若きオーナー杜氏が守り抜く伝統と誇り
茨木酒造合名会社若きオーナー杜氏が守り抜く伝統と誇り
茨木酒造合名会社
明石市の西側、魚住というまちはその地名に相応しく、海沿いにあるのどかな場所です。見渡す限り穏やかな海と天気が良ければ四国も見えてくる、そんな海風漂うまちで、江戸末期から今日に至るまで明石の日本酒文化を守り続けてきた酒蔵があります。1848年(嘉永元年)に創業された【茨木酒造】は地元・明石に根付いた伝統ある酒蔵です。
最盛期は70もの酒蔵を有していたこの地は日本4大醸造地と言われるほど酒蔵が多い地域で、現在兵庫は新潟、長野に次いで3番目。播磨平野の温暖な気候に、その土地で育まれるお米、六甲山系の良質な水とお酒を造るには十分すぎる条件が揃った最高の場所。特に江戸時代からこの地の水は腐りにくいと評判で、赤道を超えても腐らなかったというほど。硬度が高く、そしてミネラルが豊富な水は酒造りにとても適した水でした。
【茨木酒造】は当代で9代目になる歴史ある酒蔵。初代の「茨木 清兵衛」から始まったこの酒造は変わり行く時代の中でも色褪せず、その伝統はしっかりと受け継がれ、また「茨木 清兵衛」の名も“当主の名”として時代を超えて脈々と受け継がれてきました。落語家や歌舞伎役者の芸名とは違い、代を受け継ぐその瞬間、戸籍上から「茨木 清兵衛」を襲名しているというから驚き。現在は8代目「茨木 清兵衛」のもと、いずれ9代目になるであろう「茨木 幹人」さんがオーナー杜氏を務めている。42歳の若きオーナー杜氏は【茨木酒造】を任されてすでに18年。父である8代目「茨木 清兵衛」は、自分自身がオーナー杜氏になるという事にとても寛大であったと話してくれました。
「酒蔵を継ぐことは、もはや幼少期から決まっていました。酒蔵が身近にある“一番の遊び場”でもありましたし、お酒が完成されていく工程をずっと見てきましたから。将来について父はあまり多くを語りませんでしたが、母は“好きな事をしていいけど、あなたに継いでもらわないと酒蔵はなくなってしまうんだよ”と言われて育ったので、初めから選択肢は与えられていなかったようなものですね。(笑)ただ、幼いころから物を作るということは好きでしたし、単純に酒蔵の仕事は面白い職種だなと興味があったのも事実です。高校卒業後は迷わずその道へ進みました。」
東京の農業大学醸造科へ進学した幹人さん。そこで同じ志を持つ全国の酒蔵の跡継ぎと出会い交流を深め、それが後に“人脈”というかけがえのない財産になりました。そして卒業後、同志達が他の酒蔵へ修行に行く中、幹人さんは地元明石へわき目もふらず帰り、若干24歳という若さで伝統ある【茨木酒造】の杜氏を引き受けることになります。
一般的に杜氏は外部の人間に任せることが主流であった時代に、子息が実家に戻り自分たちでお酒を造るということはまだ先の事。轍のないまっさらな道を進む決心や熱意はどこから生まれたのでしょうか。
「当時は私自身まだまだ青く若かったこともあって、長年、【茨木酒造】でお酒を造ってくれていた外部の杜氏に対して、手を抜いているんじゃないかという想いがありました。日当も高かったので…(笑)若気の至りといいましょうか。今考えるとそうではなかった。長年酒造りで培った経験から、要所を押さえた仕事をされていて、とても一生懸命頑張っていただいていたんだなと日々痛感します。あとは、自分自身が【茨木酒造】で出来る日本酒を心から美味しいと思っていました。ただ世間ではその魅力が知られていない。一番の原因は、日本酒は年配の方が飲むものだと思われている事。だから若い自分が造ることで、その間口を少しでも広げられるんじゃないかという想いがありました。」
現在、【茨木酒造】で造っているお酒は年間で200石。一升瓶でいうと2万本、4合瓶でいうと5万本。明石市の飲酒人口で考えると5軒に1本購入される量であるといいます。日本で一番大きい酒蔵は、一時間に6000本ほど造れるというので、大手の3時間分と生産量は決して多くはない。幹人さんと蔵人の2人で日本酒造りを手掛けています。
少人数で大変じゃないですか?募集はかけないんですか?とお聞きすると
「根性のあるやつは直接門を叩いて来いと思っています!それくらいの熱意がないとうちの日本酒は作れませんよ!」
ニコッと笑いながら目力のこもった顔で答えてくれたオーナー杜氏が印象的でした。
