病院という枠を超えて、地域に必要とされるコミュニティの場所になりたい。

医療法人社団 医仁会  ふくやま病院  理事長  譜久山 剛

 

「また来てね」といえる病院に

 

2016 年に新築移転したふくやま病院は、明るく開放的でおしゃれな空間が広がり、院内に は地域の方々が利用できる図書室やコミュニティスペースを設置。病気やケガの治療だけ でなく、健康なときから気軽に訪れることのできる場所、「また来てね」といえる病院を目指している。今回は、ふくやま病院を運営し、消化器外科の専門医として診療も行う理事長 の譜久山 剛さんに話をうかがった。

 

歴史が好きな少年 

 

兵庫県明石市で病院を経営する実家の長男として生まれた譜久山さん。笑顔が素敵で会話 上手な印象を受けるが、10 代までは内気な少年だったそうだ。

「私は3月生まれで体が小さかったこともあり、スポーツも苦手でした。読書が好きで、特に歴史や伝記が大好きでボロボロになるまで読んでいました。高校まで暮らしていた実家は、院内に住まいがあったので医療は生活に密着し、スタッフは家族のような存在でした」

医師の道を目指したのは、高校3年生のとき。父親から病院を 40 床から 100 床規模にしたいと相談を受けた。大きくするということは、子どもである自分や弟が借金を抱えることになる。母親は反対した。 

「当時、歴史関係か文章を書く仕事がしたいと考えていましたが、それでは飯が食えないと 父親に言われ、うまく丸め込まれました(笑)。とはいえ、押しつけられることなく、選択 肢を与えられて自ら決断し、現在は私が理事長、弟が院長に就任しています」 ちなみに譜久山さんは子どもに対しても強制はしなかった。長男は食の分野、長女は建築の 分野とまったく違う道を目指しているそうだ。

 

医師になってよかったこと 

 

母方の祖父も父親も消化器系の医師のため、「医者になるなら消化器」と当たり前のようにその分野を選んだ。長崎大学医学部卒業後に神戸大学消化器外科所属。兵庫県立姫 路循環器病センターと大阪府済生会中津病院、神戸医療センターを経て、2001 年からふくやま病院に勤務して外科・胃腸科・肛門科を担当する。これまでの医師生活の中で苦労されたことはなかったのだろうか。

「3年目、大阪府済生会中津病院に勤務していたときが一番ハードで、最も勉強になりました。胃や腸といった消化器は、いろんな疾患があり、分野が幅広いことが特徴です」 

また、外科医でありながら県立姫路循環器病センターに勤務していたときには内科医に代 わって内視鏡検査も行ったそうだ。

「医師は 20 代が修業期間。30・40 代でピークに達して 50 代からは下がっていくと思って いました。しかし、自分で言うのも何ですが、大腸カメラなど内視鏡検査がうまくなり、四半世紀経って一番好きな分野になりました。今は大腸肛門疾患の手術を多く手がけています」

医師の道を選んだことは後悔していないと断言する譜久山さんは、仕事の魅力について次のように語る。 

「大きな組織で働いていると、社会の中での自分の存在とは何か。立ち位置が見えなくなることがあります。けれども医療は直接患者さんと接するので、いいこともそうでないことも 反応がダイレクトに返ってくる。それが励みになっていますね」 

医療は大ヒット商品を生み出す開発先行型ではない。日々の患者さんとのふれ合いや診療 を重ねていくことが何よりも大切だという。

 

患者さんとの意思の共有を図る 

 

譜久山さんが目指すのは、関わったすべての人が「ここに来てよかった」と思ってもらうこと。「できる限り、自分で診よう」をポリシーに掲げるなか、どこまでを自分の領域にすべ きかの判断が難しいという。 

「私は胃や腸などの消化器が専門ですが、救急では整形外科の患者さんが多く運ばれてき ます。特にコロナ禍では受入先を探すことが難しく、『この病院が十数件目です』と言われることも。専門外でもレントゲンくらいは撮れる。一晩様子をみて翌日、平日の日中であれば診てくれる病院はありますし、知人の専門医を紹介することもできます。自分が診れない場合でも必ずパスを回すようにしています」

