的に、自分の限りある時間を自分の大好きな家族や本作りに使えていないこの状況は、本来自分が望んでいたものではないという結論に達しました。」
出版社のほとんどは首都圏にあり、関西には出版社自体が少なく募集がかかっていないこともあって、独立し会社を立ち上げることを決心。そして、同じように転職を考えていた営業担当の同僚と共に「ライツ社」を立ち上げることになりました。
独立を決心したものの、その道は険しかったといいます。開業資金が少なかったこともあり、頼ったのは明石にある実家。まだ起業もしてないため、当時、肩書もなく銀行からお金を借りることもままならなかった大塚さんを、両親はしっかり後押ししてくれたといいます。
「独立は、地元の明石だからこそできたことだったと思います。まず、住むところと会社の事務所は、祖父が持っていた古ビルの一室を使わせてもらうことができましたし、すでに出版社が多くある東京では、絶対に銀行からお金を借りれなかったと思うんです。でも、実家が地元で頑張っている工務店だったおかげで、『大塚さんの息子さんなら』と、地元の信用金庫から創業資金を借りることもできました。本当に親に感謝しかありません。残すは自分が頑張って本を作るだけという状況にできたことが本当に大きかったです。あとは、帰ってきた明石は本当に住みやすくなっていて、子育てもしやすかったので、地元出身じゃない妻が明石をとても気に入ってくれたことも大きかったですね。」
大塚さんは自分の出版社を「地元の小さな出版社」ではなく「全国規模の出版社」にすることにこだわりました。本の流通を担う卸会社と契約できなければ、全国津々浦々の書店に本は行き届かず、それが地方なら地方であるほど、ベストセラーを作るのが難しいことを知っていたからです。そして、前職の実績や今後の見通しをしっかりと提示した大塚さんは、見事、重要な卸会社と契約を交わし明石初の全国規模の出版社となったのです。
ライツ社の従業員数はわずか6名。「地方で、そして少人数で、10万部20万部を売り上げることができてすごいね!」と言われることが多いそうですが、「やっていることは至って普通のことだ」と話してくれました。
「めちゃくちゃ新しいアプリを作ったり、画期的な経営モデルを実践しているとか、そんなことはないんです。ただ、とにかく良く考える。すべての作業において、なぜそうするのか、なぜそう思ったのかという理由を考え抜いています。ライツ社では適当に決まっていることは1つもなくて、すべての過程において、作っている本について誰よりも考えている結果が、本の完成度や売れ行きに表れているのかなと思います。」
ライツ社の合言葉は「writes」「right」「light」。書く力で、まっすぐに、照らす。ジャンルにとらわれることなく、自分たちが本当におもしろいと思う本だけを出版する。言葉を返せば「自分たちが本当におもしろい」と思わなければ出す本はありませんというほどの、熱意や意気込みが伺えました。そして、出版数は決して多くないが、地方の明石から、“誰かの人生を変える本”が続々と生み出されている一番の理由は、チームの誰一人欠くことなく、全員が「誰よりも考えている」からだということがわかりました。今後も、ライツ社から出版される本に乞うご期待です。
今回お話をお伺いしたのは、株式会社ライツ社代表取締役社長/編集長の大塚 啓志郎さん。取材でわたしが感じた、大塚さんが誰よりも“ずば抜けているな”と痛感した点は、やはり「考える」ということ。取材の最後に、会社を立ち上げてから今までで、「一番うれしかったこと」はなんですかとお伺いした時に、それを強く感じました。
なんと、質問直後からゆうに3分間はあったであろう“沈黙”の時間。初対面の相手に、しかも取材中にここまでの沈黙を続けられる人はこの世界にどれだけいるでしょうか。言うまでもなく、この“沈黙の時間”は“考える時間”。とても抽象的で安易な質問をしてしまった自分を恥じながら、悠久に思えるような時間を過ごした後、大塚さんは少し困ったような笑顔でこのように話してくれました。
「毎日が一番うれしいです。」
もし、質問直後に間髪入れずにこう答えられていると、わたしは間違いないなく、(ポジティブで能天気な人だなー。)と思っていたはず。しかし、大塚さんの答えは、3分間「考えに考え抜いて」出た答え。言葉の重みや、そこに含まれているであろう意図は図りしれませんでした。そして、続けてこのように話してくれました。
「日々手を抜かず、誰よりも考えて一生懸命やっていることで結果がついてきて、家族も周りのみんなも、幸せに過ごせているかもしれないというところが、一番うれしいかなと思いますね。“一番”って難しいですね!また考えてみます!」
大塚さんは、これからも自分がたくさん考えることで、家族や周囲の人、そしてたくさんの人を明るい気持ちにさせてくれるでしょう。みなさんも、大塚さんのように自分にとって価値のある有意義な「考える時間」について“考えて”みてはいかがでしょうか。