原料となるお米は日本で一番有名な「山田錦」と、「五百万石」を使用。大きな機械も設置せず、職人が手塩にかけて至高の一品を造りあげていることが【茨木酒造】の一番の魅力です。
「例えば大量生産されているコンビニにあるパンではなく、こだわりの町のパン屋さんで売っているパンのうように、“身近なものでいいもの”を造っていると考えてもらうとわかりやすいですかね。」と、とてもわかりやすく例えてくれました。
販売量の8割が兵庫県内(明石、神戸)で1割が県外、1割が国外ということで、ほぼ地元で流通しているそうですが、なぜ地元の流通にこだわるのかをお聞きしたところ、幹人さんは【茨木酒造】にかける想いをハッキリと話してくれました。
「全国で有名になるつもりはないんです。なぜかというと、地元明石にはおいしい食材が多いからです。明石の料理に寄り添うお酒、食を彩るためにうちのお酒はあると思っているので、自分のフィルタの中で明石の料理の味に合うお酒を造っています。杜氏を引き受けた頃の明石の地酒事情というのは、飲食店で飲める日本酒は、大手の有名銘柄、もしくは新潟のお酒で、明石には地元の地酒が置いていないことが多かったんです。だからまず明石の飲食店に認めてもらい、置いていただける“どこにも負けない地酒”を造りたいと思うようになったんです。」
現在、日本の飲酒人口の中で飲まれているのは、発泡酒・ビール・酎ハイが70%、残りがワイン・焼酎・ウイスキー・日本酒。日本酒は6%切っているため、そもそも目を向けてもらうこと自体が難しい。94%の日本酒を飲んでいない人口に目を向けるより、日本酒を飲んでいる6%、その中でも地元明石に居る方に、よりおいしい明石の地酒を飲んでもらう。定めた目標は明確でした。
地元での認知度を求めることに重点を置いた【茨木酒造】の想いは、明石をこよなく愛し、これからも地元の方に愛され続ける日本酒でありたいという、熱い願いが込められています。
毎年お米の状態も変わるし気候も違う。服やメイクに流行があるように人々の嗜好も変わる。長い年月の中で【茨木酒造】はいかに伝統を守ってきたのか。
「“日本酒は動かない時計であるべき”という考えもありますが、時代が進んでいく分変化も必要です。ただ変わることも大事だが“変わりすぎる”ことにも問題がある。このバランスを取るのは非常に難しいですが、自分自身、毎年楽しみ方は変化しているので、芯の部分を大事にしつつ、必ず変化は求めていきたいです。杜氏になって18年になりますが、慣れてくると最初のような慌てることは減ってきて、レベルアップはしてきます。しかし毎年1年生のような気分にもなるし、酒造りは半年間子育てをしているような感じです。毎年、おいしいものを造り上げることができているのは嬉しいし、なによりもおもしろいんです。」
全く変わらないものというのは時代の流れの中で淘汰されてしまうことも多い。時代を読み変化を恐れず前に進んでいくこと。そして常に前向きで新鮮な気持ちを保つ事が大事であることを教えてくれました。
今後について、
「明石は銀座や、京都の料亭でも扱われる鯛や、春にはいかなごのくぎ煮というように“食材のまち”であると思われている。良い食材があれば、それに合う良いお酒も当然あると思われる。これは歴史や食文化のある明石であるからこそ生まれる独自の文化と思っています。酒蔵がある=食のシンボルにもなると思っているため、明石の食文化の一役を担う存在であり続けたい。そして酒蔵に触れるということは、身近な日本文化に触れるとこと。落語会、お米作り、酒造りのイベント、マルシェもなども行っているので、是非気軽に酒蔵に足を運んでほしいです。」
最後に、【茨木酒造】の代表銘柄「来楽(らいらく)」について。
「来楽」と名付けられた由来は、孔子の「論語」にある「朋(とも)あり 遠方より来たる また楽しからずや。」意味は「人生最高の楽しみとは、家族や仲のよい友人と酒を酌み交わして歓談することである。」そして必ず“そこにある酒であるように”との思いでつけられているそうです。
明石で大切な人と食事をする際は、是非食卓に「来楽」を添えてください。
住所 | 〒674-0084 兵庫県明石市魚住町西岡1377 |
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電話番号 | 078-946-0061 |
営業時間 | 9:00~18:00 |
定休日 | 不定休 |
駐車場 | 有 |
HP | https://rairaku.jp/ |