また、自分の考えにこだわり過ぎない。患者さんに押し付けることのないように心がけているそうだ。

「例えば胆石で痛みをなくしたいと要望されたとき、手術を勧めると『麻酔が怖い』『長期入院は困る』と言われる場合があります。ゴールは一緒でもその方法は多種多様。もちろん、 命に関わることであれば説得しますが、そうでなければ自分の意見に固執せず、患者さんにとっての最善を考えて意思の共有を図ります。複数の医師の意見を聞くオープンな環境も 大切だと思いますね」

 

緩和ケアの専門病棟を設置 

 

ふくやま病院では、長年緩和ケアに取り組み、新築移転時には緩和ケアの専門病棟を設置。 都市部の大病院では一般的だが、中規模で急性期と緩和ケアの2病棟体制を取っている病院は珍しい。 

「外科医は手術で治すことが基本です。けれども大阪府済生会中津病院時代の上司は、手術 から内視鏡、緩和ケアもすべてできるスーパーマンのような人でした。緩和ケアはやればやるほど患者さんの状態がよくなる分野。その必要性を実感し、もっと手がけなければいけないと思いました」 

譜久山さんがいう「よくなる」とは、QOL(生活の質)の向上のこと。がん患者さんと家 族の要望を聞き、苦痛を取り除くだけでなく、「生きる喜びに出会える場」でありたいと考える。そのためにコミュニティホールや図書室を設け、新たな知識に触れたり、多くの人と の関係を築く場を提供している。ちなみにこのスペースは患者さん以外も利用ができ、健康 教室の開催をはじめ、地域のみなさんに展示やワークショップ、会議の場としても開放している。 

「新しい病院を建てるとき、自治会のみなさんに集まっていただき、この地域に足りないもの、必要なものを聞いたところ、『病院は避難所になれるのか』という質問を受けました。ハザードマップで確認すると明石川に近い病院周辺は氾濫リスクが高いエリアだったの です」 病院は地震に強い構造にし、災害時にはコミュニティホールを避難所として提供する。そんな地域の大きな役割も担っている。

 

病院と在宅の中間的な役割を 

 

高齢化が加速するなか、ふくやま病院では専門的な治療が終わったのち、リハビリテーショ ンや在宅医療・介護サービスを提供し、自宅で安心して過ごせるように支援する。医療は病 院の中だけでなく、地域という面で完結するもの。さらに従来の「待つ医療の時代」から変化していると感じているそうだ。 

「足腰が不自由な高齢者のみなさん全員に病院に来ていただくのは難しい。かといって一 人ひとりのご自宅を隈なく訪問することはマンパワー的に無理があります。その中間的な 役割を担っていきたいと考えています。例えば西明石の旧病院跡地で健康講座やトレーニング、減塩食の料理教室などを開催し、みなさんに集まっていただく。病気を予防するため の取り組みを強化するのもひとつの方法です」

さらに、昔ながらの下宿スタイルで高齢者と若者が一緒に暮らしながら助け合う仕組みが できないかと考えているそうだ。 

「高齢者が老健施設やサービス付き高齢者向け住宅に入居するのは、足腰が弱くなって2 階に上がれない。1人でお風呂に入れないことが主な原因。また、1人で住むには一軒家は広すぎます。例えば1階は生活しやすいようにバリアフリーにして、2階は若者に住んでもらい、ちょっとしたことは面倒を見てもらう。若者にとっても安い家賃で住めるメリットがあります。そんな人のマッチングが図れたらいいと思います」 

高齢の親を子どもが介護するのが当たり前だが、仕事をしていたら毎日面倒を見ることはできない。「依存」の対義語は「自立」ではなく、たくさんの人に依存すること。頼れる人 が多いほど一人当たりの負担は軽減し、継続していくことが可能になる。そんな助け合い文 化が地域に浸透させるための一助になりたいという。

また、譜久山さんは病院主体ではなく、未来から逆算して現在取り組むべきことを考えるバックキャスティングの発想にも注目する。 

「医師がこんなことを言うのも何ですが、医療の進歩により 20 年 30 年後には最低限の薬を飲み、病院に通わなくてもいい世の中が理想です。それを実現するために明石には何があればいいのか。もしかしたら病院は必要なく、新しいカタチが求められるのかもしれません」 

そんな大胆な発想で未来の地域づくりを考えている譜久山さんは、これからも明石になくてはならない存在として新たなことに挑戦していくだろう。